見出し画像

イワナの思い出(秘密の場所)

吉澤英晃

人気のない山の奥深く。平らな大地にテントを張って、ここを一晩の宿とした。傍らには沢が流れていて、平たい地面は5、6人が車座になって焚き火を囲めるほど広い。まさに極上のテント場である。

嫌になる前に、あたりに落ちている薪を拾い集めて火床をこしらえた。朝晩の調理に使う薪も拾い集めたら、やるべきことは一段落だ。

日はまだ高く、夕飯には早い。愛用の釣り竿を手に取り、さっそく付近の偵察に出発する。

ポイントの目星はついていた。テント場のわずか上流に、小さな滝壺をもつ小滝がかかっているのだ。

きっと、あそこにいるはず。

腰を屈めて、離れたところから、その滝壺の中をじっと見る。すると、予想は見事に的中し、ゆらゆらと揺れる細長い魚影を視線が捉えた。

一匹、二匹、三匹。まるでプールのようなよどみの中を、イワナが気持ち良さそうに体をくゆらせている。

後ろを振り返り、テント場で荷物を整理しているパートナーに、こっちに来るように声をかけた。

「どうしたの?」
「あそこ。イワナが泳いでいるのが見えるでしょ」
「本当だ。たくさんいるね」
「絶対釣れますから、竿を振ってみたらどうですか?」

パートナーがテンカラで釣りをするのは今回が初めて。右も左もわからないビギナーに、簡単に竿の振り方からレクチャーする。

まず、後方に勢いよく竿を振り上げる。次に、タイミング良く今度は前方に竿を振り下ろす。振り上げと振り下ろしの角度は時計の2時、10時と覚えると分かりやすい。

「こんな感じ?」

見よう見まねで竿を振るパートナー。竿の先端から聞こえてくる風切り音は、「シュン、シュン」と心許ない。

「もう少し勢いよく。竿を貸してください」

すばやく振り上げて、一瞬の間を置いたのち、再びすばやく振り下ろす。「シュッ、シュッ」と、こんな感じだ。

「やっぱり難しいですね」

キャスティングでパートナーの心が折れかかっている…。完璧は求めず、とりあえず毛鉤を落としてみましょうと提案した。

「腰を屈めて、静かにそーっと近づいて行って、イワナがいるあたりに毛鉤を落としてください」

じわりじわりと滝壺に近づく様子は、まるでターゲットの寝首を狙う忍者のよう。新米忍者は射的距離に達すると、慣れない手つきで竿を振った。

弱々しい風切り音の後に、ぼちゃっと毛鉤が着水する。もちろん、イワナは食いつかない。何度も何度も竿を振るが、これ以上やるとイワナが逃げてしまいそうだ。

肩を落とすパートナー。でも、諦めるのはまだ早い。次なる作戦を小声で伝える。

しばらくして、パートナーは小滝の落ち口に移動。それから、岩の影に身を潜めて、滝壺に向かって竿を伸ばす。竿を上手く振れないのなら、上から糸を垂らせばいいのだ。これならテクニックは要らない。もはや縁日の金魚釣り状態だが、魚が釣れればスタイルはどうだっていい。

釣り竿の先端から、一直線に糸が垂れる。その末端に括り付けた毛鉤が水面に触れると、水中のイワナがビクッと反応した。

「食った!引いて!」

大声を出せないので胸の内で叫んでみるも、当たりの感覚を知らないパートナーは、見事にチャンスを逃してしまう。それでも、ここにいたイワナはよほど空腹だったのだろう。疑う様子もなく何度も何度も毛鉤に食いついてくる。

そうこうしているうちに、ついに竿がグググとしなり、これには流石のパートナーも反応して、すばやく竿を引き上げた。

水中から毛鉤に食いついたイワナが飛び出し、竿から伝わるイワナの生命力に喜びながら、パートナーは満面の笑みを浮かべている。

「やりましたね!初イワナおめでとうございます」
「何度か食いついてるの分かったんだけど、やっと釣れました。でも、小さいね」

釣り上げたイワナはまだ子供のようで、こじんまりとして大きくない。この子はリリースすることにした。

滝壺に帰っていったイワナは一瞬のうちに姿をくらまし、翌朝になっても二度と現れることはなかった。

2022年6月25〜26日

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?
気軽にクリエイターの支援と、記事のオススメができます!
吉澤英晃
はじめまして、山岳ライターの吉澤です。「PEAKS」「ヤマケイオンライン」「YAMA HACK」「山と溪谷」などに寄稿しています。記事を通じて少しでも自然に興味を持って頂けたら嬉しいです。お仕事の依頼はこちらまで:info.yszwhdak★gmail.com(★→@)