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60歳になって思うこと、死が近くにある病気をしたから思うこと

60歳になると、残りの人生でやりたいこと、それは使命だからと感じ、ぜひ叶えておきたいことを、あれと、これとと考えてしまう。

50歳の時は、まだ先は長いと思って、そんなに深くは考えなかった。

80歳まで生きているとしたら、まだ30年もあるし、日本人女性の平均寿命より少し長い90歳まで生きるとしたら、50歳以降、なんと40年もあると、そんなふうに思っていた。

しかし、いよいよ60歳の還暦を迎えるとなった今年の初めに、乳がんを告知され、60歳の誕生日を過ぎた夏に、肺血栓塞栓症に急襲され命の危機にさらされたら、また、残りの人生でやること、叶えたいことは、あれと、これとと、日々考えてしまうように。

まさか、こんなに「死」が間近にある体験をする還暦の年になるとは思っていなかった。

私は、神様か、仏様か、とか、宗教にも、宇宙のなんとか、とか、この世のなにそれ、とか、スピリチュアルなことにも帰依していないけれど(そっちに依存することで全体を見なくなり、失うことのほうが多いという矛盾を感じるようになって)、目に見えないけど、きっとある何かへの感度は鋭敏なほうだと思っている。

そういう、目に見えないけど、だけど何かある何かが、残りの人生でやることは、あれと、これと、とカウントさせてくる。

一つひとつ、やっていこうか。

とりかかれば、何か、ノリのようなものが出てきて、そこに乗っかって、進んでいく道が自然と開かれていくことは、今までの経験でわかっている。

どうにか、そこに乗っかりたい。

絶対に乗っかりたいコースが、3つくらいある。

こんなこと考えてしまうのは、明日から復帰する外勤のお仕事は、ほんとうは、やっていたくないことだから。

お金をもらっているし、ものすごい手厚い福利厚生を受けているのにね。

それなのに、その仕事をしている時間も、本当にやっていきたいことに充てたいと思うのは、わがままで、ぜいくなことかな。

50歳の時だったら、そこまで考えなかっただろうけど、60歳になって、死が間近にある大病をすると、こんなに違うのかと、つくづく思う。

でも、それでよかった、とも思う。

漫然と過ごしていってしまうかもしれなかった60歳以降を、きちんと考えさせてくれているのだから。


※写真は、かつてうちの庭に存在していたお花たちと、かつてよく通っていたバーの、ステンドグラスと装飾ガラスのドアです。


肺血栓塞栓症の発症から入院、入院生活、退院後の日誌を綴るといいながら、なかなか始まりませんねぇ。笑

書き残してきたいことが、どんどん出てきてしまうので、それを先に記録しておくか、その日誌を記しておこうか、毎日、迷っております。

明日、2カ月ぶりの外勤のお仕事に。
実は、あまり乗り気ではないです。
9月中、まずは短時間勤務の1カ月ですが、
それでも、体力持つかな?という不安も少し。


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