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神田伯山の興行に思う、物語りの必要

噺家は舌耕する。仏教者はどうか?

講談師の神田松之丞改め六代目神田伯山 真打昇進襲名披露興行は、都内の寄席を連日超満員にする大賑わいとなっている。
2月18日にこの歴史的な興行に立ち会うことができた。朝から整理券を取りに並び、日中は寺で仕事をし、夜に寄席に戻る。前夜から並ぶ猛者もいたというから、この祭りに参加したものは大同小異、筆者と同じく不規則な1日を送ったことになる。それだけに、会場の熱気にはすさまじいものがあった。

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演目の中盤、出演者が紋付袴で横一列に並び、今般誕生したあらたな真打に激励のことばを述べる「口上」が披露された。なかでも、上方落語の顔でもある桂文珍師匠の口上は、とりわけ印象的であった。聞き覚えだが以下に紹介したい。


--噺家は「ぜっこう」すると申します。「のうこう」という言葉がありますが、、、これは「濃厚」ではありません、お百姓さんが畑を耕す「農耕」の方です。その農耕にちなんで、噺家は舌でもってお客さまの心を耕すという「ぜっこう(舌耕)」であります。真打に関しては、100年に1人の逸材と申されておりますけれども、今後なお一層、お客さまの舌耕に励んでいただきたい。

その後の文珍師匠の一席も、はじめて拝聴したが肩の力の抜けたそれはそれは名人芸の境地を思わせるすばらしいもので、それもあいまって、この言葉は胸に残った。

仏教者は、私は、人々の心を仏の教えでもって耕す「仏耕」しているだろうか?と。

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人々は、物語りを求めている

連日の大賑わいを神田伯山ティービィーで見ながら、「人々は、物語りを求めている」と、かねてよりの実感が核心に変わっていった。

うすうす感じていたことが決定的となったのは、さきの年末年始の大作映画「スターウォーズ/スカイウォーカーの夜明け」と「アナと雪の女王2」が、ともに“自らのルーツを獲得していく物語”であったことにある。
どちらもディズニー提供、世界的に影響力のあるこの2作が、最新のテーマとして「ルーツ獲得の物語」を掲げたことは、“多民族・多文化共生の中での自らの座標の確認”が、切迫した問題であるということを提示して見せた。

この2作では「なつかしさ」や、「自らの安心立命はどこに見出せるのか」が裏テーマだったように思う。それは、SNSの普及によって情報がザッピングされ、他人の人生を覗き見ることができる(ような気がする)現代において、ひらたく言えば、他人の物語よりも自分の物語を生きよう。というメッセージだった。自らの人生を生きよう。という強いメッセージだ。

そこへきての、日本での講談ブームである。この国には、郷土の芸能として講談があったじゃないか。というところだろうか。

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自らの物語を生きたい

他民族・多文化共生の中での自らの座標を確認する、という文脈において、落語や講談といった伝統芸能への関心が高まるというのは、日本が他民族・多文化共生のフェーズに入っていることの査証だろう。

伝統芸能はこの島国に住まってきた人々にとって多くは「なつかしさ」を感じられるもので、多くは「自らのルーツを共にできる物語」だからだ。不確定で不安定なときほど、それらは難破船にとって錨のごとく、自らの重しとなってくれるからだ。

先行き不透明さが極まれるこの現代にあって、やはりわれわれは“自らの物語を生きたい”のだ。エンディングノートも然り、ルーツを確認し、獲得し、自らのオリジナルな物語を紡いでいきたいのだ。

現代に仏教者に求められているものは何か。それは「なつかしさ」を語ることだ。「ルーツを共にできる物語」を語ってみせ、そこから聴衆が「自らの安心立命はどこに見出せるのか」を思考できる機会だ。
仏教者にはいま、伝統的な仏教をしっかりと物語る力が求められている。「仏耕」してもらえるような機会を、人々はまさに望んでいる。


Text by 中島光信(僧侶・ファシリテーター)


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