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マイノリティが語るストーリーは本質的に人を動かすことが出来る

こんにちは。Ritaです。

世の中の流れが、どんどん変化している今。その中で、とても良い現象が起きていると、個人的には感じています。それは・・・

「価値あるマイノリティが評価される世の中になってきていること」

戦後は日本再起のためにさまざまな「スタンダード」が定められ、そのスタンダードな生き方を手に入れられることが、「幸せ」であり「正解」とされてきた。そして、スタンダードな生活を手に入れた人がメジャーとなり、それ以外の人々はマイノリティとして生きなければいけなかった。わかりやすいのは、学歴。アメリカや韓国の方が更にその傾向が強いとは思うけれど、日本もなかなかだと思う。大学に入りそこねたら、その後就職できる先はかなり限られる。(起業する賢さと気力がある人は別であるけれども。)

他国に比較して階級社会でなく「努力すれば成功できる」という形になっている点は、素晴らしいと思う。しかしながら、やはりある程度、親に財力がないと進学できないという場合も多い。

財力がないから大学に進学できていないけれど、実際には優秀な思考を持ち、人としても素晴らしい資質を持つ人達に私は出会ってきた。そのたびに、「この人達の方がよっぽど知識もあって優しくて優秀なのに、なぜ私の方が仕事的には成功していて、多くの報酬をもらっているのだろう?」と感じてきた。なんとも申し訳ない気持ちというか、自分はある程度成功しているとはいえ、自信をなくすというか、「あぁなんかそういう仕組みでうまくいったから今ここに居るだけかな、それって本当に不平等だ。」と思う事が多かった。

もちろん、世の中は不平等。だってそういう物だから。どんな環境に生まれるか、健康に生まれるかはまさに「ガチャ」であり、受け入れるしかない運命だ。しかしながら、世の中の仕組みで、「マイノリティ」として生まれてきた人たちが、活躍するチャンスが少なすぎる。そう感じてきた。

学歴があって大企業に入っている人が、全員優秀か?といわれればそうではないと思う。もちろん、優秀な方は多いとは思うけれど。その一方で、学歴なんてなくても、実はとても心優しくてコミュニケーションが上手で、知識豊富な人たちはいる。そういう人たちは、本当は世の中を良い方向に変えられる人たちなのだ。私は強くそう思う。

そういう人たちは、大概「いいひと」だ。そして謙虚でもある。だから、自分は学歴がないから・・・とかそういう本質的にはどうでもいい理由で、自分の能力に気づかず諦めた人生を送ってしまう。それは、本当に本当にもったいない。しかし、今までは、社会がそう思わせてきたのが事実だ。

ところが、ここ数年になってSNSを通じた個人の発信が影響力を持つようになってきた。今まで影響力を持つと言われてきたオールドメディア(テレビ・新聞など)からの発信より、個人のインスタやツイッターからの発信が人々の関心を集めるようになってきた。理由は明白で、オールドメディアは「意図的に作られたもの」だから。リアリティがない。嘘が多い。今の時代、人々は、「リアリティ」を求めている。どんどん本質を求めるようになっている。そんなとき、たった一人の「普通の人」が発信するその人の日々や考え方は、なによりも刺さる。所謂「エモい」という言葉が生まれた背景には、このような事があるのだろう。

だから、今は個人の魅力が伝わりやすい。今までは誰かに定義された「優秀なこと」に当てはまらないと、気づいてもらうことは難しかった。でも、今はSNSという武器がある。面白かったり、優しかったり、ポジティブな人がマイノリティであっても影響力を持つことができる時代。いままで「マイノリティ」であったがために、活躍できなかった人たちが活躍できる時代がきたのだ。本質で勝負ができる。

そしてタイトルの真意となるが、マイノリティがマジョリティを淘汰する時代が来る。なぜなら、マイノリティの人は圧倒的に苦労をして、努力をして、「ストーリー」をもっているから。今の時代、ストーリーがない人間はつまらない。(もちろん、マジョリティにカテゴライズされる人たちもストーリーをもっている人もいるし、そうでない人もいる)

誰かのツイートでみたが、その人の旦那さんはいわゆるお金持ちの家庭で、学歴がすべてという価値観で育ったらしい。だから、話す内容はいかに自分の学歴が素晴らしいか、どこの大学が優秀かばかりで、とてもつまらないらしい。もちろん、優秀な大学は素晴らしいと思う。ただ、その本質を捉えてそこにいる人と、ブランド名に喜びを感じてそこに居る人とでは大きな違いがある。この旦那さんは、後者なのだろう。

究極を言えば、どこで何をしていようと、お金がある環境で育とうと、そうでなかろうと、本人が本質的な魅力をもっていないと意味がない時代がくるということだ。そして、本質に気づくには、多少なりとも苦悩や困難との出会いが必要だと思う。苦しめばいいというわけはないが、やはり悩むというのは成長に必要な事なのだ。困難を乗り越えてこそ、気付けることがある。それは人間関係でもいいし、金銭的なことでもいいし、恋愛でもいい。仕事でもいい。そしてマイノリティの人たちは、マイノリティであるだけで困難にぶち当たっている。だから、アドバンテージがあるのだ。悩みながら、もがきながら、生きる事は素晴らしいことだと思う。

私は、今からの時代にすごくワクワクしている。人を幸せにできるような資質をもった人が、ちゃんと幸せになれる時代が近づいている。息子が生まれた今、世の中がそのように変化していっていることがこの上なく嬉しい。

2020.9.25追記

こちらのnoteをとてもポジティブな面だけ見て書いたのですが、ある方の記事に出会ったのと、果たしてポジティブなのか?という意見に触れ、書き足しています。

まず、この動画で山邊鈴さんという高校3年生が書いた、「この割れ切った世界の片隅で」というnoteを知りました。

彼女はまさに、「マイノリティ」であった。そしてリアルだった。自分が知らない世界だった。正確に言うと、うっすら知っていたけど深くは知らない世界。これが現実。見事に分断されている。

彼女は聡明で意欲もあり、そして抽象的な話しをする大人の言っていることも理解し、即返答できる賢さを兼ね備えている。まさに「活躍すべき」人だと思った。そして、noteというプラットフォームを通じて彼女の言葉は多くの人に影響を及ぼし、ある一定の支持を集めるネットニュースメディアにゲスト出演も果たした。

「あぁ、やはり今の世の中は良い方向に動いていっている」そう感じることもできた。しかし。この対談の中での落合陽一さんの意見は、「今までも同じような話しをずっとしてきたし、多くの人が問題を提議してきたけど、なぜ今これがバズっているのか?」という事。つまり、「このバズに本当に意味があるのかな?」と言いたいのではないかと思う。

今までも、多くの人たちが同じように声を上げて、その時その時でバズったりバズらなかったりしていたけど、結局何も変わっていないよね。と。ひとつのその時の感情として消費され、気持ちが収まったら皆またすっと日常に戻っていくのではないか?と。ツイッターでも、フォロワーさんからのコメントで、「どうせ自分とは無縁だよと思ってしまう子も多いのでは」と意見をいただき、確かに。と腕をくんでう〜んと悩んでしまった。

ただ、思うこと。日本の長い歴史を振り返ると、今は市営住宅に住む子供でも、高校まで行くことができる。戦前はそうであっただろうか。そう思うと、やはり緩やかにではあるが格差は是正されてきていて。そして日本は所得水準が国際的には低けれど、「家がない人」はかなり少ない。

だから、長い目でみたら、生活や教育の格差も少しずつ緩和されていく可能性はあるのではないか。今この時点で達成できていないだけで、少しずつ良くなっているのではないか。わたしはSNSが発達し個人の意見が注目されやすくなった今、やはりこの可能性の波をうまく乗りこなし、マイノリティとされる方々や、マジョリティにおいても今まで「難しい」とされてきたことも、「叶えられる方法はないか?」と模索をする際の「方法」としてSNSをうまく使っていって欲しいと思う。「ワーママ」も程度は違えどマイノリティではあると思うので、個人での発信をうまくしながら、自分が納得するような生き方をしていきたいと思う。

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