霧の中のメモリーズ

ころころと  小石流るる  谷川の 水のきらめき  青空の滝

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マガジン

  • 日本コロムビアの谷川恰と大滝詠一(連載一覧)

    ナイアガラレーベルの日本コロムビア移籍に尽力し、1975年から最初の2年間、コロムビア時代の大滝詠一を担当したディレクター谷川恰(つとむ)氏の物語です。

最近の記事

「日本コロムビアの谷川恰と大滝詠一」修正・追加等について

2022/5/4 「<一言コラム>日本コロムビア・グランド・スタジオ・ロビー (第9回関連)」の修正("QX"の説明の変更) 2022/11/26 「<一言コラム>ABC会館ホール (第8回関連)」、「<一言コラム>TBS "G"スタジオ (第13回関連)」の画像追加

    • あとがき

      あとがきにかえて 谷川氏と初めてお会いしたのは、2016年10月25日、三木鶏郎の十三回忌「鶏郎縁者談笑集会~えんあるものはつどいてわらえ」の席だった。 アルバム『GO! GO! NIAGARA』のライナーに、"谷川恰"という名前が掲載されていることを偶々憶えていたことから、話は弾んだが具体的な話にまでは至らず、詳しい話を伺う機会が得られたのは1年後となった。 谷川氏の話には、これまでナイアガラ・ファンとして培ってきた知識と心地よいズレがあったが、コロムビア時代のナイア

      • 「日本コロムビアの谷川恰と大滝詠一」 第19回 Epilogue Part2 ゆらりろの唄

        日本レコード大賞 1986年(昭和61年)12月31日に日本武道館で開かれた第28回日本レコード大賞では、大瀧詠一作曲の小林旭「熱き心に」が金賞をとった。 同じ年の日本レコード大賞では、企画賞として、6枚組のLPボックス『三木鶏郎集大成』も受賞している。 このLPボックスには、宮城まり子の「毒消しゃいらんかね」やダーク・ダックスの「ゆらりろの歌」など、三木鶏郎の手掛けた音楽がレコード会社を問わず多数収録されており、本人も“生涯の「夢」の再現”であると語っている。 三木

        • 「日本コロムビアの谷川恰と大滝詠一」 第18回 Epilogue Part.1 西武球場コンサート

          A LONG VACATION ナイアガラ・レーベルが日本コロムビアとの契約を終了し、谷川は大滝と頻繁に会うことはなくなった。それでも大滝は連絡をくれた。 『ア・ロング・バケーション』が発売された時にも、大滝から報告があった。 「谷川さんの家まで持ってきました。」 大滝が車を運転するのは、コンサートなどで全国に出かけるのに免許をもっていなかった頃とは、全く隔世の感がある。 「わざわざ、もういいよ。今は、お前はソニーの人間になったんだから。」 大滝がコロムビアを離れて3年

        「日本コロムビアの谷川恰と大滝詠一」修正・追加等について

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        • 日本コロムビアの谷川恰と大滝詠一(連載一覧)
          29本

        記事

          <一言コラム>シャルル・オンブル楽団 (第17回関連)

          ”シャルル・オンブル”という楽団の名前を聞いたことがありますか? Charles Ombre et son Orchestre、あるいは、シャルル・オンブル楽団。 楽団名だけでピンとくる人は少ないかもしれませんが、1960年代から70年代の日本コロムビアには、シャルル・オンブル楽団なる名前の録音が残されています。 ナンシー「いつわりの恋」、三浦礼子「渚に消えた恋」、キャラクターズ「港町シャンソン」など、谷川氏が発足から関わったDENONレーベルの初期シングル もそうです

          <一言コラム>シャルル・オンブル楽団 (第17回関連)

          「日本コロムビアの谷川恰と大滝詠一」 最終回 第17回 『カレンダー』と別れの季節

          谷川は、大滝詠一から次のアルバムは"カレンダー"をモチーフにしたいと持ち掛けられた。一緒に企画を練り、レコーディングをはじめたところで人事異動を告げられた。 カレンダーの12曲 谷川が大滝詠一から「カレンダーをモチーフに、正月からクリスマスまで歌にしたい」という企画を持ち掛けられたのは、1977年夏前、エルヴィス・プレスリーが亡くなる8月よりずっと前のことだった。 「カレンダーというアルバムを、1年の締めに作っておきたいです。」 「カレンダーということは、12曲の曲を作

          「日本コロムビアの谷川恰と大滝詠一」 最終回 第17回 『カレンダー』と別れの季節

          <一言コラム>谷ヤンとヨーロッパ・ツアー(第16回関連)

          谷川氏によると、日本コロムビアは1960年代後半から1970年代にかけて、「コロムビア所属のアーティストとファンを引き連れて、ヨーロッパにツアーに行くキャンペーン」を行い、谷川氏自身も何度か手伝ったそうです。 「谷ヤン、お前、英語しゃべれるだろう。ヨーロッパ行ってくれ。」 「えー、また俺がやらされるんですか。」 「めったに行けるところではないだろう。いいじゃないか。」 「うーん、部長命令なら言われれば行きますけれども。給料上げてくれたら。」 出張は、上司とのこんなやり取りで

          <一言コラム>谷ヤンとヨーロッパ・ツアー(第16回関連)

          「日本コロムビアの谷川恰と大滝詠一」 第16回 ファースト・ナイアガラツアーと「青空のように」

          谷川は大滝に全国ツアーを要請した。1977年6月に行われたファースト・ナイアガラ・ツアーである。同じ頃、大滝詠一名義での移籍後初のシングル曲「青空のように」が発売された。 布ヤンと谷ヤン 「谷川さん、布谷さんがお待ちですが、どうします?」 デスクで仕事をしていた谷川のもとに受付から連絡がきた。 「うーん。今、降りていくから、待ってもらっておいて。」 受付の女性に話をして、谷川が階段を下りていくと、布谷文夫がエレベータ前で待っていた。 布谷は、昨年「ナイアガラ音頭」を唄

          「日本コロムビアの谷川恰と大滝詠一」 第16回 ファースト・ナイアガラツアーと「青空のように」

          「日本コロムビアの谷川恰と大滝詠一」 第15回 ガールシンガー、シリア・ポール登場

          大滝が『CMスペシャル』の次に手がけたのはガール・シンガーだった。 ニッポン放送の亀淵昭信に取りついでもらい、シリア・ポールのレコーディングが実現した。谷川は、またしても産みの苦しみに付き合うとともに、薄紫のヴェールのかかった『夢で逢えたら』のジャケット作成を手伝った。 シリア・ポール起用 フィル・スペクターが手がけたようなサウンドで女性シンガーのアルバムを作りたいとの企画を、大滝は以前からもっていた。 来年作成する4枚のアルバム・ラインナップの1つとして、具体的な相談

          「日本コロムビアの谷川恰と大滝詠一」 第15回 ガールシンガー、シリア・ポール登場

          「日本コロムビアの谷川恰と大滝詠一」 第14回 『NIAGARA CM SPECIAL Vol.1』発表

          大滝詠一のCM作品集。大滝がエレック時代から温めていたアイディアが日本コロムビアで実現した。新曲「サイダー '77」が録音され、谷川はキーボードに井上鑑を推薦した。 10インチ盤 「次のCMスペシャルですが、できれば10インチ盤にしたいと思いますが、どうでしょう。」 「10インチ盤は規格が違う。工場側がすぐ対応できるわけないだろう。」 次に発売するCM作品集は、楠トシエのCM集と同じ10インチ盤にしたい、という大滝の提案を、谷川は、にべもなく断った。 川崎にある工場は

          「日本コロムビアの谷川恰と大滝詠一」 第14回 『NIAGARA CM SPECIAL Vol.1』発表

          <一言コラム>TBS "G"スタジオ (第13回関連)

          1960年11月から1961年10月にかけて、TBSテレビ局の第3次増設工事が行われ、新たなスタジオ(Gスタジオ)が完成しました。 このGスタジオは、広さが876平方メートル(265坪)、高さも8mと非常に高く、これまでのスタジオの1.5倍となる日本最大の大空間で、英国マルコーニ社製4インチ半のイメージオルシコン・カメラを4式配備し、カラー放送なども実施できる、解像力の鋭い最新技術を結集した施設となっていました。 コロムビアは、TBSが1951年にラジオ東京(JOKR)と

          <一言コラム>TBS "G"スタジオ (第13回関連)

          「日本コロムビアの谷川恰と大滝詠一」 第13回 ナイアガラ担当2年目の谷ヤン

          谷川にとって、この1年は朝から晩までナイアガラの日々だった。『トライアングル』と『GO! GO! NIAGARA』の2枚のアルバムを発表することができ、長嶋ジャイアンツの応援にまでつきあった。そして、谷川は次のアルバム『CMスペシャル』の企画を会議で熱弁した。1976年11月、日本コロムビアのナイアガラは2年目に突入した。 Gスタジオ 「谷ヤン、ちょっとGスタ行く?」 「わかりました。ちょっと1時間待っていてくれませんか。企画書を書いて判子もらっちゃうから。」 上司からの

          「日本コロムビアの谷川恰と大滝詠一」 第13回 ナイアガラ担当2年目の谷ヤン

          「日本コロムビアの谷川恰と大滝詠一」 第12回 『SUMIKO LIVE』

          谷川は、大滝詠一の担当をする傍ら、やまがたすみこのプロダクションについても手伝うよう依頼された。『SUMIKO LIVE』はそんな背景の中で発表されたライブアルバムだった。 渋谷公会堂のゲスト"やまがたすみこ" 「やまがたすみこも手伝ってくれないか。」 「今、俺がナイアガラをやっているのを知っているでしょう。毎日、朝から晩まで、遠い福生まで通っているんだよ。今はできない。」 谷川は、やまがたすみこの音楽制作やプロモーションにも関わってほしいとの会社からの依頼を谷川は、いっ

          「日本コロムビアの谷川恰と大滝詠一」 第12回 『SUMIKO LIVE』

          「日本コロムビアの谷川恰と大滝詠一」 第11回 ついに『GO! GO! NIAGARA』発売

          ようやく『GO! GO! NIAGARA』が発売された。谷川はジャケット製作、旧譜再発、パンフレット作成、広告出稿などの準備にいそしんだが、あの手書きのライナーノーツまで自身で書くこととなった。 発売準備 『GO! GO! NIAGARA』発売に向けて、谷川は準備に余念がなかった。 アルバムの表面のジャケットは、大滝がWORKSHOP MU!!の中山泰に頼み、だいぶ前に完成している。裏面に使う写真は、カメラマンの常世昌利に依頼して撮影してもらったものだ。常世は、谷川がプ

          「日本コロムビアの谷川恰と大滝詠一」 第11回 ついに『GO! GO! NIAGARA』発売

          「日本コロムビアの谷川恰と大滝詠一」 第10回 難産の『ゴー!ゴー!ナイアガラ』

          1976年3月25日の『ナイアガラ・トライアングル』に続き、『ゴー!ゴー!ナイアガラ』は移籍第2弾として企画された。当初、6月25日の発売を予定していたが、数度延期を繰り返し、10月25日発売になった。谷川はホーンセクションのアレンジも手伝った。 発売延期 モントリオール・オリンピックが終わって1週間が経った。体操では日本人の金メダルも出て、日本中が朝晩、TVに釘付けとなり、オリンピック一色となって浮かれていた。 そのオリンピック期間中も、ずっと谷川の気は晴れなかった。

          「日本コロムビアの谷川恰と大滝詠一」 第10回 難産の『ゴー!ゴー!ナイアガラ』

          <一言コラム>日本コロムビア・グランド・スタジオ・ロビー (第9回関連)

          1970年代、日本コロムビアの本社ビルのすぐ隣には、レコード録音用のスタジオ棟「Grand Studio(グランド・スタジオ)」が併設されていました。 スタジオ棟の地下1階には社員食堂、駐車場、1階にはロビー、2階に録音部(事務室)や小さな第3スタジオ、テープ編集室やカッティング室、その上の3階から4階にかけて吹き抜けでグランド・スタジオと第2スタジオ、4階はエコー・ルームや1スタの観覧席がありました。 谷川氏によると、ロビーのあるスタジオ棟は、本社ビルと分かれた浮き構造

          <一言コラム>日本コロムビア・グランド・スタジオ・ロビー (第9回関連)