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待つ人になりたい。|田舎暮らし日記

私は、赴く人と、待つ人とで分けられるのならば、どちらかと言えば待つ人でありたいと思う。

果報を待つ人という意味でなく、来る人を待つ、という意味だ。

思えば、以前から待っている人のほうに思いが寄せられた。

曾野綾子さんのエッセイに、中東かどこかに韓国人のカトリックの司祭が派遣されていて、地域のためにさまざまな活動をしていて、そこへ曾野さんが訪ねるというのがあった。無論曾野さんはこの理論でいうと赴く人である。職業柄、曾野さんは世界の辺境の地へさまざまな人を訪ね歩いていた。
しかしアジアといってもまったく文化の馴染みのない国に韓国人の司祭がひとり暮らしていて、地域社会の中で教会のことであったりさまざまな取り組みをしているというのは、私が想像もできないほどに過酷なことなのだろうと思う。
しかし曾野さんは最後、さて日本に発つという別れの時その司祭から「僕は、ずっとずっとここにいますから、待ってますよ」という言葉を聞く。
曾野さんも、それまではある種「いくらやりがいがあるといっても、祖国でもなしいつかどこかで異動だったり祖国へ帰るという選択肢だったりがあるだろう」という目で司祭を見ていた思う。しかし別れのこの言葉をもって、「この司祭は運命をひたむきに受け入れている」と知るのであった。
カトリックの司祭の職業柄というのもあるのだろうが、任務を受けるということはすなわち神の意志を受け入れるということだ。

一般人の選択の仕方とはまったく違う、人生の受け入れ方・在り方。


このエッセイを読んだとき、「ああ、私は待つ人でいたいな」と思ったのだった。乾いた景色のなかに、優しい司祭がいつでも待っている。その姿を想像するとわたしのなかの根源的な願いがふっと浮かび上がってきた。
ずっとずっとたたずまいは変わらずに、おかえり、と誰かを待つことができたなら。

赴くのももちろん好きである。
新しい土地、知らない文化、食べたことのない料理を食べるというのは喜びだし、誰かに待っていてもらうというのも心地よい。

しかし「誰かを待つ」ということを思うとき、なぜかわたしの心には夏の朝のように明るい風景が広がっている。

誰かに待っていてもらうのが心地よいのも、私が待つのが好きなことがあるかもしれない。

赴く人と、待つ人を比較すると、待つ人というのは少々滑稽な気がする。
待つのが滑稽といって思い出されるのは、21歳のときに行ったナミビアへの旅で、砂漠の中に無理やり作られたガソリンスタンドにいた、店番の男性のことだ。

ナミビアは赤いナミブ砂漠が有名だが、砂丘というのはずっと続いているわけではなく、国土のほとんどは乾荒原。巨岩がにょきにょき生えている石がごろごろした不毛な乾燥地帯。

そのガソリンスタンドは、数百キロメートルにひとつずつ、ナミビア中の輸送を担うトラックたちのために主に作られたもので、きっと雇われたはずの貧しく痩せたナミビア人の店番の男がたったひとりきりで切り盛りしているのだった。

私の乗った車がそのガソリンスタンドに入ると、店番の男はまるで遠くからの砂ぼこりをみて待ちわびていたように駆け寄ってきた。

もう何日も人と会話していないかのように、嬉しそうにガソリンを入れながらしゃべってくれた。

数キロ先にキャンプサイトがあると地図に書いてあったので、「ここから近い?わかりやすい位置にある?」と彼に尋ねた。
もうあたりは薄暗くなっていた。キャンプサイトまでのダートのような道がわかるかどうか、とても不安だった。

「ううんと、わかりにくいかもしれないから、僕が乗って行ってあげるよ。」と嬉しそうに答えた。

正直なところ、こうして親切にして最後にチップをねだることも多いアフリカなので、彼の親切心に一瞬戸惑ったが、あまりにも嬉しそうにニコニコしているので、わたしたちは彼を車に乗せた。

チップをねだられるのでは、という危惧とは裏腹に、彼は丁寧に道案内をした後、「良い旅を」とこれまたニコニコして車のドアを開けた。一応用意だけしたお礼のチップも受け取らずに「キャンプサイトからガソリンスタンドまで歩いて帰るよ」、といって薄暗闇を帰って行ってしまった。

あの生命のかけらもないような不毛な砂漠の中で、正直なナミビアの男がひとり、来る日も来る日もお客さんを待っている。彼のもとに来る車の持ち主は、どうか優しい人であるようにと祈りたい。一言二言しゃべるだけで彼は満足になるのだ。

それはどこか悲し気で滑稽な光景。
行く人が動きの多い主人公で待つ人が脇役ならば、待つ人はどうやらこの世界では主役になれない。
それでもわたしはだれかを待っている人になりたい。

いまは、小学校から帰ってくる息子を毎日家で待つことができる。
家で働く、という選択肢を数年前にしたから、こうして毎日、田んぼの中を歩いていって息子が降りてくる通学バスを待つことができる。

思えばこの自然の中でも、待つ存在に心惹かれている。

例えば、樹。
樹は動かない。もちろん、種子を飛ばして種として移動することはできる。
しかし樹は歩くわけではない。
人間から見たら、ずいぶん不便な存在である。

しかし、樹は待つことができる。樹には訪ねる人がある。
陰をつくってやる存在がある。

あるいは、山。
山も動かない。河のように流れはしない。
でも、山はいつでもそこにあって、旅人の目印になったり目的地になったりもする。
いつでもたおやかに緑をたたえて待っていてくれる山は好きだ。

待つということは不自由なようでいて、本来は自由な精神なのだ。
待ちながら、誰か遠くの人に思いを馳せるのも、よい。
人間という箱のなかの、精神は無限に広がっているのだから、私という体は誰かを待ちながらも、山の向こうのどこかへ、鳶のようにホバリングをしたり羽ばたいたりしながら飛んでいく。

そんなわけで、なかなか会えない友人から遠慮げに「土をいじりに行ってもいい?」と連絡がきたり「久しぶりにあやみさんのご飯を食べたいな」と言ってもらうのは、とても心地が良い。

そしてわたしは「いつでもいいよ、いいよいいよ、いつでもおいで」と80歳になっても90歳になっても言えるようでありたいと願う。



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