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【私たちのまちの自慢人@山形】『流れに身を任せながらも、いつも心に留めている亡き母の言葉“希望に燃えなさい”』山形放送報道制作局 アナウンス部次長 青山友紀さん

街のカルチャーを作り出し、それぞれのライフステージに合わせて選択している全国各地の女性たちに迫る私たちのまちの自慢人』。

初回に続き、オンラインコミュニティメンバー大和田日向子(山形)藤田花奈子(宮城)が担当。

小3のある日、画面越しに出会ったアナウンサー。その衝撃が夢となり、大学受験終わりに亡くなった、母の「希望に燃えなさい」という言葉。ご縁を紡ぎながら辿り着いた山形放送のアナウンサーという職業。相手の腰の高さに合わせつつ、等身大の自分でいることを忘れない青山さんに迫りました(取材日:3月12日)。

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青山友紀(あおやま ゆき)さん山形放送アナウンサー。1975年(昭和50年)千葉県市川市生まれ。國學院大学経済学部出身。1999年(平成11年)4月に山形放送入社。入社以来、テレビ・ラジオのニュース番組や長編番組のナレーションを担当。2008年からテレビのニュース番組のメインキャスターを務め、ドキュメンタリー番組制作にも携わるようになる。アルコール依存症の人々を自ら取材し、構成、ナレーションを担当したラジオ番組『飲むか、生きるか~断酒会につながって~』は、2010年日本民間放送連盟賞ラジオ報道部門の最優秀賞を受賞。
2011年、NNS(日本テレビ系列)アナウンス大賞で、ラジオ部門の大賞を受賞。
現在はテレビ情報番組『ピヨ卵ワイド』、2017年4月よりラジオ音楽番組『ミュージックブランチ』パーソナリティ。ミニ経済番組『やまがた一番星』インタビュアー。朗読番組『藤沢周平の世界』ナビゲーター。

『小3の頃、画面越しに出会ったアナウンサーという職業』

WI大和田:アナウンサーという体力が必要な職業を目指すきっかけはありましたか?

青山さん:特に入院していた訳ではないのですが、月に1回は熱が出て、幼稚園を休んでいました。小さい頃の私はかなり偏食でガリガリ。なんだか情けない感じの子でした。そんな中、朝学校の支度をしていた小学3年生ぐらいのある日、NHK元エグゼクティブアナウンサーの桜井洋子さんをテレビで見て「カッコいい」と強烈に惹かれました。私自身が色々なことに夢を見やすく、願望をよく口に出す性格だったからか、気付いたら母に「桜井さんみたいになりたい」と言っていました。それがアナウンサーになりたいと思った最初の瞬間です。

『前を向かせてくれた亡き母の言葉“希望に燃えなさい”』

青山さん:志望していた大学に行くために浪人していた1995年の1月に、母が入院しました。阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件があった年だったので、母の病室にあるテレビの報道を通してその惨状を知りました。

その時、母が「昔こういう仕事をしたいって言っていたじゃない?大学は1つしか受からなかったけど、拾ってくれたところに行って希望に燃えなさい」と言ってくれたんです。手術が成功し、2か月ほど入院した後に退院できると思っていたがんを患っていた母は、持病が少し悪化し、3月26日に亡くなりました。母の言葉が、落ち込んでいた心を少し前向きにしてくれた。今となってみれば、遺言のような感じですね。

大学入学後も完全に前向きになれない自分がいたのですが、定年後も大学に残り、学生のサポートをしている就職課の方と出会いました。その方が校内放送で一生懸命「とにかく早めの準備が大事です、何〇何号室で君たちを待っています」と話しているのを聞き、気になってその教室の中を覗いてみたんです。でも誰もいなくて帰ろうとしていたら、目が合ってしまって(笑)。

そこでアナウンサーという夢を持っていたことや、身の上話をしました。そしたら「君がアナウンサーになるためだったら何でもする!」と涙を流しながら言って下さったんです。完全に固まっていなかったはずの生の気持ちが、あの瞬間を機に、ガーっとレールの上を走り始めました。それから出版社の編集長の方やNHKで人事をされている方など、マスコミ業界で働く方達を片端から紹介して下さいました。とても不思議な出会いでしたね。

WI大和田:その方が人脈を作ってくれたんですね。青山さんは失敗した時や壁にぶつかった時、どのように乗り越えられてきましたか?

青山さん:私にとっての壁は、大学受験でした。山形放送での21年は、大変なこともありましたが、仕事なら当たり前と思っていたので、壁という壁を感じたことはありません。大学受験の壁は乗り越えられなかったけど、そこでの出会いが今に繋がっていて、他の道に進んでいたら、今はなかったですね。

WI大和田:全てに意味があったということですね。

青山さん:大変なことって目の前に来ると、大きく見えてしまうと思うんです。でも冷静になって考えると、悪いことばかりじゃなくて良いことも同じくらいある。つい悪いことに引きずられてしまいがちだけど、良いことの方にも気持ちを向けられるようになるといいですよね。

『弟とエールを交わした就活』

青山さん:弟の就活と私の就職が重なる時期に、弟と何回か電話をしました。「その雑なしゃべり方が駄目だ、声が低い」と上司に指摘されたことを話すと、「何言われたって命取られるわけじゃないんだから、まあ頑張ってよ」と言ってくれたんです。その電話で、お互いエールを交換し合うことができました。

WI大和田:固い絆があって素敵ですね。

青山さん:自分で何かを頑張ったという記憶はあまり無いんです。こんな感じでいつも人に助けられている気がします。

WI大和田:ここまで来るには青山さんの力が絶対に大きいはずなのに、そこにまで目を向けている姿が本当にカッコいいです!

WI藤田:アナウンサーという夢を持って進まれていた中で、山形を選んだのは何かきっかけがあったのでしょうか?

青山さん:私と山形のつながりは2つあります。伯父が尾花沢の人だったということ。もう1つは、学生時代に同じ研究室に所属していた同期が米沢出身だったこと。その子から、よく米沢や山形の話を聞いていました。①をいちまるって言う山形あるあるとか (笑)。

山形放送を受けようと思ったのも、人とのつながりが大きかったですね。それまで全国津々浦々の局を受けましたが、全部ダメで…。もう諦めて一般企業の会社説明会に行こうと思っていた時に、同じ大学出身のアナウンサーの方が就職課に山形放送の採用情報を持ってきて下さったんです。就職課に私がよく行っていたので、運よくそのお話を聞けて、「じゃあ山形に行ってみようかな」と軽い気持ちで来ました。

WI藤田:それこそ人脈ですね。

『人と関わることが好きな自分にとって、山形はピッタリの土地』

WI大和田:青山さんが山形各地での取材を通して感じた、“都会とは異なる山形”の魅力を教えて下さい

青山さん:話始めたらキリがないぐらい沢山あります(笑)。山形は水も空気も良く、空が広くて、食べ物が美味しい。私は人と関わることが好きなので、田舎が合っていると思うんです。人が少ない田舎と、都会で人が多い都会で考えた場合、人が少ないほうが人付き合いは少なくなると思いませんか?

WI大和田:その分、密になるような気がしますが…。

青山さん:そうなんです。都会は何でもあって便利なので、1人で完結できることも多い。一方で、田舎は他者に無関心ではいられない、助け合わないと暮らせないような大変なこともあるじゃないですか。1人でいるのが好きな人は、田舎暮らしは合わないかもしれない。そう考えると私は都会よりも、田舎の方が性に合っていると思っています。

WI大和田:そのような意味で、山形は青山さんにとってピッタリの土地だったんですね。

『相手の腰の高さに合わせつつ、等身大の自分でいる』

WI大和田:テレビでは『ピヨ卵ワイド』、ラジオでは『ミュージックブランチ』を始め、多岐に渡るジャンルを届けている青山さん。軸がないと情報過多になってしまうと思うのですが、1つ1つの軸をどこに持たれていますか?

青山さん:対話する相手が子どもや大人、時には芸能人や社長さんだったとしても、相手に合わせて自分を変えた方が良いようで、変えない方が良いと思っているんです。背伸びをせず、等身大の自分でいること。その上で、取材する相手の目の高さより、腰の高さに合わせることを心がけています。

アナウンサーは、情報を集めた上で、自分で整え、分かりやすい言葉で伝える仕事。話す仕事というよりも、人に聞く仕事。それが私の中で大前提としてあるので、人の話を聞ける人でありたいと思い、じっくり聞くことを意識しています。

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情報番組『ピヨ卵ワイド』(平日16:50〜17:53放送)のスタジオ

私は日々自分の映像をチェックし、改善するようにしていて、ある日、自分がいつもよりも格段と綺麗に映っている日があったんです(笑)。その日がたまたまそうだったのかもしれないと思ったのですが、何日かに1回、そのようなことが続き、あるカメラマンさんの日に決まって、綺麗に映っていることに気付きました。

その方に「映像を撮る上で、何か心がけていることはありますか?」と伺ってみたら、「被写体となる人を、撮影する間は心から愛するようにしている。」という言葉が返ってきたんです。皆が誰かのことを想って仕事をしているからこそ、それぞれの立場でベストを尽くせるのだと感じました。私も視聴者の方々のために、正しく、的確な情報を伝えられるように日々奮闘しています。

WI藤田:「皆が誰かのことを想って仕事をしている」と重なると思うのですが、お相手の言葉を引き出すために、意識されていることはありますか?

青山さん:何年働いても、マニュアルも技もない。長年培ってきたものは技なのかもしれないけれど、何年続けていても、1回1回が勝負。ここまでやったからゴールというものはないので、毎回1つ1つの仕事を大切にしています。
私のモットーは、「無難はダメ」。限られた時間の中で伝えるには、エッセンスを並べないといけない。必ず伝えるべき情報はあると思いますが、それだけで終わってしまったら残念だなって…。

WI藤田:誰がやっても同じ形になってしまいますよね。

青山さん:私が主に取材している方々は、発言に制約があるような芸能人の方ではなく、地元の方なので、型にハマる必要ないと思うんです。

WI藤田:山形でアナウンサーとして働くことは、青山さんご自身にピッタリだったんですね。自分に合ったキャリアを歩まれているからこそ、イキイキとお仕事されている気がしました。

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『習い事の先生たちの“やりたいこと・やらなきゃいけないこと”を両立していた姿』

WI藤田:アナウンサーになりたいという夢をくれた桜井さんや、きっかけを作って下さった就職課の方以外に、青山さんの人生を大きく左右するほどのロールモデルはいらっしゃいますか?

青山さん: 1人1人にそれぞれの生き方や魅力が詰まっていて、誰からでも学びがあると思っているんです。私を育ててくれた親を始め、関わってくれた全ての人が、何かしらの影響を与えてくれた人なので、これまで出会ってきた方々1人1人を尊敬しています。
子どもの頃は、毎日のように習い事をさせてもらえたぐらい、母が家計をやりくりしてくれて、私がやりたいと思った事を何でもさせてくれる家庭でした。バレエやピアノ、書道などの先生たちは、私にとってのキャリアウーマンでもあり、ロールモデルです。

WI藤田:小さい頃の影響が大きいですか?

青山さん:当時教えてくれた先生たちは、今はお孫さんがいらっしゃるそうなんです。今でもやり取りを続けている先生もいて、女性のキャリアを1番近くで見せてくれた方々が私のロールモデルでしたね。

旦那さんの転勤の都合でバレエ教室を続けることが難しくなってしまったある先生は、ワークショップとしてバレエ教室を開催しているそうなんです。形に捉われず、柔軟に対応されている姿は、尊敬している理由の1つでもあります。

子育てや介護などやらなければいけないことに加えて、自分のやりたいことを両立している姿を、間近で見せてくれた名もなき先生たちは、私のロールモデルです。

WI藤田:好きなことをやらせてもらえた環境ありきで、幼い頃から様々な女性たちから学ばれていたんですね。

『スピードよりも、想像力と時間を共有する』

WI大和田:どの環境であっても選択する機会が多くある中で、“自分を生かす選択”ができるようになるためのメッセージを頂きたいです!

青山さん:私が20代だった頃と、今の20代が生きている環境は、大きく違っています。スマートフォン1台で、人と情報と世界と繋がることができる時代の今は、便利な一方で、想像力が欠如してしまうんじゃないかと思っていて…。
便利に変わっていっても、みんなが「どういう形をしているんだろう」、「どういう味がするんだろう」ともっと想像力を持てたら、世の中が変わる気がするんです。

瞬時に情報とつながることができるスピード感も確かに重要ではあるけれど、想像することに時間をかけて、頭の中で「考える」だけでなく、時間をかけて行動し、体験することで感じることを意識してほしい。そうすると、何に時間をかけるのか、「時間の使い方」が問われてきます。

時間の使い方で言えば、人との時間を共有することも必要だと思います。今やインターネット広告費がテレビ広告費を上回る、ネット全盛の時代。放送業界の未来は決して明るくないと思います。でも私は生放送などを通じて、人との時間を共有しているんだということを忘れずに過ごしたい。そのためにも、人に対する興味を失わないようにしたいですね。

WI大和田:これまでアナウンサーとしての青山さんしか存じ上げていませんでしたが、様々なバックグラウンドや想いを深く伺い、福島から山形に来て良かったなと改めて思いました。

青山さん:アナウンサーとして働きながら、山形で素晴らしい人やモノ・景色に出会える度に、私は人に出会うために山形に来た気がします。

WI大和田:大切な時間を共有できて嬉しかったです!ありがとうございました。

(企画・取材・文:大和田日向子藤田花奈子 | 構成・編集:大山友理)


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