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初めての谷崎で『陰翳礼讃』『卍』を読んでみた

明治から昭和にかけて文豪と呼ばれる作家では、漱石、芥川、太宰、賢治(略すときは宮沢じゃなくて賢治でよかったっけ?)あたりの有名どころはそれなりに読んだことがありました。

そうねえ…言うなれば、吾輩こころは坊ちゃんである斜陽の人間失格ながら羅生門で蜘蛛の糸上って注文の多い銀河鉄道からの走れ又三郎!うぇーい!的なメジャー感。

そんな中、川端康成と谷崎潤一郎の両氏は、なぜかスルーしていました。恥ずかしながらお名前と作品名しか知らない。作風も全く知らない。ではなぜ一対一対応で知っているか。答えは簡単、国語の試験です。こんな感じの、あったでしょう?

問:次の作家名と作品名の組み合わせのうち、誤っているものを選べ。
 ア. 川端康成 −『雪国』
 イ. 谷崎潤一郎  − 『細雪』
 ウ. 森鴎外 – 『たけくらべ』 ←はい、ブッブー!みたいな。(ちなみに『たけくらべ』は一葉さんですね)

きっかけは、本のプロたちのお話

先日紹介したこの本

作家である主人公の友人に、遊佐ゆさと言う売れっ子作家さんが出てきて、大阪弁の会話について持論を語るシーンが出てくるのですが、そこで谷崎潤一郎の『春琴抄』という作品をベタ褒めするんです。

「そうそう」遊佐は楽しそうに話を続けた。
「必要なのは、あの応酬を支えているリズムっていうかバイオリズムっていうか、かたまり・・・・が鳴らしてるそのものを聴きとって、それをまったくべつのものに置き換える技術なわけだよ、で、それっていうのはそのまま耳のよさだってことが言いたいわけ。つまり谷崎」
「谷崎?」わたしは言った。
「そう、谷崎潤一郎」

川上未映子さん著『夏物語』より

作家が描く作家が実名出してベタ褒めにする作家とは、如何なるものか。

また、様々な「本のプロ」と言えるような方々が書いているnoteの記事でも、そう言えばしばしばお名前を目にする。谷崎。そう言えば読んだことなかったぞ。
と、気になってきまして。
これまで知らなかったジャンルもトライしてみようってnote始める時に思ったし、じゃあ読んでみるか、というわけです。

選書の理由

本の玄人である方のお話を伺うに、谷崎入門としては『陰翳礼讃』がオススメと教えて頂き、色々ヤバいけどいちばんヤバい系の代表作が『卍』だ、と教わった気もしたので、何がどうヤバいんかしらと思いまして素直に(笑)その2冊をあらすじも知らずいきなり読んでみました。(アドバイスありがとう姐さん!)

『陰翳礼讃』- 著者:谷崎潤一郎さん

待って。まずね、読めないの、タイトルが。いんおうれいさん?はい、ブブブー。「いんえいらいさん」ですってよ。おお、なんか威厳があって、ゴツい。これは本当に入門編なのでしょうか。さすが文豪。ページを開けば、わ、こういう古めな漢字マシマシの本久しぶり。と、やや肩に力が入っていたのですが…。

漱石より少し後の年代だけあってか、「這入はいる」だの「う」だの仰々しい字がいちいち使われつつも、比較的現代に近い言い回し。「へぇ、これってこんな書き方だったんだぁ」なんてプチ感動しながら、案外すらすら読めてしまう不思議な感覚。日本語ネイティブで良かった!すごいぞ私(たち)!と自画自賛したくなるような心持ちになりました。

表紙なんて真っ暗だし、「どうだ、文豪だぞ。心して読め。」みたいな雰囲気を醸し出しておきながら、内容は案外所帯染みておりました(失礼)。「舶来物の存在感がどんどん増す今日この頃だけどさぁ、日本文化の良いところたくさん考えてみたから皆読んで読んで〜!」的な、おじさん(超失敬)の思いつきが思いつくままに自由に記されている、随筆すなわちエッセイだったのです。

でもこれは確かに。日本語がものすごく綺麗。羊羹あんまり好きじゃないけど、こう書かれると食べたくなる。堅苦しい言い回しのはずなのに、瑞々しいほどの表現力がすごい。

そして次にこれ。
『卍』 - 著者:谷崎潤一郎さん

『陰翳礼讃』が著者の価値観丸出しの随筆集だったため、なるほどこの時代のこういう考え方の作家が物語を創るとどうなるのだろう、という純粋な興味と共に読みました。

結果。うん、ヤバい。『卍』ヤバい。マジ卍。(←語彙どこ!いつもだけど!)
「マジ卍」って、もし全国のJKがこの物語を読んで考えついたスラングだったら、それもまたすごい。(たぶん違う)

なるほどそう来たか…!あの時代にこの内容は、確かにヤバい。ネットもテレビも無い時代に、この描写と展開。これがモダニズムというやつ?太宰、芥川と言い、退廃的なのはこの頃の流行なのかしら?文学史は詳しく無いけど、さぞかしセンセーショナルだったことと思います。

だって、現代で読んでも充分ヤバいもん。脳が出川なんじゃないかってぐらいヤバいヤバいうるさいのと、何書いてもネタバレになりそうなので、詳細割愛…笑。

しかしいちばん驚いたのは、『陰翳礼讃』とは文体も雰囲気も、同じ人が書いたと思えない変わりよう。しかも、著者はゴリゴリの東京人なのに全編大阪弁(それもずっと語り口調のみ)というチャレンジングな企画。そして言い回しは相変わらず昔風なのに、意外と読めてしまうこの不思議な感覚再び。

内容の善し悪し好き嫌いは置いといて、どちらの本も圧倒的な語彙力に敬服でした。

「ポリコレ」「ダイバーシティー」と近現代文学

さて、ここからは無粋な補足も少々。上の2作品とも、もし2020年代の作家さんが新作として発表していたら、大炎上間違いなしかと。1箇所もアウトじゃない章を探す方が難しいかもしれません。

ルッキズム、人種差別、男尊女卑、LGBTQ差別、モラハラなどなどてんこ盛りで、ツッコミの嵐になるはず。(2023年の私は、どうしても自動的に若干モヤっとイラっとしながら読んだ節もゼロではない 苦笑)

でももちろん分かってます、明治〜大正〜昭和だからこうなっているんだって。だから敢えて語弊はあるかもだけど割り切って言えば、思ったことは何でも好き放題発表できていた、ある意味作家(特に男性作家)としては超自由な時代だった、と言えるんだろうとも思ったり。

最近はよく大手出版社や映画会社が、昔の作品で「この作品には差別的な表現が出てきますが、その時代はこれが通念だったので、敢えて編集していません」「本作品をきっかけに、諸問題について建設的な話になることを願います」みたいな内容を予め表明するように、時代を知る一助としても文学作品って貴重だなと思います。

例えば、野暮ついでにこの2冊に出てきた内容だとどんな要素があるか少しピックアップしてみましょうか。

女子中学校に相当した高等女学校の「高等」は、男子の尋常中学校と対比させるために、「女にしては高等だから」という意味で付けられたとか。
妻は夫に炊き立てのご飯を食べさせるため、2時間以上早起きするのが当たり前とか。
妻の行動は全て夫が責任を持つとか。
白人女性と日本人女性の見た目態度肌感(うぉいっ)なんかを露骨に批評しまくってたりとか。
わー、ムリー。

同性愛は「破廉恥で直すべきもの」が社会全体の常識として定義され、排除されるのが当たり前だった時代に、それを婉曲的ながらもダイレクトに表現したストーリー展開とか。それって当時にしては完全に「珍しい見せ物」状態だったんじゃないかしら。(もちろん現代の作品群にも色々複雑な思いを抱えていらっしゃる方々も少なくないと思いますが、この時代の露骨な圧は物凄かっただろうな、と)

ポリコレ正義を振りかざすとかではなく、近現代ですらそれぞれの時代の違いって目まぐるしいんだな、と改めて思います。

乱読って楽しい

はてさて、つい長文になっちゃう私の悪い癖ですが。
考えてみたら、昔読んだ太宰も漱石もある意味色々いろいろヤバかった。この時代の作品群を片っ端から読んだとしたら、たぶん、各方面で脳内出川が召喚されるヤバいよヤバいよ〜なお話がもっともっといっぱいあるのでしょう。ドキドキ。

次は何読もっかな。
気ままな乱読、最高!


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