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人間の醜悪さと愛らしさについて

好きなポッドキャスターがやっているということで、いわゆるメジャーなSNSで交流するのもなんかむず痒いため、ミクシィとツイッターとfacebookのいいところどりをしていそうで、なおかつあまり知られていなさそうなので初めてみました。

自分語りというわけではないですが、自己紹介も兼ねて書いてみます。

特に突出した才能があるわけでもなく、中学卒業から高校の中ごろまで中二病によくある万能感を感じながら、受験戦争では一年目は無条件降伏というより部活で言うところの圧倒的練習不足により一年間浪人。興味のない勉学に関しては無気力・無関心でいるものの、外国には興味があったために大学に進学し外国語を学ぶ。しかし入学しながらも根っからの不真面目ぶりにて部活(水泳)の方にうつつを抜かし、留学に行くわけでもなく、代わりに南米放浪の旅に出る。

既述の通り突出した才能があるわけではないのであまり優秀な人間ではないと思っているが、周りからはそうでもないように映ることが多いらしい(多いらしい、と言うにはあくまで比較論である)。とても不思議だ。少し物忘れが多い、特に興味がないことに関しては覚える気もない以外は普通の会社員であり、少し短気で不器用なだけの人間であると思う。

ただ、最近は人としての価値、人生をより豊かにするために主に心を寛く(広く、というより寛容に、というニュアンスが一番しっくりする気がする)するよう心がけている。

世の人間の醜悪さ、不完全さに対して寛容になれたのがここ数年という事実によって、逆にこれまで自分がいかに矮小な存在で損をしていたか、ということをまざまざと自分自身に突きつけられた。

嫌われてもその人のためには苦言、諫言をするのは良いこと、良薬口に苦しだと思っていたことは、誰しもが受け入れられる器ではないこと、生ぬるい関係性が一般には受けやすいこと、人間は感情の生き物であることなど、不器用が不器用なりに学んだことである。

また、どこにも醜悪な性格や魂を持つ人間はどこにもいることや、むしろそういう人間の方が多数派であることなど、今までの一般の人間に対する幻想が、霧が霧散するように晴れたことで、むしろそれらの醜悪さとうまく付き合うことこそが人間の生きる道なのだと考えるようになった。

それらの醜悪さや、それ以外の善なる部分など多面性を持つ社会性の動物を愛らしく思う反面、邪悪な想像をすると恐ろしくもある。

人間は、自分も含めて想像力の豊かな動物であることですね。

翻って僕に関しては、努めて善なる存在でありたいと思う東京在住の男性です。

こんな僕ですが、世界さんよろしくお願いします。

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