命のリレー「ばあちゃん、またね」
ばあちゃんが、目を閉じたまま目を開かなくなったらしい。
私のばあちゃんは数年前から施設に入っている。
90歳を超えるまで自宅で生活していて、施設に入るまでの数年間は両親や叔父夫婦がご飯を作りに行ったり、家の片づけをしに行っていた。自力で歩くのが困難になってから、施設に入った。
ばあちゃんは寂しがり屋だったから、家で一人で過ごしているより施設で仲間やスタッフに囲まれて過ごしている方が表情がよくなったと母から聞いた。ちょうどコロナの時期だったこともあり、私はなかなか面会には行けなかった。
コロナも収束してきた頃合いということで、この間のGWにばあちゃんは一時帰宅をした。2~3時間程度だったが、それに合わせて親戚が集まって、ばあちゃんを囲んで食事をした。
ばあちゃんは耳が遠いから、耳元で大きな声で話しかけないといけなかったが、それでも話しかけたら少しニコリとして「そうね」と言った。
ぽっちゃりしていたばあちゃんは施設の健康的な食事のおかげでだいぶスリムになっていて、私の知っているばあちゃんではなく違う人のように見えた。
「ばあちゃんは、もうあとちょっとかもしれないね……」
つい2~3日前にそう母から聞いた。ばあちゃんはベッドの上で寝ている時間が多くなり、ご飯も飲み込めなくなってきているのだという。今は点滴によって水分と栄養を補っている状態だそうだ。
はじめ聞いたときに私は驚いたが、割とその事実をすんなりと受け入れることができた。自分でも、心のどこかでそんな気がしていたのかもしれない。
「今度の火曜日に、面会に行ってくるね。」
両親がばあちゃんの面会に行った日が今日だった。私は臨月妊婦のため無理は禁物だろうということで、ビデオ通話を繋いでくれた。
久しぶりに見たばあちゃんの顔はGWにあった時よりもさらにスッキリとしていた。目を閉じていて、意識があるのかないのか分からなかったが、長年の病院勤めの経験から、もうばあちゃんとはっきりと言葉を交わすことは難しいのだろうということがわかった。
「ばあちゃん。めぐみだよ。」
スマートフォン越しにばあちゃんに話しかける。
母が「少しウンウンて頷いているよ」と言う。
目は閉じているけれど、耳は聞こえているのかもしれない。
「ばあちゃん。ばあちゃん。」
ばあちゃんは、おしゃべりな人だった。
ただそのおしゃべりの仕方がちょっと変わっていて、こちらの言うことはほとんど聞かずに自分が話したいことを一方的にしゃべる感じだった。
ばあちゃんとの会話はあまり成り立っていなかったが、時々ばあちゃんは自分の話の笑いどころに自分で笑っていて、その時の笑顔はかわいかった。
「あんたの笑顔がいいのはばあちゃんに似たのよ」
なんて母から言われて私は育った。確かに母も父も丸顔じゃないのに私は丸顔で、それはばあちゃん譲りなのかもしれないと子ども心ながらに思った。
私はどちらかといえばじいちゃんっ子だった。じいちゃんは私が10歳の頃に病気で亡くなった。まだ70代前半だった。
学校の読書感想文で亡くなったじいちゃんとの思い出を書いたら、町内放送で読まれ、当時じいちゃんのことを知る多くの地域の人たちから反応があったと母から聞いた。じいちゃんを慕う人は多かったらしい。私もじいちゃんが大好きだった。
冷たいと思われるかもしれないが、私はばあちゃんのことをじいちゃんほど大好きだと思ったことはない。なんとなく、意思の疎通が難しいなと感じていたからかもしれない。それか、じいちゃに遊んでもらった記憶はあるのに、ばあちゃんに遊んでもらった記憶はなかったからかもしれない。
ばあちゃんは、一人では何もできない人だった。そして寂しがり屋だった。家の中はいつもたくさんの物であふれていた。
ばあちゃんはいつも自分の話しかしなかった。
でもいじわるを言ったりしたりすることも無かった。だからばあちゃんのことを悪い人だと思ったことはなかったし、嫌いでもなかった。お小遣いもよくくれるし、いいばあちゃんだと思っていた。ばあちゃんの作る煮しめは美味しかった。
ただ私にとってのばあちゃんはばあちゃんでしかなくて、それ以上の感情が湧くことはなかった。
ばあちゃんは、おそらくそう長くはないのだろう。
スマートフォン越しに見た顔はとても綺麗で、痛いとか苦しいとか、そういったものは感じていなさそうだった。年老いた木が枯れていくように、ばあちゃんも自然と枯れていくのだなと思った。それはきっと、とても幸せなことなのだろう。
もうすぐ別れがやってくる。私が30年ちょっと生きてきた間、ずっといるのが当たり前だったばあちゃんが、旅立つ予感がしている。当たり前だった存在がいなくなることは、なんとも不思議なものだ。
私のお腹の中にはもういつ産まれてもおかしくない命がある。まるでばあちゃんとお腹の子がバトンタッチをしようとしているかのようだ。
不謹慎な言い方かもしれないが、ばあちゃんが逝くのが早いか、この子が生まれてくるのが早いか。
どちらにせよ、たしかに命は巡っているのだと感じられて仕方がない。
死にゆく人もいれば、生まれてくる人もいる。
そんな当たり前の事実が突きつけられたような気がした。
「ばあちゃん。またね」
そう言って通話を終えたが、「また」があるかどうかはわからなかった。
ただなぜかお別れの言葉は出てこなかった。これが最後かもしれないと分かっていながら、私はばあちゃんに「またね」と言いたくなった。
ばあちゃんの命のともしびは、今はまだ静かに燃えていて、おそらくもうすぐ消えるだろう。そして私たちのもとには新しい子どもが生まれて、その子がまた命を燃やしていく。
ろうそくからろうそくに火を移すかのように、命のリレーが行われていく。
それは至極あたりまえのことで、とても不思議なことだ。
ばあちゃん。めぐみだよ。聞こえてるかな。
もうすぐ、ひ孫が生まれるよ。お腹の中で元気に動いているよ。
ばあちゃん。ばあちゃん。
またね。