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見えない利点

今日の写真は、涼しげな水中から。特に深い思い入れはない。強いて言えばプールに行きたい、泳ぎたい。撮ってくれた人に感謝。

今日は本当に苦しい。来週のド頭からテストがあるので、そのための勉強をしなくてはならないのだが、そんなことはお構いなしにやってくる課題の数々。よもや、僕を殺しに来ているのではないかと被害妄想にかられそうになる。午前の授業が終わってから、30分勉強して、5分休んでを延々と繰り返してかれこれ3時間はやっていたのだが、ついにその集中の糸がぷつり、と切れる音がした。いや、むしろここまでよく持ってくれたと思う。自分を少しぐらい褒めたって罰は当たらないだろう。

そのまま布団にダイブして、いつものようにスマホをいじろうと思ったのだが、今までずっとパソコン、教科書、ノートとにらめっこしていたので、目が悲鳴を上げていた。これ以上の視覚情報は今の僕の目には、もはや暴力に匹敵する。なので、何も考えずに眼鏡をはずして天井を見上げていた。

目が悪い人ならわかるかもしれないが、眼鏡やコンタクトがない時に見る世界は全く別の世界だ。形がなく、その分の情報がそぎ落とされた、ただのぼんやりとした色だけの世界。今日の僕はこの世界がいやしに思えた。

ふと、これは能力なのではないか、と思った。目を開けながら視覚情報を緩和する能力、とでも言っておこうか。名前を付けると、非常にばからしく、恥ずかしい。

目がいい人が視覚情報を遮断するには、目を閉じるしかあるまい。その間の世界は存在せず、言うなれば、「0と1しかない世界」に生きているということもできるのではないだろうか。対して目が悪い人は、視力を矯正して得られるはっきりした世界、目をつぶった瞼の裏の世界、そして、目を開けているが像を結ばない、中間の世界を見ることも可能だといえるのではないだろうか。

そう考えると、普通の人より見れる世界が増える分、目が悪いことのメリットとしてとらえることも可能だと思えて、少し得した気分になった。

まともに考えれば、目が悪いことは少なくともいいことではないだろう。だが、そこに美点を見出すほど、今日の僕は疲れていて、まともではないのだろう。だが、新しい視点が見つかったことを考えると、今の状態もマイナスなことばかりではないのかもしれないとぼんやりと思った。




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