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ひこばえのように ②


――
もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです。 では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです。
――


それゆえに、

私はさらに信仰によって、かくのとおり言うものである。

すなわち、上のように確言したキリストの使徒たるパウロが、その一生の間、ほんとうに無報酬で福音を宣べ伝え続けたのかどうか知らないし、そんなことの検証立証にかそけき興味も持たないが、いずれにしても、彼の主張するように彼がコリントやエフェソの教会に居た頃、無報酬でそれを行っていたという事実を、私も彼と同じ信仰によって信じるものである。

なぜとならば、

彼とまったく同じように、この私もまた、すくなくとも『万軍の神よ』とか『楽しき荒野へ』とかいう遊び心をこめた詩歌を詠み始めた去年の一月頃から、『わたしは主である』や『ソドムとゴモラ』を書き終えて、『ヨハネの洗礼、キリストの洗礼』と『人の戦い、神の戦い』にまで至った今日に至るまでの日々に限っては、

いかなる人間からも、ただの一円の報酬をさえ受けとったという事実はないからだ。

もっと言えば、神自身からの、一銭の金銭的報酬をさえ、私は受けたためしというやつがない――これは私の良心も、聖霊によって私自身に証ししていることである。

だから私には、パウロのように「この俺は無報酬でがんばったんだ」という、実にガキっぽい自慢話もできれば、

「イエス・キリストも父なる神も、まったくとんでもねぇケチ神様じゃねぇか」というふうに、まごころをこめて神をディスることも、また許されているのである――だって事実そうなんだから。

それでもなお、

「このドケチ神のクソバカヤロウ」というふうに、衷心から悪口を叫び上げる同じ瞬間にあっても、

同じ私は同じケチ神様の名前を賛美し、同じケチ神様からかけられた言葉に込められた思いを知り、それに感じ入っては喜び歌い、そんなケチ神様に向かって感謝の祈りを捧げることも忘れない――つまりは、常に喜び、絶えず祈り、すべてに感謝するという、イエス・キリストの父なる神の御心を実行することを、けっして忘れないのである。

それは書くことによって、ただ書くことによって、何千年前の聖書の言葉であろうが、向こう三軒両隣の誰かがふと口にしたような言葉であろうが、それが自分自身に「真実の感動」をもたらしたものであれば、そこに込められた思いに感じ入って、それを今を生きる自分のために最大限活かそうとする――このひと作業をば、忘れることがないからだ。


それゆえに、私はわたしの神イエス・キリストを前にしても、はっきりと言うことができる、

すなわち、何が神の御心であって、何が善いことで、何が神に喜ばれ、何が完全なことであるかを、私はこの身をもってわきまえている者であると。

ちなみ言っておくと、

私は肉においては生まれながらの生粋の日本人であるがために、たとえばその慣習に倣って、正月には初詣に行くし、そこでお賽銭を放って、正々堂々と拍子を打ち鳴らしもすれば、首も垂れる――そして、イエス・キリストに繋がった者として、そのようなふるまいに及んでも、どっかの偽善者さんたちみたく、蜂の頭ほども良心に恥じ入ることもなければ、心に恐れを抱いたりすることもない。

なぜとならば、私が首を垂れているその先に建てられた、いかなる神社仏閣の中なんかにも、わたしの神イエス・キリストも、イエス・キリストの父なる神も宿っていないことを知っているように、

「そんな慣習には僕は調子を合わせてたりしない!」だなどとやってみせたところが、そんな行為が神に喜ばれる行いでもなく、善い行いにも清い行いにも聖なる行いにもけっしてなりえないことも、よくよくわきまえているからである。

すなわち、

もしもほんとうに神に喜ばれたいのならば、神の”声”を聞き分けて、その声に全身全霊で聞き従うこと、である。

すなわち、たとえば「常に喜べ、絶えず祈れ、すべてのこと感謝せよ」とはっきりと書かれているのであるから、いついかなる時であっても、どこにいても、どんな場合にあっても、そうすることである。

すなわち、この私のように「イエスなんか死ね、もう百万回十字架にかかって死ね、子なる神が死んだように父なる神もそうやって死ね」だなどと、へーきのへーざでまくし立てる時にあっても、むしろそのようにしてでも、絶えず祈り、祈り、祈り続け、そのような祈りという神との論じ合いを、けっしてやめないことだ。

私はイエスなんか死ねと、誰の前で泣き叫んだってはばからないし、父なる神もいっしょに死ねというふうに、こんなところで堂々と書いたっていささかも恐れることもない。

なぜとならば、イエスにしても父なる神にしても、私の「死ね」なんかによってほんとうに死ぬわけもないし、「死ね」と言われたからといって肉の親のごとくなんというダメージを受けたりすることもなければ、そんな非言暴言の数々をいちいち数え立ててもおらず、根に持ったりもしないことを知っているからである。

まだ右も左も分からない幼子が、なにかに激しく怒り狂って――それはその幼子にとっては生きるか死ぬかという大問題なのだが――わめき立てていたとしても、周囲の大人にあってはおおよそ泰然自若としていられるものである。時には、そんな幼子の幼子らしい泣き声に耳をふさぎたくなりながらもなお、同時に優しい気持ちをも抱かされるものである。

私はそんな心優しく、愛情深い人間である――かと言って、けっして子供を甘やかすような人間でもないので、それと同様で、イエスや父なる神が、子たる私の口から「死ね」と叫び上げられたからといって、彼らにおいては「ああ、また始まったか」ぐらいにしか思っていない。

そして、私もまたそれをよくよく知っているので、ほかでもない天地の創造主で、万軍の主で、全被造物の救い主たる神に向かって「死ね」と叫び上げているまさにその時にあっても、

それと同じ文章(祈り)において、なお私の心に「真実の感動」をもたらしめる”声”をかけられていることに気がついて、そんな神の言葉を聞き分けては、それを喜び、そこに込められた思い(愛)に感じ入っては感謝し、たとえすべてを犠牲にしてでも、それを今を生きる自分のために活かそうとまでするのである。

――こういうひと作業をば、私は忘れない。忘れないから、すべてを犠牲にしながらも、なんとしてでも神の声に聞き従おうとするのである。


それゆえに、

もしも本気で神に喜ばれたいと思うのならば、そのようにふるまってみせることだ。

「イエスも父なる神ものたれ死ね」だなどと口が裂けても言えない代わりに、毎週かかさず教会に行ってみたところが、そこで奉仕活動をがんばってみたところが、そこでバプテスマを施されてみたところが、長老先生から按手を受けてみたところが、あるいはそんなものを授けたところが、毎日毎日聖書を読んで原語やユダヤ古代史も一緒に研究をしたところが、だから、人の手の造った像には首を垂れないとか、異教の葬式では香はたかないだとかやってみせたところが――

そんないっさいがっさいが、信仰でもなければ、信仰生活でもなんでもない。

むしろ、そんなものはただのひとつの例外もなくバッタモンの信仰ごっこにすぎずして、よって、清い心の表出でもなければ、聖なる生活の様相でもありえない。だから、そんなことをば何千年何万年くり返そうとも、神に喜ばれることはけっしてない。

もう一度、わたしの神イエス・キリストに言えと言われたままはっきりと言っておく、

もしもほんとうに神に喜ばれたいのならば、どんな時代の、どんな場所で、どんな生き方をしていようとも、神の、なかんずくイエス・キリストの”声”を聞き分けて、それに聞き従うこと――それによって、心から悩んだり、悲しんだり、苦しんだりしながらも、また同時に、心から喜んだり、感謝したり、賛美したりすること――これが父なる神の御心であり、神の喜ばれる生活であり、したがって、清い心、聖なる生活なのである。


少なくとも、私はずっとそのようにして来た――とりわけても、ここ二年あまりはずっと。

だからこの二年あまりの間、私は絶えず呻き、嘆き、苦しみ、悲しんできた――すなわち、わたしの神イエス・キリストの父なる神にあっては、私がどんなに書いて(祈って)も、とりわけてこの二年あまりは徹底的に、私に対しては「ドケチ」にふるまって来た。

いや、故郷は焼かれ、故国を追われ、愛する人も無二の友も奪われて……というふうに書き出すのならば、もはやただのドケチなんかでは飽き足らず、まさにまさしく悪魔のような非道なふるまいを、もう何年にも渡ってし続けて来たとしか、言い様がないほどである…。

さりながら、

それがすなわち、「神の計らい」というやつであったのだから、そうと知ってしまった以上は、もはや「たかが人」たる者の唇にあって、後はいったいなんと言って叫んでみせたらいいというのか。

一脈の疑いも間違いもなく、私をしてこんな文章を書かせたいがためにこそ神がそのような非道なふるまいに打って出たことを、この身をもって知るに至った以上は、ただただ喜びと感謝と賛美ばかりが、この汚れた口をついて滔々と流れ出て来るばかりである、

いったいだれが、それを止めることができようか…!

傍目においては、まるでまるで酒にでも酔っているか、とうとう頭もイカれ、心もイカれてしまった廃人のようでしかなかったとしても、それがなんであろう。

そんな私なんかに先立つこと約二千年前にも、「わたしは福音のためなら命をも惜しまない」とか、「苦難をも誇りとする」だなととのたまった半狂人もまた、立派に存在していたのである。

そして、

冒頭から述べているとおりに、この私もまた、そういう「苦難の日々」こそが、まぎれもない「ささやかな誇りの日々」と変わった事実について、ここに綴ってみようと思い立ったばかりなのである、

いや、例によって例のごとく、書けと言われたから書いているまでではないか…!

かつてヨブに対して、「神が非道なふるまいをした」としたら、それはヨブをしてヨブ記を書かしめるためであった。

ダビデにそうしたとしたら詩編を、ソロモンにそうしたとしたら箴言やコヘレトの言葉を、エレミヤにはエレミヤ記を、エゼキエルには、イザヤには、アモスには、ヨナには――というふうに並べ出したら、枚挙にいとまがなくなる。

神はいつの時代にあっても、愛する子に対しては「非道なふるまい」をし続けて来た。その子がこの地上における王であろうとも、預言者であろうとも、ただの馬の骨であろうとも、その子たちの上にはあまねく、「恵みのためにも懲らしめのためにも」、雨を降らせて来た。

だから、

たとえばソロモンやヒゼキヤのように、しょせんはその晩年において右にも左にも逸れたような暗君でしかなかったとしても、終生、富や平安を恵んであげたのである、

そのように、神はこの時代のこの私にもそのようにすることもできたはずではないか、

がしかし、それであっては私は『ギブオンの夢枕』も書けなかったし、『あなたへ』も書けなかった――いや、ここに書いて来たようなすべての文章が書けなかったのである。

そして、

もしも書けなかったならば、私は永久に、わたしの神イエス・キリストとこの身をもって出会い、かけられた言葉のひとつひとつに心から感動し、永遠に記憶することもできなかったのである…。


それゆえに、

ああ、もはや何を言おう、

私は当初、この文章を書き出した時には、「この二年あまり、自分はもしかしたら誰にもできなかったような日々を送って来たかもしれない」というふうに思っていたし、今でもそんなふうに思っているので、だから「このささやかな誇りはけっして無にされない」と、わたしの神に向かって宣言してみせて、それで筆を置こうと思っていた。

がしかし、

”霊”に感じて、私はさらに言うものである。

私にはまだまだ、これからももっともっと、ずっとずっと良い文章を、書くことができる――

まだまだ書けるし、もっともっと書きたいものも、いっぱいある――

「見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた」という言葉のとおりに、”命の水”は、いつもいつでもいつまでも、とめどなく溢れ出ては、”東の方”へ流れつづけている…!

だから私は、書くことをけっしてやめない。

「わたしを求めよ、そして、生きよ」とは、物書きの私にとっては、そういう意味にほかならない。

「命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う」も、「主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう」も、また然りである。

たとえ「王」となったり「預言者」となったりした時にあっても、私はだからこそ、よりいっそう書くことをやめることがない。


それゆえに、

これまで閲して来たような嘆きと苦しみの日々が、もうあと二年、いや一年、いや、あと一生つづくのか、知る由もないが、それによって命を失ったとしても、それがなんであろう。

そんな路傍の花にも如かないような、うたかたの命を守ろうとするから、かえってそれを失うのである。

そんな命は、私の胸にあるささやかな誇りよりも、なおいっそうささやかなシロモノでしかなく、

ささやかな誇りを周囲に向かって誇ってみせたところで無益であるように、たまゆらの命を守ろうとする人の労苦はさらに無益であり、往々にして悲劇的でさえある。

それゆえに、

冒頭の「どんな記録よりも、あの日々が…」という偏屈な言葉のとおり、

また、

「苦難をも誇りとする」という頭のおかしな言葉のとおり、

私もまた、かく言うものである。



…呻きと嘆きと哀歌を詠む日々よ、私の上に昇れ、昇れ。

お前は夏の陽のごとく、私の首の上に輝いて、私の身に深紅の花弁を咲き誇らせる。

お前によって私はうつろい、やがて枯れ、ついにはしおれてゆく。

息をのむように私はお前の胎に宿り、息をつくように吐き出され、時と共にその息のごとく消えてゆく。

お前は神から来たと物を言い、だからお前は神だと物を言う。

が、はっきりと言っておく、お前はけっして、神ではない。

たとえいっとき、お前が神のようにふるまってみせても、神の御心はお前ではない。

だからお前もまたこの私のように、息のごとく消えゆくばかりである。

さりながら、

お前の後にはもはや何も残らないが、私の後にはわずかに残る。

切株のひこばえのようにささやかな、言葉が残る。

お前は私をなぎ倒し、打ち倒してもなお、このひこばえの萌え出ることまでは、止められない。

誰にも止められないものは、けっして誰にも止められない。

私の後には、ひこばえが残る。

それが、お前にはない、私のささやかな誇りである。

お前によってなぶられ続けた日々の下で、私に与えられた、神の恵みである。

なぎ倒された切り株の、ひこばえのようなささやかな言葉こそ、わたしの力、わたしの歌、わたしの救いの神――

わたしの神、わたしの愛する神、キリスト・イエスなのだから。


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