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【雑談】「現実」と「リアル」の違いって?

9月になっても相変わらず酷暑な雑談🥵

4月からはじまった「テラスタルデビュー」編も気づけば次回で20話目(HZ46~65話)。これまでの感覚だとそろそろシーズン〆の時期に入る。

第一章「リコとロイの旅立ち」、第二章「テラパゴスのかがやき」と同じくエクスプローラーズ(EXP)との抗争から次章に遷移するというのがHZシリーズのお決まりになっているようだ。ブチギレサンゴは最早シーズン終わりの風物詩🎐

左上.EP25:闇夜の強敵、右上.EP44:レックウザ捕獲計画
下.EP64:ナッぺ山、しのびよる影

さて、突然EXPとの抗争に入ってしまったが「テラスタルデビュー」におけるリコロイドットの目標はテラスタル研修を通してその技術を身に着けること。

ロイとドットは無事に応用テストまでクリアして晴れてテラスタルを使える身になったが、リコはグルーシャから不合格を貰ったまま…このままだとリコだけテラスタルを使えないままシーズンを終えることとなる。

EP64:ナッぺ山、しのびよる影

HZでは序盤から現在に至るまで、主人公であるリコに強い負荷をかける作りとなっている。相棒のニャオハは気難しく、序盤から強敵に襲われ、覚醒したテラパゴスのことは謎だらけ…。

所謂「主人公補正」と言われるような都合のいい展開はリコには中々訪れない。HZは「やさしいせかい」ではなく、「生々しい世界」だ。

ただし、これはHZを「写実的な≒現実に即した」アニメだと評しているわけではない。HZはポケモンコンテンツが本来保持しているSF的世界観を継承しており、大本には「ポケットにファンタジー」な思想が下敷きになっているだろう。

「ポケットにファンタジー(1998)」作詞:戸田昭吾 作曲:たなかひろかず ピカチュウレコード

鍵になるのは「生々しさ」という言葉が持つ感触。それはHZを観ている私が感じる「リアルさ」に起因している。そして「リアルさ」と「現実らしさ」は似ているようで異なる概念なのだ。

「桜」を例に考えてみよう。実際の桜をモチーフに写真、イラストA、イラストBという作品が出来上がったとする。写真は現実を切り取るメディアとして知られているが、イラストA及びイラストBを見ても「桜」と認識できるはずだ。

さて、あなたが「どれが一番『現実らしい桜』か」と言われたらどう並べるだろうか。あくまで一般的な視点で考えれば、「写真>イラストB>イラストA」と並べるのが「普通」だと思われる。

では、さらに一歩踏み込んで「どれが一番『桜らしい』か」と聞かれたらどうだろう。一見これも「写真>イラストB>イラストA」の順に並べられると考えがちだが、実はそんなに単純な話ではないかもしれない。

イラストAでは桜と鳥が並べて描かれており春の生命の息吹が感じられる。イラストBは淡いタッチで桜の儚さが表現されている。そして写真からは明確な生物としての桜の花としての構造が見て取れる…。

実際の桜だけではなく、それを映した写真もリアルタッチのイラストもデフォルメしたイラストもそれぞれの「桜らしさ」を内包している。だからこそ桜というモチーフ一つとっても多様な表現が存在しているのだ。

話を戻すと、HZにおいて私が「生々しさ」を覚えるのは作品の中で「リアルさ」を感じるからだ。それを詳しく言語化するのは難しいが、リコに降りかかるプレッシャーが「リアル」に感じるから…と説明できるかもしれない。

現実にポケモンがいる生活を送っているわけではないけれども、先が見えない不安に押しつぶれそうになったことはきっと多くのオーディエンスが経験している出来事だろう。誰かと比べて焦り、自分自身の不甲斐なさに憤り、何故自分だけがこんな目に…と世を恨むことだってある。

そしてそれらの感情が静かに降り積もり、何かのきっかけで一気に雪崩になることも。リコが生きる世界がたとえファンタジーだったとしても「リアル」にありえる。

勿論これはリコに限ったことではない。直近でのスピネルのブラッキーに対する扱いに対する世論の吹き上がりもまた「リアル」な感情によるものだろう。

空想の世界から「リアルに」感情を揺さぶられながらこれからも私たちは作品を鑑賞する。クライマックスにかけてどんな「リアル」が待ち受けているのかドキメキしながら心待ちにしよう…To Be Continued.

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