地上波から視聴者参加型討論番組が消えた

かつては、NHKをはじめとする、さまざまな局で視聴者参加型の討論番組が見られた。

けれども、昨今では、「専門家」や「有識者」が参加する討論番組のていを取る番組は見られるものの、視聴者の参加する番組は見られなくなってしまった。

SNSや、このnoteのように、自ら発信できる機会が増えたことが要因のようにも思える。

しかし、討論はコミュニケーションであり、発信することとコミュニケーションは全く異なる。誰も聞いてなければただの独り言だ。

そもそもコミュニケーションは、他者を理解するためにある。他者とは、自分の立場の違う人のことだ。もっと言うと、あいつ嫌いだ、と思う相手のことだ。

討論が減ることは、他者を理解する場が減ることに他ならない。

深まりつつある分断をとめるためには、討論、すなわち、コミュニケーションは必要だ。

例えば、下記のような言説はしばしば見られるのだが、

 「国民の分断を深めた」と騒ぐ人が多いので、まるでこれまで日本は分断していなかったような錯覚を受けるだろうが、歴史を振り返れば、「分断していない時代」など存在しない。
アベガーの次は「分断ガー」誕生でも、日本の分断は昔よりマシである理由


では、誰かと議論しようとはならないのだ。自分の言いたいことを言ってそれで終わりなように見える。そして、この書き手は、かつて、この国にたくさん討論番組があったことを見落としている。

なぜ、討論をしなくなったのか?

なぜ、コミュニケーションを拒むようになったのか?

社会というのは他者の集まりである、という意味で、常に分断しているのはそうだろう、と思う。

しかし、他者を理解する場が減ることは当たり前ではないし、正当化すべきことでもない。民主主義国家と言っているのだから。

コミュニケーション不全に陥っている社会に必要なのは、コミュニケーション、つまり、討論の場ではないのか。

なぜ、コミュニケーションを拒むのか?

ひとえに、コスパが悪い、もっといえば、端的にめんどくさいからだろう。

そのめんどくささが、後述するように、割れ窓を増やし続けているのだ。

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