本音の必要性〜理性との共存〜

良い人になるには悪いところを無くさなければならない。それは心の中でも同じだ。悪態をつくことは一時の快楽を生むが、真の良い人からは遠ざかる。

だが、他人が良い人かどうかはたぶん大抵の人にはどうでもいいことだ。どんな人かわからないからできるだけ接点を作らないように過ごす。悪い人かもしれないし関わったらロクなことがないかもしれない。社会の中では、見ず知らずの人たちの中では、目立たないように行動することが最も適切な選択だと思う。

そんな何食わぬ顔をしていても、腹の中は自由な罵詈雑言が飛び交っているかもしれない。それはその人の中だけで完結していれば他人には関係のない話だが、もしその言葉が他の人にも聞こえるようになったら、他人事で済まなくなる。今日はそんな話をしようと思う。

まず初めに断っておくべきことが、私自身他人に考えたことがだだ漏れにされている、いわゆる思考盗聴の状態にあることをほぼ確信しているということだ。何を見ているか何を考えているかが他の人に伝わっていて、彼らには誰が思考の主かがわかる状態にある。そのような環境の中で、私は下手なことを言うことが許されなくなった。理性を行動のみに用いるのではなく、感受性のところへも当てはめて、悪いことを思わないように矯正される。もしそうしなければすぐに他人は嫌悪感を以て態度を示してくる。これがどこへ行っても当てはまる状況なのだから、ストレス以外の何物でも無い。私の自由な思考実験は、笑えない冗談としてただシリアスに受け止められ、抑制されていくのだった。

私はつくづく疑問に思う。心の中の罵詈雑言は果たして本当に咎められるべきなのだろうか?と。表で良い人を演じれば社会の中ではそれで充分なのではないか。なぜなら、中身がどうであろうと、思考盗聴のない自然状態においては、他人にとっては全く関係のないことで好きにすればいいことなのだから。

私が思考盗聴を受けた理由は憶測でしかわからない。ただ、私は高校卒業後は何年も家に居て、一応浪人していたわけだが、社会から見れば社会に貢献しない存在に見えていた。だから学校を出てから働いていない存在にどこかで気づかれて、まともな人生を歩ませられない罰を下すつもりで行われているのだろうと考えた。

しかしそんな罰を下すことに何のプラスももたらさない。本人はますます家に引きこもり社会資源が失われることになるし、関係のなかった他人も巻き込むことになるからだ。もし罰を下すことに意義なんてなければ、社会の中で互いに消耗し合うことを楽しんで見られる特権階級の存在があるのだと思う。

もしこれを読んでいる方が思考盗聴なんてあるわけ無い、統合失調症だ、と思われるのならそれほど幸せなことはない。この自他の境界を超えた剥き出しの心理戦争が幻想であったならそれが一番いいからだ。

私は本音を伝えたいとは思わない。誰だってそうだろう。人間は本音と理性とを共存させてこそ、様々なアイディアを生む。ネガティブを全否定するのでは心はもちろん、頭の活動も死んでいく。思考を読み取られる側の感情はこうだが、思考を送信される側の感情は、思考の主がただ黙ってさえいれば平穏そのものだから、両者は対等な関係ではない。怒りに任せて私がなんでもかんでも口走れば、脈絡のない罵詈雑言を聞かされた方は、人間として正しい防衛反応として、嫌な気持ちになる。一体なぜこんな臨戦態勢を市民に向けて強いることができるのか、思考盗聴を起こしている人間の神経を疑う。

人間に自由あれ。人間から自由を奪う科学技術を放任してはならない。

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