文系が算数の問題を見るとこうなる

 算数の問題を解いていると、しばしば不可解な状況に遭遇することがある。池の周りを飽きもせず周回し何度もすれ違う2人、値段を見ずに半端な数の果物を買う少年、そして定期的に移動する点P――まったくもって意味不明である。

 彼(それ)らは一体何がしたいのか、なにゆえそんなことをするのか、この問題を解いて何になるというのか。算数嫌いなこどもが必ず一度は口にする問い。


 正論である。と同時に愚問である。

 意味を求めてそれこそ何になるというのか。

 何を隠そう、私も理系科目(特に数字を扱うもの)は苦手である。まず小学4年生の頃、「みはじの円」でつまずいた。数学Ⅱで虚数が出てきた時には「こいつぁヤベェぜ」と思った。実在しない数をわざわざ生み出し、どうにかしようとする、あまつさえその過程を嬉々として語る教師を目の当たりにし、関わってはならない世界があることを知った。そして、意味を考えるより目の前の問題を解くことに集中する方が利口だと気付いた。今となっては、それが正しかったのかはわからない。赤点や補習と対峙してでも、こんなことはおかしいと声を上げるべきだったのかもしれないが、それはわからない。ただ1つわかっているのは、虚数がわかろうがわかるまいが、スーパーで買い物はできるし、あと何時間働けば休憩時間になるか計算できるということだ。

 虚数は理解できなくともよい。ただ、繰り上がりの計算と時計が読める力はつけておいた方がよろしい。

 前置きが長くなったが、とどのつまり、算数の問題に意味を求めてはいけない。目の前にあるから解くのだ。回転ずしと同じである。レーンに乗って運ばれてくるネタを順番に片付けていけばよいのだ。

 好きなネタしか取らない?

 そういう小賢しい物言いをできるのは算数を学んだおかげである。算数万歳。

 さて。訳あって、ある知り合いから算数の文章題を出題された。兄弟の一方がもう片方を追いかけるアレだ。問題文を読みながら、背中寄りの脇腹がむず痒くなったのは、言うまでもない。だが、よく読んでみると、え、そこ聞く?とこちらが困惑する設問内容であった。知り合いなりのジョークであった。

 彼が放ったユーモアは、「真剣にふざける」をモットーのひとつに掲げている私の心に火をつけた。売られたユーモアは倍の値段で買うのが流儀ってもんでしょうよ。

 私含め、算数嫌いなこどもは、それを「数を使ったムズカチイなにか」と捉えているきらいがある。それゆえ、よく読みもしないで敬遠してしまう。すしで言うなら食わず嫌いだ。であれば、何らかの物語性を持たせてみればどうだろう。登場人物の姿をイメージできたなら、その不可解な行動にも多少の共感を抱くことができるかもしれない。

 意味などない。ただの暇つぶしである。

 意味のない問題に対して意味のない理屈付けをしても誰かに文句を言われる筋合いはないだろう。異論は認めない。

※次の条件にすべて当てはまる方だけこの先に進んで下さい。
①話の続きに興味がある
②続きを読み進める時間がある
③ん?と思っても読み飛ばせる

問題
兄と弟の2人が学校に向かっていっしょに家を出ました。
家を出て6分後に忘れ物に気づき、すぐに
①兄だけが走って家にもどりました。
兄は家に着いてから2分後に、忘れ物を持って走って学校に向かいました。兄と弟がいっしょに歩くときの速さは時速4㎞、兄が1人で走るときの速さは時速6㎞です。
弟は兄と別れてから
②5分間その場で待っていました
が、待ちきれずに時速3㎞の速さで学校に向かって歩きだしました。
問1)①兄は何を取りにもどったのでしょうか?
問2)②このとき弟はどんなきもちだったでしょうか?

 論理を組み立てるために、細かく問題文を読んでいく。

考察1)兄弟の年齢
 問題文によると、兄と弟の2人が学校に向かって一緒に家を出たとある。おかしなところはないように思えるが、兄弟が一緒に学校に向かうシチュエーションとは何か。私にはひとつ歳の離れた兄がいるため、同じ中学校(ちなみに部活動も同じだった)に通っていた時期が2年間ある。しかし、結果的に同じ時間に家を出たことはあっても、揃って学校へ向かったことは皆無に等しい。兄妹であってもそうなのであるから、まして男同士が連れ立って出かけることなどあるだろうか、いや無い(反語)。だが彼らは一緒に家を出たらしい。これに何らかの理由付けをするならば、「兄と弟は歳が離れており、兄は弟が心配だった」、これに尽きる。尽きるのだ。

 では、どれぐらい歳が離れているのか。まずは兄の年齢について考える必要がある。問題文を読み進めると、兄は時速4㎞の速さで歩くことができるとわかる。これは大人の平均的な歩行速度である。つまり、兄は大人と同じ速度で歩くことができる、すなわち高校生程度の年齢ではないかと推測できる。

 兄は高校生だとして話を進める。ここで弟の年齢についてであるが、弟が小学生の場合、キミ、登校班はどうしたのかねと言いたくなる(過疎地で登校班が無いのでは?という可能性は考えない)。したがって弟が小学生である可能性は低い。次に弟が高校生である場合について。兄が高校生なので最大で2歳差ということになるが、何歳差であれ男子高校生同士が連れ立って学校に行くことは先述したように考えにくい。よって弟は高校生でもない。と考えると弟は中学生であると考えるのが妥当である。

 これで、両者の間には3歳から5歳の差があることになる。高校生の兄と中学生の弟がいっしょに学校に向かう理由について、心理的な面から解明された。次にその必然性についてであるが、どんなに兄が弟を心配していても、両者の通う学校が真逆の位置関係にあっては、一緒に学校に向かうことはできない。このことから、彼らの通う学校は中高一貫校か、あるいは高校と中学校が隣接していると考えるのが適当である。

考察2)忘れ物
 次に、忘れ物について考察する。家を出て6分後に忘れ物に気づいたとあるが、これは距離にすると家から400m地点である。なんだかきれいな数字が出たなあとか思ってはいけない。

 少し想像してみよう。「400m地点で忘れたことに気づいたとして、取りに帰ろうと思う忘れ物」とは何か。中高生の忘れるものといえば、宿題や部活のジャージが候補にあがるだろう。だが少し考えてほしい。宿題は普通かばんの中に入っている。かばんの中に入っている(と思い込んでいる)ものをわざわざ確認しようなどと思いつくだろうか。しかも徒歩で移動中に。

 ジャージも同様である。重ねて言うが、彼らは徒歩で移動中である。なるべく手に持つ荷物(←ダジャレではない)はひとつにまとめたいと思うだろう。つまりジャージもかばんの中に入っているのである。

 余談であるが、私は忘れたことに事前に気づくことができるのならそれは忘れ物ではないと思っている。だから、家を出る時などに「忘れ物ない?」と聞くのは少しヘンだ。忘れ物は忘れた事に気づいた時にはじめて、忘れ物たり得るからである。

 閑話休題。ちなみに弁当である可能性も低いと考える。なぜなら、習慣的に持ち歩くものは忘れにくいからである。「かばんの中を探さずとも見てわかるもの」、そこへ「常に持ち歩くわけではないもの」という条件を加えた結果導き出される答え、それは…。

 そう、傘だ。

 おそらく通学途中の道すがら、こんな会話が出たのだろう。「今日はいい天気だね、兄ちゃん。」「そうだな、でも夕方には雨降るらしいぞ。」

 ここで問題発生である。弟が傘を忘れたのである。傘ならまあ、取りに帰るでしょう。ところで傘を忘れたのが弟だとするのには理由がある。問題文をよく読むと、確かに忘れ物を取りに帰ったのは兄だが、忘れ物をしたのが兄とはどこにも書かれていない。主語が書かれていないんだから、どう解釈しようと読み手の自由である。

考察3)揺らぐ感情と弟の成長
 納得のいかない方のために、仮に忘れ物をしたのが兄だとしよう。兄はおそらく弟にこう言う。「兄ちゃんは一旦家に戻るから、お前は先に行ってろ。」それに対し、「わかったよ。」弟は再び歩きだすはずだ。だが実際はどうか。弟は五分間ものあいだ待っていたとあるではないか。この不可解な行動は、「弟の忘れ物を兄が取りに行った」と考えれば説明がつく。自分の忘れ物を兄が取りに帰ってくれているのに自分だけ先に進むことができるわけない…そんな思いが弟の中にはあったのだろう。

 だが五分待った後、結局彼は1人で歩きだす。なんなのだと思うかもしれないが、注目すべきはその後である。「時速3㎞の速さで」歩いたとあるが、弟は時速3㎞でしか歩けなかったのではないだろうか。仮にそうだとすると、兄と一緒に歩く時、弟は多少無理をしてペースを合わせていたことになる。

 なぜ弟はそんなことをしていたのだろうか。弟の忘れ物を走って取りに帰るような兄である。ペースを緩めるよう弟が頼めば、二つ返事で聞き入れてくれるに違いない。弟もそれをわかっていたであろうに、なぜ言えなかったのか。

 心理学者のアブラハム・マズローは、人間の欲求を5段階に分類したことで知られている。彼によれば、そのうちのひとつに「承認の欲求」があり、他者から褒められたり認められたりすることに対する欲求がこれに当てはまる。また、「承認の欲求」を含むいくつかの欲求が満たされないと、人間は不安や緊張を感じるという。逆に言えば、この欲求が満たされれば生きていることに喜びや意味を感じられるのである。

 おそらく、弟にとっての兄とは尊敬に値する存在であり、そんな人物から認められることこそが弟の最大の喜びだったのではないだろうか。そして、少しでも兄に近づきたいという願望もあったのだろう。歩くペースを緩めてほしいと、弟は言えなかったのではなく言わなかったのである。

 ここまでの考察を踏まえ、兄を待つ5分間の弟の気持ちを考えてみる。初めのうちはおそらく、兄に対する感謝の念と申し訳なさが大方を占めていたであろう。だが、次第にこのままでいいのかと自問し始める。兄が来てくれるのをただ待っているのではなく、今できること―自分の力で少しでも先に進む―を成しえてこそ、兄に認められるにふさわしい。そう気づいたのである。
 そしてちょうど5分が経過した頃、弟はそれまでの自分と決別し、自らの進むべき道を見据え一歩を踏み出したのである。

最後に各問いの答えをまとめると、こうだ。
答1)弟の傘(厳密には、忘れたのは弟)
答2)兄に対する感謝と申し訳ないという気持ち。そして、兄に頼るだけでなく、自分が進む道は、自らの力で切り拓いていこうという決意。

 簡潔に要点がまとめられた文章の向こう側には、ともすれば無数の物語が隠れているのかもしれない。

 毎分異なる水量を排出する複数の蛇口を、開けたり閉めたりする行動にもなんらかの物語が秘められているのだろう。

 今回で言えば、ただ数字をこねくり回しているだけの問題と侮るなかれ、そこには美しき兄弟愛の物語があった(かもしれない)のだ。

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