お気持ちツイートまとめ②
呼ばれてないけどじゃじゃじゃじゃーん、りおんです。
広義明日は1週間の中で一番起きるのが早い日なのに一番寝るのが遅い。
今もふと思い立って2つ目のツイートまとめを書こうとしている。
本当に読みますか?
自己責任ですよ~?
私言いましたからね。
前回はしゃふについて書きました。
さっき読み返したのですが、なんとも読みづらく、、
今回もあんな感じで続くと思いますがよろしくお願いします。
さて、今回は「配慮」について。
とある日、TwitterのTLにて、「配慮」と「我慢」についてのツイートを見かけました。
配慮の上で配慮する側が我慢をしなくてはならないと。
私は「配慮」と「我慢」は全くの別物だと思っています。「配慮」をするのに誰かが「我慢」をするのなら、それは「配慮」の仕方を変える必要があると思うのです。
(合理的)配慮とは、マイノリティ・マジョリティ等関係なく、誰もが過ごしやすい社会を作るためのものであって、自分自身がどうあったら嬉しいかを考えるのも大事な視点だと考えています。また、「自分がそうなったら」という『自分事』という視点も必要でしょう。
本来の目的 +α です。
例えば、私は街中や学校で使うトイレは綺麗で清潔な方が良いです。ベビーカーや車椅子を使用してるなら駅の改札は広めが良いです。
そういった『当事者意識』が重要なのです。
そうそう、私は、以前、教授に言われた
「合理的配慮というよりも合意的配慮の方があってる気がするね」
というのがしっくりきました。
こちらの思う利用者の欲しい物と、自分含め実際に利用する人の欲する物のちょうど重なった部分、どちらかの自己満足でないもの。
ただ、この「配慮」、どこまでやればいいんだって話なんですよね。
先に合意的配慮という言葉が出てきましたが、この世に生きる全ての人間に配慮することは可能なのかと。もはやそれは配慮なのかと。
配慮の手を広げすぎることで1つ1つは手薄になったり、最初に書いたように配慮をすることで別の生きにくさを抱える人がいたり。正直難しい。
配慮って何だろう。
配慮って何をすることなのだろう。
ただ、何かをしたい人が一緒にできるようになるなら、配慮すればいいじゃないかと、シンプルに、ただシンプルに、私は思います。
「シンプルにただシンプルに」って、Mrs.の曲にあったな。
『SimPle』、良い曲だから聴いてね。
YouTubeの公式であがってなかったや(´・ω・`)
って話がずれちゃった。
上手にまとめられないのですが、こういったことを考えるのをやめたくないと思いました。”多様性”という言葉が重んじられるのではなく、”多様性”という概念が重んじられる社会になってほしいのです。
私もまだまだお勉強中の身。視野を広げていきたいですね。
それではまたいつか。ばいちゃ。
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