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支援に必要な知識って何なのか

前回、支援に必要な「前提となる」んじゃないかと思う話を書きました。(もしお読みでない方はよければ先にそっちを読んでね)

 
 
要は、「知識は必ず必要になるけど、知識で人は支えられないよ。だからその知識を扱う土壌を自分の中にまず持とうね」という話を先にした感じです。
知識はあるとそれは便利なものなんですが、知識ってあくまで「答えが出ているもの」、つまりある事柄についての「答え」なんですね。


ただなにぶん僕らの役割ってはっきりした「答え」がないものに向き合う仕事で、逆に言うと「簡単に答えが出たり、今ある答えで対応してしまうことの方が危ない」んだと思っているので、どちらかと言うと「問い」を探したり見つけたりして、そこから新たな答えを紡いでいくような感覚を持ててた方が確実にいいと思います。


さて。


ここからが本題です。
前もって言っておくと、これはまったくもって学術的なお話ではありません。
一応勉強会用のアーカイブ、というところでは僕にとって普遍性がある話を書かせてもらっていますが、まず僕は医者ではありません。そして障がいについての研究家でもありません。
福祉従事者、もっと言えば現在は障がい福祉の従事者です。一応当たり前の範囲程度に障がいについての一般知識は持っていると思っていますが、今日ここで書かせてもらうのは、そこで得た情報の「整理」ではありません。
そんなもん書くのであれば、単純に一番わかり易いであろう書籍のリンクを貼っておくほうがよっぽどか早いと思うので、そういうカタチではなくて、「現場感」と「支援する上での観点」を踏まえた上で、僕なりに知識は随分と加工して咀嚼したものをアーカイブしておこうと思います。


なので、これについては一旦僕の中では普遍化はしているものですが、時代が流れていく中で変わっていく可能性はあります。そして、今のところ僕は主にある程度就労に向かえるか否かのレベルの方との関わりが多いので、そしてそもそも、この記事を僕は自分周りで勉強会に使おうとしているので、少し汎用性に欠ける範囲になると思いますので、事前にご了承をお願いします。


知的障がいという曖昧な表現をされるものにも違いがある気がする

【伸びシロという観点で因数分解する】

一般的に「知的障がい」と呼ばれていますが、僕の肌感覚では大きく2種類あると思っています。
知的発達が通常発達よりも「遅い」タイプ
・知的発達がある年齢で停滞していて「成長しにくい」タイプ

です。

いわゆる知的年齢だったりIQで測るのは数値化としては把握しやすいですが、「だからどうしたらいいの?」は全く見えてこなくないですか?

大事なのは障がいがどういう状態かではなくて、そこからの支援です。おそらく見なくてはいけないのは、今の状態プラス支援の方向性が見えてこないといけません。
その観点から考えたら、支援現場の中で一番実効性が高いのは、「ゆっくりと伸びていくのか、伸びにくいのか」の傾向を把握しておくことです。

ゆっくり成長できうるタイプだったら、本人に合わせたペースの成長のための支援を行えばいいですし、成長自体がそれこそ特性上望みにくいタイプだったら、学習的なアプローチではなくて、例えば遊びのように取り入れるアプローチに切り替えるなど、支援自体のイメージを作りやすくなりますよね?



【福祉の罪】

これこそ僕自身の体感的経験的な感覚です。
これは幼少期から福祉的な支援(療育⇒支援級や支援学校⇒福祉サービス)を受けてきた方にちょいちょい感じることなんですが、「支援馴れ」してるんですね。
してもらうことが当たり前だったり、自分で考えなくてもいいのが当たり前だったり、かんしゃくを起こすと周りがフォローしてくれたりすることを「分かって」していたり、というフシがあります。

これは本人が悪い話ではないです。福祉のシステムエラーとクォリティの問題だと思っています。
厳しく厳しくすることがもちろんいいわけではありませんし、何でもしてあげることがいいわけでもありません。ただ僕らがしないといけないことって、「目の前の問題を取り除いてあげる」ことじゃなく、「障がい特性」と名付けて、できるようになる可能性があることを取り上げてしまうことでもなくって、「できる限り自分の力と意思で生きていけるようになる」ための助言や指導や手伝いをすること、だと僕は思っているのですが、そういうビジョンを持たずに、もしくはそのビジョンが継承されずに支援の手を渡り歩いてしまうことで起きるのかな、と思います。



【経験をきちんと積む】

たとえ実年齢が何歳であろうとも、僕らは自分が正しく経験を積んでいないことや正しく理解できていないことについては、「できない」です。それは障がいがあるとかないとか関係がないことです。


例えば、「人を殺してはいけない」というモラル、これを少しスケールを下げていくと、「人を傷つけてはいけない」で、もっと下げていくと「人に痛い思いをさせたらいけない」です。(心を傷つけるという話をわざとどけてます)
これが幼少期の「人を叩いたらいけないよ、痛いから」という躾なんだと僕は認識しています。少し乱暴な理屈かもしれないけれど、子どもの頃にするケンカって僕は大事な経験だと思います。お互い叩いたりつねったりし合う、痛い思いをする、痛い思いを自分で経験するからこそ「痛い」が理解できるんですよね。

これ、支援という観点から見たときには、言ってもイメージがつかない当事者であれば、見てイメージングしてもらうようなアプローチなのか、あえて経験を通じて理解を促すのか、の選択肢になるよね、ということです。子どもの頃のたわいもないケンカを「経験させてもらえない」ことで、口頭理解がしにくい当事者であれば「痛い」⇒「人を殺めてはいけない」のプロセスの支援は滞ることになる、という事です。
他愛もないケンカだって、大事な経験値として必要です。
僕ら支援者がしないといけないのは、こういう「経験」をどのように積ませてあげるのか、その経験を本人の理解にどうやって繋げるかのマッチングとコーディネートだと思います。


もうちょっとコンパクトにまとめようと思っていたのですが、結構項目に整理してもボリュームがあるので、次回に持ち越します。

うーん、テーマが広すぎているのか、僕の言語化があまり上手ではないのか・・・



 

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