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二歳半の記憶

 幼い頃、お気に入りだったおもちゃがある。幼稚園児が人差し指と親指で挟めるサイズのプラスチックのボール。透明な球体に液体が浸されており、その中に一回り小さなボールが浮かぶ。中のボールには何か模様が描いてあったが、それが何だったかはあまり覚えていない。万国旗か地図か……。白地に緑が基調、黄色や赤も入っていた気がする。

 好きなのは模様ではなく、その球体の不思議な動きだった。外側の球体をくるりと回しても、中のボールは向きを変えずに少し揺れるだけで、ぷかぷかと浮かび続ける。反対にうまく力をかけて液体に渦を作れば、くるりくるりと回りだす。地上に足をつけた私が日常で見るものとは異なる動きがおもしろくて、手のひらでコロコロ転がしながらじーっと見つめていた。

 特に湯船に浮かべると、その浮遊感が増してより不思議な動きをする。透明な球体がゆらゆら。中のボールもぷかぷか。その様子が嬉しくて、ボール片手に長風呂をしていたものだった。

 幼稚園児の女子。持っていたおもちゃの多くは、シルバニアファミリーやおままごとセット、ビー玉やおはじき、パズルや迷路、外遊びの道具。女の子らしいものや知育系のもの、友達と遊びやすいものが大半だった中で、小さなプラスチックのボールは少し他と毛色が違う。遊び方も目的も分からず、描かれている模様もどちらかといえば男の子向けのような印象だった。

 それでもそのボールが好きだったのは、なぜなのだろう。そのボールが強く印象に残っているのは、なぜなのだろう。いつ、なぜ、他のおもちゃとは違うそのボールを買ってもらったのだろう。長らく疑問だった。

・・・

 ふと断片的な記憶が蘇ったのは、19歳の冬休み。ベトナムで、露店のカフェに入ったときだった。

 地均しが整っていない上に石のタイルを並べたような凸凹の歩道に、幼稚園でお絵かきの時間に使うようなプラスチックの低いテーブルと椅子が並ぶ。現地の友人がさっとその椅子に座ってコーヒーを頼む。それにならって私も低いプラスチックの椅子に座ったとき、初めてのベトナム、初めての露店カフェのはずなのに、遠い昔に似たような体験をした気がした。ふわりとそよ風が通り過ぎるように、いつ・どこのものか分からない記憶が浮かんだ。

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 父と車で出掛けている。今日は母も妹もいない。「喉が渇いたから、何か飲もうか」と大通り沿いの駐車場に入り車を降りるが、スーパーもコンビニも喫茶店もない。大通りにもかかわらず、車通りはさほど多くなく、人気も少ない。ビルは並んでいるのだが、どこか閑散としていて灰色の世界だ。

 一軒だけ開いている露店が見える。軒先に小さな机と椅子を置き、木箱に駄菓子やドリンクを並べる「昭和の駄菓子屋さん」といった雰囲気だ。人気の少ない街で、そこには少し疲れて見えるおじさんが数人集まっていた。子ども向けのお店に見えるのに、なぜ大人ばかりいるのだろうと、不思議だった。

 父が飲み物とお菓子をお店のおばあさんから買っているあいだ、木箱の中をのぞいてみる。小さなおもちゃがいくつかあった。その中で目に入った、透明な球体。重い灰色の世界の中で、それだけがキラキラ輝いて、柔らかく平和に見えた。

「それが気に入ったの? 今日はお利口さんにしていたから、ご褒美ね」

 私の様子に気づいた父が、小さなボールを購入する。少しだけ、おばあさんも笑ってくれて、世界が明るくなった。小さな手のひらにボールを渡されて嬉しくなった私は、それまで街に感じていた違和感も重苦しさも忘れてぴょんぴょん跳ね、帰りの車中でずっとそのボールを回して眺めていた。

・・・

 不動産を扱う父は、休日に現場を見に行くことがあり、たまに私たちも一緒に行った。数軒現場を見たら、観光や美味しいものを食べに連れて行ってくれる。おそらく思い出した映像も、父が現場を見に行くのについて行ったのだろう。

 けれど、小さなボールを欲しがるような年齢の頃に、なぜ母も妹もおらず一人でついて行っていたのかは、まったく思い出せなかった。あんな昭和の雰囲気の街に父の現場があったのか、いつの記憶なのかも分からなかった。

 記憶を辿って思い出そうとしていたら、もう一つ別の現場について行った記憶が浮かんできた。

・・・

 同じく、父と車で出掛けている。母も妹もいない。

 父が車を走らせる道には複数車線あり、対向車線とこちらの間には柱が並んでいる。柱の上には高速道路が走る。そんな大通りなのに、やはり車は少ない。いくつか見かけた車はトラックなどで、一般乗用車の私たちは少し浮いているような気がする。

 道路沿いには建物が並んでいるのだが、それもどこか違和感がある。ところどころ歪んでいたり、バランスが悪かったり。一見完成されているようなのに未完成に感じる建物たち。けれど、建築途中にしては違和感のある部分はおかしな位置なのだ。こんな大通り沿いなのに、誰もいない雰囲気の建物が多いのも、どこか不気味だった。

 父は太い道路にもかかわらず、いつも以上にゆっくりと車を走らせ、無口だった。

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 どちらの記憶も、朧げな映像だ。薄い色鉛筆でぼかして描いた上に、霧吹きを吹きかけたかのような朧げさ。けれどそれは、確かに過去の私が見た景色で、体験した出来事だと、19歳の私はどこかで感じていた。

・・・

 あれは、どこに何を見に行ったのだろうか。二つの記憶は、同じ日の出来事なのだろうか。なぜ父と二人だけだったのだろう。何歳のときの記憶なのだろう。

 ずっと気になっていた私は、あるとき母に話してみた。

「昔さ、小さなボールが好きだったじゃん。ちょっと男の子っぽいおもちゃ。透明なボールの中に、緑っぽいボールが入った」

「ああ、あったね! 翼はあれ好きだったねえ。ずっとくるくるして遊んでて」

「あれってさ、いつ買ってもらったんだっけ? パパと二人で車で出掛けた帰りに、なんか昭和の駄菓子屋さんみたいな軒先の路面店で買ってもらった記憶があるんだけど……」

 それまで笑って昔話をしていた母が、ピタッと手を止めて驚いた表情をした。「あれ、記憶違いだったかな……」と少し不安になるほどの間が生まれた。

「……そのときのこと、覚えているの?」

「え、多分。すごく曖昧な記憶なんだけど……」

 一通り思い出した記憶の断片を話すと、母は「はぁ〜」と感心のため息を漏らした。

「翼が覚えてるとは思わなかった。それね、95年、翼が2歳半のときだよ」

 95年。妹が生まれた年。それで母も妹もおらず父と二人きりだったのかと納得した。

「じゃあ、もう一つ、開発途中のニュータウンか映画撮影場所みたいな雰囲気のところにパパと二人で行ったのも、同じかな」

 記憶を結びつけながら呟くと、母はさらに驚いて目を開いた。

「それね、神戸なんだよ」

 ああ、だから街に違和感があったのか。だから灰色だったのか。記憶と記憶が知識と一体になって結びつき、謎が解けていく。

「少し落ち着いて、余震も減った頃にね。小さすぎて記憶には残らないだろうけど、何かは残るはずだって、パパが連れて行ったんだよ」

 建物に違和感があったのは、一階が潰れていたから。街に違和感があったのは、建物は崩れたままなのに、瓦礫が片付けられて異様に綺麗だったから。そしてあの小さなボールは、その帰りに買ってもらったのだ。

 朧げにでも景色を覚えていたこと、それ以上にそのときの感触を覚えていたこと。2歳半という小ささでその違和感を感じていたこと。全てが母にとっても私にとっても驚きだった。

・・・

 1995年1月17日、午前5時46分。明石海峡を震源とするマグニチュード7.3の「阪神・淡路大震災」が発生した。

 当時私たちは、Wikipediaで「甚大な被害があった地域」に挙げられている大阪・吹田市に住んでいた。たびたび両親に聞かされてきた話によると、一瞬にして目が覚めるような下から突き上げる揺れが起こり、その後、船酔いするのではないかという横揺れがしばらく続いたという。関東出身で比較的地震に慣れていた母も体験したことがなかった揺れだったそうだ。

 地震発生時、私たちは畳部屋に布団を並べて親子3人で川の字に寝ていた。そんな揺れの中でも私は熟睡していたらしい。眠り続ける私の上に、お腹に妹がいる母が被さり、その上に父が被さり、さらに掛け布団を被った。

 揺れが収まってテレビをつけてみると、どのチャンネルでも街の大変な景色が映されていた。被害の範囲はすぐには分からなかった。現在のようなチャットやメールはない時代。父はすぐに家を出て、茨木市の職場まで、約2時間かけて歩いて行ったという。

・・・

 大阪出身。妹が生まれた年の出来事。だから、人よりも阪神・淡路大震災の情報を見聞きし、触れてきたと思う。

「冬の明け方の地震だったから、地震だけじゃなくて、火災の被害が大きくなっちゃったんだよね」

 まだ火元はガス。冬の明け方に暖を取る手段も、灯油ストーブかガスストーブがほとんど。そこに揺れが起きれば、火災につながる。小学生高学年になった私に、「だから地震が起きたら火元を切りなさいね」と、母が当時を振り返るニュースを見ながら話した。

 母は幾度かルミナリエにも連れて行ってくれた。ただのイルミネーションではなく、震災被害の大きかった神戸の街に『復興の灯』を灯す、犠牲者の鎮魂のための行事なのだと教えてくれた。

 学校でも震災の話を聞くことはたびたびあった。防災訓練や、耐震偽造問題が持ち上がり話題になった頃、小学校の補強工事が行われ、無骨な鉄骨がガシガシと校舎に取り付けられたとき。担任の先生が地震の体験を話してくれた。調べ学習では地震と防災が課題テーマになった。

 中学では校外学習で北淡震災記念公園へ、保存されている野島断層を見に行った。公園には当時のまま保存されている民家もあった。地学の教科書で見ていたイラスト通りにパッキリと分かれてズレている断層に驚き、こちらとあちらの境界線がはっきりわかる民家の崩れ方に、当時の揺れを想像した。


 けれどこれまでは、どこか別の世界の話だった。どんなに聞いても見ても、自分がその当時生きていたこと、体験したはずであることはピンとこなかった。


 それが、小さなボールの記憶で一変した。


 私は、現場を見たのだ。私は、その時間を生きていたのだ。私はそのとき、ただの赤子ではなく、ちゃんと物事を見聞きし感じる子どもだったのだ。

 霞がかった2歳半の記憶の景色が、震災の生の記憶として、私の中で強烈に印象を強める。

・・・

 27年。当時すやすやと眠り続けていたという私も、母のお腹にいた妹も社会人となり、東京に出てきた。あのボールはもう、手元にはない。小学4年生で引っ越すときに捨ててしまったのか、気がついたら無くなっていた。けれど、まだ記憶の中には確かにある。

ぷかぷか くるくる

 あの日、微笑んでボールを渡してくれたおばあさんは、どんな顔をしていただろう。どんな目をしていただろう。どんな夜を過ごし、何を思っていたのだろう。

ぷかぷか くるくる

 空に描いたボールを人差し指と親指で挟んで光に翳し、じーっと見つめながら、遠い記憶の中のおばあちゃんに問いかけている。

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