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「それでも、忘れられるよりずっといい」と、彼女は言った--4年前、陸前高田にて

今から4年前の2014年5月。ベトナムでの6ヶ月にわたる海外インターンシップ参加を目前にして、私は岩手へ向かいました。一泊二日のひとり旅でした。

伝えられなかった2年前。今度は語れるように、自分の目で見ておきたかった

その2年前、2012年の春にはベトナムで6週間の海外インターンシップ参加していました。そこで現地の大学生や一緒に活動していたブラジルからのインターン生たちによく聞かれたのが震災についてでした。特にブラジルからのインターン生は「あんな量の瓦礫を、どうやってあんな短期間で解決したのか?どうやって短期間で回復したの?」と期待の目で話しかけてきました。

解決なんてしていなくて、まだまだ問題は山積み。大きな瓦礫が撤去されたとしてもすぐにその土地を使えるわけでもない。まだ、解決も回復もしていないんだよ。

そういうことを伝えたくてモヤモヤしていたのに、私には何も伝えることができませんでした。

私は、それまでに一度も被災地を見に行ったことがなかったから。ニュースやネットで見たことは伝えられるけれども、生の声を何も知らない。日本人としてここにいるのに「こうニュースでは流れている」と二次情報の伝聞しかできない。

すごくもどかしく、悔しく、日本から海外に出て来た人間として恥ずかしいと感じました。

だから、今度の半年のインターンシップでは同じ思いをしないように、ちゃんと正しく伝えるために、せめて実際に被災地を見ておきたい。そう思い、夜行バスで岩手へ向かい、釜石から陸前高田へ車を走らせました。


「知りたい」で向かうのは、傷をえぐること? 自分本位で独りよがり?

陸前高田のあたりには、思っていた景色とは大分違った景色が広がっていました。まるで古墳かピラミッドでも建てようとしているのではないかというほどに、盛り土がされているのです。

あとで聞いた話によると、この盛り土は津波が到達した高さまで作られているとのことでした。次に津波があっても流されないように、土地自体をあげているそうです。

何にもない、ただ綺麗に計算された通りに土が高く固めた間を、道路がスーッと通っている。かつて市街地であったであろうところには、土の壁と時折ある信号が光るのみで、人っ子一人見当たりませんでした。

瓦礫や建物が残っている状態以上に、全て綺麗に取り払われて何もないことの方が、残酷に思えた記憶があります。同時に、この時すでに震災から3年経っているのに、まだ盛り土だけで何も街らしくないことも衝撃でした。

ここにあったであろう生活は、ここにいたであろう人々は、どこへ行ってしまったのだろう?

そう思いながら向かったのが、少し山側に建てられた「みんなの家」でした。

「みんなの家」は地域住民とボランティアの集まる場所として開かれたスペース。その建物が独特であることも合わせて有名で、海外から人が来ることもあったのだそうです。

前々日に「海外へ行く前に震災についてちゃんと知りたく訪問したい」ということを連絡してありました。ところが、実際に行ってみると、管理されている女性に言われた言葉に、私は自身が浅はかだったのではないかと困惑しました。

「今日はね、朝からここの家の修繕とかもあって、すっごく疲れてるの。だから、申し訳ないけども、話すのは勘弁させて。建物は見て行ってもらっていいから。本当に、今日は疲れているの

来たら、きっと何か聞ける。何か知れる。そう思って訪問したけれど、当事者たちには当事者たちの今の生活がある。もう思い出したくも話したくもないかもしれない。

私は、興味本位で来た野次馬と変わらないのではないか?自己都合で、すでに十分すぎるほどに傷ついた人の中に土足で踏み込んでしまったのでは?相手の傷をえぐることになる可能性を微塵も考えず、何も知らないでただ「見なきゃ」で来た私の無知は、相手を傷つけものすごく失礼なのではないか?

そんなモヤモヤした気持ちで「みんなの家」を後にしました。


「それでも、忘れられるよりずっといい」飲食店でかけられた一言

自分の無力さと無知さ、ちっぽけさに落ち込みながら、ひとまず昼食を取りに向かった近くの蕎麦屋。道中見かけた唯一のお店でした。地元の人も愛用しているようで、それなりに混雑していました。

慣れない様子で待っている私に、隣で待っていた女性が優しく語りかけて来ました。

「東京の方ですか?」

学生であること。海外に行く前に、ちゃんと自分の目で見ておきたいと思って初めて来たこと。けれど、来てみたはいいけれど、当事者の領域に土足で踏み込むようなものなのではないかと感じたこと、この後の時間をどうしたりいいか途方にくれていること……

「そうですか」と優しく合図ちを打ちながら聞いてくださる女性に、いつしか私は半泣きになりながら感じたことを話していました。すると女性は、こちらに少し向き直って、こう声をかけてくださいました。

「確かに、思い出したくないこともいっぱいありますし、外から人がいらっしゃって話すたびに思い出してしまうこともあります。

だけど、それ以上に、忘れられることの方が怖い。だから、こうして自分の目で見たいと来てくださるのはありがたいことなんですよ。

なかったことにはできませんから、それなら忘れないでほしい。日本は今後も地震は起こるでしょうから、忘れないで次の教訓に生かしてほしい。

一本松はもう見られましたか? せっかくここまでいらしたんだから、見て行ってくださいね」

私は何と答えたのかもどんな表情をしていたかも、もう覚えていません。ただ、救われたような気がして、泣き出しそうだったような気がします。


「岩手県内に泊まってくれるならそれでいい」話を聞いて喜んでくださった老夫婦

その後、食事中に「みんなの家」の女性から電話が入って来ました。驚いて電話に出ると、まだ近くにいるようなら戻っておいでとのこと。

「みんなの家」に戻ると、先ほどはいなかった老夫婦がいらっしゃいました。

自分は疲れていて話す気力がないけれど、せっかく海外に行くのに伝えたいというのであれば、せっかく自分の目と耳で知りたいと来てくれたのならと、話せる方を探してくださったそうです。

嫌がられたのではないか、迷惑がられたのではないかと思っていたのに、わざわざ人を探して連絡をくださったなんて。わざわざこんな小娘のためにご夫婦そろってやって来てくださり、にこにこと待っていてくださるなんて。

一言も聞き逃すまいと思いながら、お話を伺いました。

震災当日のこと、変わってしまった生活のこと、仮設住宅について、震災が起こる前の生活について……何一つ包み隠さず、穏やかに話してくださいました。

運転しながら見てきた町の景色について話すと、盛り土が完了したら、その上にまた家を建てて仮設住宅の人に戻ってもらうという計画なのだと話してくださいました。そして、少し辛そうな表情とため息交じりの声で、こうおっしゃいました。

「だけど、少しずつ工事は遅れていて、いつになったら戻れるのやら。すでに見切りをつけて別の土地に移ってしまった人もいる。もう絶対にあそこには戻りたくないという人もいる。たとえ建物が変わっても生まれ育ったこの地を離れたくないという人もいる。

私たちも、できればここを離れたくはないけれど。でも、工事が終わった後の地が元の景色に戻るわけでもないし、もう元の生活はできないから、もしかしたら残る方が辛いかもしれない

きっと辛い。にこにことしながらお話くださっているけれど、きっと今だってまだまだこのお二人も辛いのだ。そう、感じました。

それなのに、なぜ様々な痛みを越えて話してくださるのだろう……素直に、そのまま聞いてみると、老夫婦も先ほど蕎麦屋でお会いした女性と同じように言ってくださいました。

「お子さんを亡くされたご家族なんかは、もう震災についてもそれ以前の生活についても一言も話したくないという方も、中にはいます。

でも、私たちは2人とも命だけは無事でしたし、こうしてお話するのも一つ役目かもしれない。起こってしまったことは起こってしまったことですし。できれば思い出したくないという思い以上に、忘れられたくないし知ってほしいという思いもあります。

とはいえ、こうして落ち着いて話せるようになるまでには、少し時間は必要でした。」

別れ際、老夫婦に「今日は泊まっていかれるんですか?」と聞かれました。本当は民宿に泊まりたかったけれど、来ると決めたのが直前すぎて民宿は取れず、釜石のビジネスホテルを取ったことを伝えると、2人は上機嫌にこう返しました。

「いい、いい。岩手県内に泊まってくれるんだったら、それで十分ですよ。岩手に泊まってくれたら、それがどこであっても岩手に落ちるからね。それが、私たちの生活や復興に役立ってくれるから。ちゃんと岩手に泊まってくれて、えらい!」

訪問するまではどこか同じ日本でも遠い土地の出来事だった震災・津波。「お世話になった人の問題」と感じて、以前より自分も関わりのあることだと考えられるようになりました。


震災から7年。訪れてから4年。今、あの言葉を思い出す。

陸前高田を訪問したあの時からあっという間に4年が経ってしまいました。震災からはすでに7年です。

この時期になると、震災や防災に関する記事を見かけることが増えます。その度に、あの日お蕎麦屋さんで話しかけてくれた女性を、「みんなの家」の疲れていたのに私のために人を探してくれた女性を、辛いことも穏やかに一つ一つ話してくださった老夫婦を思い出します。

今年は、3月11日が近づいても、例年ほど震災や復興に関する話題が上がらなかったような気がしました。だからこそ、より強く彼らの「忘れられる方が怖い」という言葉が蘇ってきました。

陸前高田の「みんなの家」は、かさ上げ区画に入っていたそうで、工事のため2016年に解体されたそうです。

慣れない運転で訪れた見知らぬ土地で「来ちゃいけなかったかもしれない」と一人押しつぶされそうだった私を救ってくださったあの方々は、今どうしているのだろう。

4年も経てば、いろいろ変わっているだろうと思います。でも、思っている以上に変わっていないこともあるかもしれません。今日は、あの日であった方々のことを、しっかり思い返します。




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