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きっと、未来の私がヨシヨシしてくれる

ああ、今の私はがんばりきれていない。

あのときの方が、がんばれていた。
あれをやっていたときの方が、がんばっていた。
初めてアレルギー対応ツアーのお客様窓口の方が丁寧だった。
ベトナムで日本語教師をしていたときの方が、真剣だった。

それに比べて、今の私はなんと走り切れていないんだ。なんと怠けているんだ。なんと手を抜いているんだ。

もっとがんばれるはずじゃないか。昔の自分の方がずっといいじゃないか。

これまで、そんなことを思うことが多かった。

基本、自己肯定感が低いのかもしれない。うまくいかないこと、ミス、なかなかやりきれないことや進まないこと、予定からの遅れがあると、たいてい自分が足りていないのだと思う。でも、本来の自分はできるはずで、今の自分がだめなのだとどこかで思い込む。

自分を無駄に追い詰め、無駄に責めたて、さらに落ち込んでよけいに動けなくなる。そういうパターン。

でも、そんなときのことでも後から振り返ったり、当時書いていたnoteやFacebookの投稿を読むと「ああ、苦しんでたけど、精一杯だったなあ。あのときはあのときの自分なりに、ちゃんとがんばっていたなあ」と思うことが多い。

むしろ「私はできない!」と落ち込み荒れながらも、なんとかとっかかりを掴もうとしているときの方が、がんばっていたなと後から思えたりもする。不思議だけれど、3ヶ月くらい経ってから振り返ると、どのときも方向性は違えどがんばっていたなと思える。

なんだ。

きっと「今の私は、全然できてない!前の方ががんばっていた」と思っている今だって、3ヶ月後の私からは「がんばっていたなあ」って思われているんだ。きっと。

それはきっと、がんばり度合が落ちているのではない。今の私の方ができないように感じるのは、前の私よりも超えるべきハードルが少しずつ上がっていたり、複雑性が一つあがったりしているからなのだと思う。

そして「今」は過去より見えにくいから、不安が大きいから、だから「できていない」に目が行きがちなだけで、後から見たら「意外とできている」もきっとたくさんある。

今、できていないと思っている私だって、きっと未来の私が「ヨシヨシ」してくれる。

そう思えるようになってから、無駄に過去の自分と比べて「今はできていない」と思うことをやめた。

仮に以前の自分の方ががんばっていたとしても、その比較と落ち込みですり減る精神的余裕と思考の余裕がもったいない。きっと、今は今で何かがんばれている。未来の私が認めてくれる。そう考えるようになった。

少しだけ、生きるのが楽になった。

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