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初心の記録 #4 ― 鳥居、ピケティ、志

セーラー服の歌人

高校3年生になり、最後の大会を控えた剣道部の部活と、国公立進学クラスで課せられる毎日の補習や課題に追われ、ひいひい言っていた4月。

購読している新聞の夕刊のラジオ欄の上の段で、「鳥居」という名前の歌人についての連載が始まっていた。

高校3年生になってから余裕がなくて、毎日は新聞に目を通していなかったのか、4月からそんな連載が始まっていることを私は知らなかった。

鳥居さんは、セーラー服を着た歌人だ。幼い頃に親を亡くし、複数の施設で虐待を受けた経験から、中学校は不登校となり、新聞や辞書を読んで言葉や漢字を覚えたという。その後歌人の穂村弘さんの短歌と出会い感銘を受け、独学で短歌を始めたそうだ。

「セーラー服の歌人」と言われるのは、鳥居さんがセーラー服を着ているからだ。教育を受けたくても受けられなかった人がいることを知ってほしい、という願いが込められているという。  

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▲切り抜いてホキチスで留めた連載の後半

連載は既に半分ほど進んでいたが、鳥居さんの半生や創作活動を、文中に短歌を挟みながらつづられた連載から、目を離せなくなった。鳥居さんの短歌は幼い頃の境遇とともに紹介されることが多いが、その短歌の多くからは、境遇についての説明がなくとも、生きづらさも孤独も愛情も含めた、”殺された意思の存在”が静かに伝わってくる。

病室は豆腐のような静けさで割れない窓がひとつだけある

鳥居さんの半生もさることながら、こんな凄みのある短歌を詠むことができる人がいるんだと衝撃を受けた。今でも鳥居さんの短歌の魅力についてうまく説明できているか分からないけれど、衝撃を受けたいうことだけは伝えたい。

▼鳥居さんのTwitterアカウント


連載を読み始めたのはおそらく4月の下旬からで、前半部分の4月上旬の連載を切り抜くのを後回しにしていたら、前半部分が載った夕刊はいつのまにかビニールひもでくくられて捨てられてしまった。

だから休日に地元の図書館に行ったついでに、新聞閲覧コーナーの4月分の夕刊を引っ張り出して、鳥居さんの連載の前半部分を探した。  

その連載を家に帰っても読みたかったけれど、閲覧用の新聞はもちろん持ち帰れないし、静かな図書館でiPhoneのカメラのシャッター音を響かせるわけにはいかなかった。せめて短歌だけでも手元に残しておきたいと思い、前半の連載に出てきた鳥居さんの短歌を、全てiPhoneのメモ機能に打ち込んだ。

本当はiPhoneのメモに記録した20ほどの短歌をこの投稿に掲載したいほどだが、引用の範疇を超えてしまうため断念する。

半月の間、鳥居さんの半生と短歌を読みながら、ずっと重なる人がいた。新聞を読んで漢字を覚えたおばあちゃんと、高校の合格を辞退してブラジルに帰った友達だった。

慰めに「勉強など」と人は言ふその勉強がしたかったのです

高校3年生になり、私の通う高校では毎月のように大学入試に向けた模試があった。模試代をいれる封筒を持ち帰り、親に金額を話してお金を受け取っては、それを学校に持って行っていた。

模試代の金額を告げれば、当たり前のようにお金をくれた。私の家は、特段お金持ちというわけではないし、人より贅沢な暮らしをしているわけでもない。でも、自分が努力できる環境は、自分以外の誰かのおかげで保証されていると感じた。

恵まれた身分なんだと、心底実感した。

そう実感しても、高校1年生のとき地元のファミレスで友達の呟きを聞いたときと同じで、高校3年生になっても、私は何をどうすればいいのか分からなかった。


ありがとう、ピケティ氏

高校3年生の受験期は、地元の図書館でよく勉強していた。

勉強の合間には「これは息抜き」ということにして本を読んだ。勉強をしに図書館に来たのに、いつのまにか本を探すのに没頭していることもあった。

高校3年生の、おそらく夏か秋だった。池上彰氏が書いた「いま、君たちに一番伝えたいこと」という本を読んだことがあった。

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▲まだ家の本棚にある

この本の中に、”トマ・ピケティ”という経済学者をトピックにした章があった。トマ・ピケティ氏はフランスの経済学者で、2014年に刊行した『21世紀の資本』という本がブームになっていた時期だった。

『21世紀の資本』は簡単にいうと、「資本主義経済のもとでは、放っておくと格差が拡大してしまう」と主張するものだった。

おそらく高校2年生のころだったと思うが、22時くらいから放送されている経済番組で、『21世紀の資本』の内容が取り上げられているのを見た記憶がある。

その番組で、「格差が拡大する」という主張は、シャンパンタワーを使って説明されていた。通常、シャンパンタワーに1番上からシャンパンを注ぐと、グラスからシャンパンがあふれ、順に下のグラスにもシャンパンが注がれる。『21世紀の資本』が主張していることは、現代の資本主義社会では、頂点にあるグラスの口が大きすぎて、シャンパンを注いでも注いでも、頂点にあるグラスが注がれたシャンパンをどんどん受け、下のグラスにもシャンパンが行き渡らない状態だと解説されていた。(このシャンパンタワーの例、めちゃくちゃ分かりやすかった。でもどの番組か忘れちゃった)

この本のなかで池上彰氏は、ピケティ氏のいう「資本」は「資産」に近いと説明し、”資産家ほど財産が増え、その財産を相続で子孫が受け継ぎ、富めるものはますます富むという分かりやすい理論だ”と解説している。

そんなピケティ氏が2015年に来日した際、東京大学で講義をしたそうだ。この章では、池上氏がこの講義を傍聴した際の様子が書かれていた。講義のあと、ピケティ氏は学生からの質問を受け付けた。

講義のなかでピケティ氏は、「所得格差は教育格差につながり、裕福な家の子は、君たちのように質の高い教育を受けることができて、それがまた格差を固定化する」と話したそうだ。これについて、質問をした東大生がいた。

東大生「質の高い教育を受けられる僕たちのような者は、何をすべきなのでしょうか。」

ピケティ「親は選べないからね。金持ちの家に生まれたことを卑下する必要はない」

ピケティ「君たちは高いレベルの教育を受けることができたのだから、それを社会に役立てることを考えてください」

この東大生の質問は、高1のとき地元のファミレスで友達の呟きを聞いてから、私がまさに葛藤していたことだった。

「受けた教育を社会に役立てる」。家の手伝いをするとか、友達に日本語を教えるとか、部活や文化祭の準備は率先して行うとか、ささいな「人の役立つ」は、考えたことも実践したこともあったかもしれない。でも17歳の頭には「自分が受けたことを社会に役立てる、還元する」という概念は、きっと無かっただろう。

そうか。自分が享受したことを、自分のためだけに使うのではなくて、もっと広く、誰かに還元することは、きっと自分にできることだ。今は受験生だから勉強しかできないけど、勉強して大学に入ってその先大人になったら、もっと社会に役立つ何かが、自分にもできるかもしれない。おばあちゃんや友達や、まだ世界に存在する悲しむ人を減らすために、自分にも何かできるかもしれない。

ピケティ氏の回答を読んで、17歳の私は、本気で本気でそう思った。

迷える17歳の私に進むべき道を教えてくれたのは、ピケティ氏だった。


志したこと

この本を読んだあと、単純な私は「受けた教育を社会に還元できる人になりたい!」と思った。それはいいんだけど、全然具体的じゃなかった。

全然具体的じゃないけど、やっぱり戦争を二度と起こしてはいけないと思ったし、そんな社会を作る責任は、大人に、若者に、あると思った。誰も悲しまない社会を作るためには、教育を受けた人が、健康に過ごせる人が、その役割を担っていると思った。役割を自覚するだけじゃなくてちゃんと還元するためには、行動する必要があると思った。

だから大学生になって、「平和で人々の可能性が最大限発揮された社会」を目指す世界規模の学生団体に出会ったとき、この団体は第二次世界大戦の悲劇を二度と起こさないために、すべて若者によって設立されたと聞いたとき、自分と同じことを考え、しかも行動している若者がいるんだ、と目からウロコが落ちた。自分はここに入るべきだと思った。


先週、大学に学生証を返した。授業にバイト、学生団体の活動にバンドサークルや就職活動などの4年間の大学生活を終えた。

全然具体的じゃなかった”志”を、結局大人になって自分はどうするのか、おもに学生団体の活動と就職活動のなかで、考えた。これまでと違う角度の本を読んだり映画を見たりした。新聞やテレビやネットニュースをチェックし、関心を持てるものは、10代のころよりも幅が出た。実体験と結びつくようなトピックも出てきた。ありきたりだけど、目の前の活動に打ち込んで、考えたことはちゃんと誰かに話したり、逆に話を聞いたりした。

もうこの投稿は長くなりすぎていて、大学の4年間にあったことについては割愛するけれど、その結果考えたことはこんなことだった。

1人1人が自分の頭で考えて意思決定して行動すれば、戦争も事件も不祥事も、誰かが悲しむ愚かな行為は生まれないはずだ。その意思決定は何かをよりよくすることができるはずだ。たとえその意思決定が間違うことがあったとしても、一筋の考えた跡があれば、きっと引き返しやり直すことができる。1人で考えて分からなかったとしても、誰かと一緒に考え議論すれば、よりよくなるためにどうすればいいのかきっと分かるだろう。

人々が何も考えず、何も行動しないことが最も恐ろしいことだ。

私は、自分だけではなくて社会がよりよくなるために、考え行動する大人でありたい。そして人々が考え意思決定することができるように、適切な情報提供と問題提起をしたい。

春から、というか明後日から、社会人になる。  

いつか初心を忘れて「はあ、なんでこんなことしてるんだろ」と思うときも来るだろう。

でもそのとき私のなかのリトル茨木のり子は「いや、お前の志がひよわやったねん」と関西弁でツッコミをいれるだろう。たぶん、関西弁。

青い自分の志は、決してひよわではないことをいつかの自分に伝えるために、この「初心の記録」を残した。


本投稿内の鳥居さんの短歌は、以下の連載記事から引用しました;岩岡千景(2015), 「鳥居 セーラー服の歌人」,『中日新聞』.

また、本投稿内の『21世紀の資本』に関する記述と、ピケティ氏と東大生のやりとりは、全て以下の部分から一部抜粋しました;池上彰(2015), 「真の”エリート”は、教育を社会に還元できる人である ― トマ・ピケティ氏に学ぶ」, 『いま、君たちに一番伝えたいこと』, pp106-110.









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