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【ネイバー・ネクストドア222】

◆◇『ニンジャスレイヤーAoM』の二次創作小説です◇◆


 ゴーン……ガギーン……ゴガーン……。建設現場の重機作業音が曇天に響く。モヒコはネオン傘を開き、路地に繋がる裏階段を下りた。今朝の重金属酸性雨はひときわ冷たい。モヒコは手を震わせ、傘の柄を握りしめた。

 水たまりの油膜がテック靴に踏まれて歪む。裾を濡らす水滴は粘ついている。マンションの裏階段を出てすぐ右へ、二つ目の角を曲がればソバ屋台。合成オデン屋台。『泡ローン』の看板。表通りは出勤前のサラリマンやスモトリ、朝食を掻きこむ重サイバネ労働者らでごった返している。小さな背が、たちまち極彩色の雑踏に紛れる。

 ……巨大な広告モニタの明滅する雑居ビルの一階に、こじんまりとした不動産屋があった。ウインドウ前に佇むパーカー姿がネオンの蛍光紫に染まる。通り過ぎようとしたモヒコは、僅かな引っ掛かりを覚えて足を止めた。右手に下げたコケシマートの買い物袋が揺れた。

 無秩序に貼られた『不動産情報』に顔を近づけしげしげと眺めている女。フード下からは、明るいオレンジ色の髪が覗いている。街頭BGMが無意識下に遠のき、モヒコは思わず口を開いた。「……コトブキ=サン?」

 女は振り返った。見開いた瞳の奥に、四枚羽根の刻印がなされている。怪訝な表情はほどなくして和らぎ、華やいだ。「まあ! モヒコ=サンですか?」「そう、アタシ! モヒコ! 久しぶりだねえ!」一年ほど前、顔見知りになったオイランドロイドだった。

「ずっと見かけなかったからどうしたのかと思ってた」「世界中を旅していたんです。先月帰ってきました」「旅」モヒコは驚いた。コトブキは両手を合わせて頷く。「そうです! またセントーやコケシマートでお会いできますね」「ウーン……。仕事変わったから、生活時間も前と違ってきたんだ。どうかな。コトブキ=サンはまだピザ屋にいるの?」「はい。でも……住人も増えましたし、戦いもひとまず落ち着いたので自立を……アパートを探そうと思って」

 自我のあるオイランドロイド、ウキヨ、名はコトブキ。

 相変わらず奇妙なアトモスフィアを醸し出している。だが、一見しては人間と区別がつかない佇まいだ。薄っすらと化粧した相貌は美しく、オモチシリコンの手はすべすべで白い。モヒコのギザギザの爪、ひび割れた手とは似ても似つかない。モヒコはPVC買い物袋を掴んだまま、冷えた指を擦りあわせた。目を逸らし、『不動産情報』を眺める。「……あ」「どうしました?」

「アタシのマンション、そこに載ってる。コレ」「まあ!」コトブキが鼻先を近づける。「……この家賃は破格ではないですか? どうして……?」「事情があンの」好奇心に満ちた瞳に弱々しく笑い返して、モヒコは肩をすくめた。「じゃ、今から時間ある? 教えてあげるから……旅の話も聞かせてよ」

【ネイバー・ネクストドア222】


 タキはピザタキのカウンターに頬杖をついて、冷えたコーヒーを啜った。客は皆、帰った。じきに日が暮れる。UNIXの画面はスリープ状態、ニンジャスレイヤーの報告待ちだ。

 毛怠げに新聞をめくる。薄暗い。「ア?」タキは顔を上げ、影の主を睨んだ。「オイ、そこに立つな。暗くて見えねえ……ンン?」コトブキはアオザイに着替えていた。背筋を伸ばしてタキを見下ろしている。カウンター越しにスーツケースの頭が見えた。

「アパートを見つけたので、出ていこうと思います。自立のときです。これまで大変お世話になりました」コトブキは深く頭を下げた。そしてプリントされた不動産のチラシを差し出した。「住所はこちらです」

「いや。話が見えねえんだが」タキはコトブキと極彩チラシを交互に見た。『生活を一新』『交通簡易です』『実際安い』……印象的な極太ミンチョ体が踊っている。チラシ内の中央やや右下の物件にマーカーでマル印がつけてあった。

「引越しといっても、遠くないです。ピザタキでこれまで通り働けますよ! 徒歩通勤可能な」「いやそりゃどうでもいいが……。何だこりゃ、安すぎねえか? 騙されてねェだろうな?」「安さには理由があります! 私も何も考えず飛びついているわけじゃありませんよ」

 コトブキは得意げに胸を反らした。タキは曖昧に頷く。「『ヒバノ・ディストリクト』……あまり聞かねぇ名前だな、いや、しかしどこかで……」ピボッ。「ちっと待て」「ニンジャスレイヤー=サンですか?」「おう」UNIXが光り、通信をコールしている。「あっ。そうでした、アパートに持っていきたいものが……」視界の端で、コトブキがテレビ台の方へ歩いていく。やがてVHSテープ数本と細かな雑貨を抱えて戻ってきた。スーツケースを開け、出したり入れたり、悩んでいる。

 ……タキはひととおり通信を終えると、椅子を半回転させて、不動産のチラシを手に取った。荷造りに納得したらしいコトブキは戻ってきて、間取り図の脇にある詳細情報を指さした。

「以前はショッピングモールと高層ホテルの複合ビルでしたが、オーナーが行方不明になって何年も放置されていたそうです」タキの眼前で、オレンジ色の髪が揺れる。

「付近一帯の再開発でようやく手が入って……ですから、騒音があります。築年数やセキュリティもあまり……でも、リフォームされています、管理人さんもいます」コトブキは言い募る。「騒音も、可聴音域を調整すれば平気です。お得な物件で!」タキは頬杖のままコトブキを見た。「自立。自立ね」

「だめですか」「……保証人はどうすンだ。オレがサインすりゃいいのか?」コトブキが顔を明るくした。

「いえ。お隣の方が知り合いなので、引き受けてくださるそうです。モヒコ=サンという方で……以前からよくセントーやコケシマートでお会いしていた方です。いい人です」「……」タキは冷めたコーヒーを手に取り、口をつけた。

 カランカラン。ベルが鳴った。扉が開き、赤黒の男が店内に入ってくる。「終わったかよ」「ああ」ニンジャスレイヤーはスーツケースに目を留めて、コトブキを見た。「どこかに行くのか」「引越しです!」「自立のときなんだそうだ」タキが明後日の方を見ながら言った。

「ニンジャスレイヤー=サンもいかがですか? まだ空きがあるそうですよ」コトブキはカウンター上のチラシを取りあげ、顔の前に持ってきた。ニンジャスレイヤーは一瞥し、首を振った。「いや、やめておく。手伝いが必要なら声をかけろ」コトブキは残念そうにチラシを戻し、スーツケースの持ち手に手をかけた。「いつでも遊びに来てくださいね」「ああ」

 コトブキは笑顔で手を振ると、スーツケースを引いて出ていった。マスラダとタキは見送った。窓ガラスの向こうを鮮やかな青が横切り、すぐに見えなくなった。

 先ほどコトブキがスーツケースを開いていた床の近く、椅子の下に何かが落ちている。「アイツ、忘れてやがら」タキは毒づき、メタリックなフォトフレームをカウンターに置いた。


 ヒバノ・マンション。元ショッピングモールであった3階までは吹き抜けになっており、通電していないエスカレーターを階段代わりに使用する。元ホテルの上階には管理人と関係者が住んでいるらしい。コトブキはきょろきょろと見まわしながら、管理人に貰った地図を頼りに、222号室まで辿りついた。

 『ヒバノ・マンション、222号室』。今夜からはコトブキの城だ。入ってすぐ右手にバスルーム、左手に給湯設備程度の小さなキッチン。最低限の家具は備え付けられている。天井はくすんだ白、床はベージュのタイル。窓がひとつある。カーテンは床に合わせて淡いオレンジ色のチェックだ。小窓から見下ろす横丁は幅こそ狭いが、入り組んでいて見飽きない。

 壁は打ちっぱなしのコンクリートだが、一面だけ、石膏ボードを雑に継いだだけの薄い壁がある。美容室のテナントだった空き店舗を二部屋に区切り、居住用にリフォームした名残らしい。壁向こうはモヒコの部屋だ。この時間は仕事に出ているのか、生活音は聞こえてこない。

 アイサツには改めて出向くことにして、コトブキはまず荷解きを始めた。備えつけのパイプベッドにシーツを広げ、スーツケースから生活用品を取り出していく。

 再開発の音は、外が暗くなってもやまない。ゴーン…ガーン……ゴギーン……。ときおり足下が揺れる。騒音は確かに気になるといえばなるが、集音を調節すれば大丈夫だ。「ウーン……」コトブキはVHSテープを取り出して、財布の残金と、ジャンク屋で見かけたビデオ付きテレビの値段を吟味する。

◆◆◆


 夜も更けた。閉店後のピザタキに、忙しないタイピング音が聞こえ続けている。マスラダはソファで腕を組んでいた。寝ている。ザックは床にモップを掛けながら何度目かにタキを見た。「なぁ。コトブキ姉ちゃん、ホントに帰ってこないのかよ」「アー」生返事のタイピング。「やっぱ俺のせいかなァ」「アー、……アーッ!?」

 唐突にタキが叫んで立ち上がり、尻で椅子を蹴倒した。「アイエッ」ザックが思わず手放したモップが近くの机に跳ね返り、回転し、派手な音を立てて倒れる。タキは構わず椅子を引き上げて再び座り、タイピングを加速した。キャバアーン! モニタの青白い照り返しに金髪が断続的に透けた。目が血走り、0と1が網膜に映り流れていく。

「クソッ、やっぱりだ。妙に引っかかると思ったぜ。番地名を変更してやがるが、元々あの地区はキナ臭ぇ場所だ、言わんこっちゃねえな。通りの名を一度や二度変えたところで治安が改善するとも思えねぇ」「詳しく話せ」マスラダが立ち上がった。ザックは既にカウンターの椅子に膝をつき、小型モニタを覗きこんでいる。

「確かに近所で工事は続いちゃいるが、ありゃ再開発なんてご立派なもんじゃねえんだ。取り壊しと建築工事がたまたま近くで続いてるだけだしよォ……カンペキ騙されてるだろ」キャバアーン!「そんでもってここ数週間、ヒバノ地区近辺でしょっちゅうヤベエ行方不明事件が続いてる。……入居者は増えてるが入りっぱなしだ。出てこねえ! つまり……つまりだ、オレの予想が当たってりゃ……畜生あのバカ!」「それって……」ザックの血の気が引き、マスラダを振り返ろうとした。ドアベルが鳴り、既にマスラダの姿は店内になかった。


◆◆◆


 ――その、一時間ほど前。

 折り畳みのチャブ台にスシ・パックがおかれている。コトブキはサーモン・スシにソイを垂らした。「イタダキマス」と掌を合わせてから、黙々とスシを咀嚼する。集音レベルを調節したため工事音は遠く、隣室の生活音も聞こえなかった。夕食を終え、チャを啜り、ユノミを洗い、拭き上げた。スシパックのゴミをまとめる。「静かです」コトブキは呟いた。

 いつもよりも早めに就寝することに決めて、スーツケースを開く。化粧を落とし、ナイトキャップとボアのボーダーパジャマに着替えて、明日の出勤に備えてアラームを設定した。カーテンを寄せ、小窓を細く開くと、通りの明かりは既に消えている。ビルの隙間を通して、ネオンサーチライトの光がわずかに届いた。カーテンが微かに揺れて、空気の流れができた。

「静かです」コトブキはもう一度呟いた。そしてベッドに潜り込み、ライトを消した。

 ……ゴーン……ガゴーン…………。………。工事音がようやく静かになった。重機作業音に代わって部屋を満たすのは、雨音と、雷鳴。ガタン。隣室との境界である石膏ボードが一枚、外れた。薄橙のカーテンが揺れる。ネオンライトの末端が隙間から一条の光を床に落とす。薄らとした明かりのなか、侵入者が……黒い影が立ち上がった。左手に揺れるのは、先端が匙めいた楕円形の細長い棒。そして右手には……おお……見よ! 幅広の包丁が握られている! 分厚い長方形の刃が、朧なネオンあかりにギラリと鈍い光を反射した。コワイ!

 黒い影は迷わずパイプベッドの方へ近付いてくる。薄明りの中でも、盛り上がった掛け布団が見える。ナイトキャップの先端が枕からこぼれ落ちている。

 影が右腕をゆっくりと掲げ……その瞬間……稲光が、一瞬、部屋をほの明るく照らした。包丁……それはまるで芸術品の如き黒光りするヨーカンを切るための……長方形の……包丁! 影は、雄叫びとともにシーツを両断した!


「ハイヤーッ!」稲光にシーツが白く翻り、パジャマを脱ぎ捨てたウキヨが鋭いケリを放った! 侵入を感知していたのか!? 動きを妨げぬTシャツとホットパンツに着替えている! 血を吸うはずだったヨーカン包丁には跳ね上げられたシーツが巻き付き、「ハイ、ハイヤーッ!」鋭い回し蹴りが、危うく仰け反った侵入者の額ワン・インチ距離をかすめる。

「ファッキング侵入者ですね! 寝ている女性を襲うのは感心しませんよ!」コトブキはカンフーを構え、追撃の茶杓ピン差し攻撃にナイトキャップを投げて牽制し、闇の中の猫科動物めいて跳び退った。マットレスから跳躍しながら枕を投げ、ベッドのパイプを蹴ってタイル床に飛び降り、姿の見えぬ侵入者を迎え撃つ。稲光。ネオンの色。風。薄明かり。

 コトブキにとって、僅かにでも光源が確保できれば常に視界はクリアだ。侵入者の身長はコトブキとさほど変わらない。シーツに巻き付かれたヨーカン包丁は床に捨てられている。男は左手の……匙と逆側の先端を針めいて尖らせた茶杓を逆手に構えた。薄笑いを浮かべた着流しの男……!

「ハイ! ハイハイッ! ハイヤー!」足払い。肘打ち。体勢を崩したところに渾身の掌打!「グワーッ!」手ごたえあり! 無力なはずの女から繰り出された異常なまでに重い打撃。想定外であったか。侵入者はお粗末な防御の上から渾身の掌打を受けて、コンクリート壁にバウンドし叩きつけられた。「アバッ……! アバ……!」コトブキはザンシンし、更なる侵入者を警戒した。

 扉は鍵をかけたはずだが……ベッド足元の壁に明るい一角がある。剥がされた石膏ボードの奥から、光が漏れている。つまり、侵入は隣から……?「モヒコ=サンが!」コトブキは叫んだ。暗い部屋から侵入口を潜り、221号室に駆けこんだ。「ご無事ですか、モヒコ=サン!」

 眩い光に、コトブキは足を止めた。打ちっぱなしのコンクリート。床はタイル。掃除跡。赤茶けたモップ。右隅の棚一面に、チャ道具と、大小さまざまの茶器が陳列してある。左隅にはコケシマートのPVC袋にゴミがまとめてあり、中には細かい剃刀刃のような……それにしては小さすぎる何らかの同じ材質のものがぎっしりと詰められている。コトブキの視界がズームし、ゴミ袋の中身にピントを合わせた。「そんな」

 剥がされ、割れた女の爪だった。

 そして、221号室の中央。作業机の奥に、水とたらいと雑巾を備えて、虚ろな目で座っている女性が……モヒコがいた。剥がされた爪の裏を……茶匙のようなものでこそげている。「モヒコ=サン、お怪我は……」「……ああ。コトブキ=サン。殺してくれた?」

「……!」弱々しい笑みを浮かべるモヒコに、コトブキは顔をこわばらせた。「まさか、あなた」「『ニンジャだって殺せる』んだもんね。サイコ野郎くらいウキヨなら余裕だよね。アリガト」ザリザリ。ザリ……。削った爪の裏から、汚れが落ちる。受け止めたすり鉢で粉にし、茶筒にうつす。ひび割れた指が丁寧に、尖った茶匙で溝を削る。「……もうこの仕事、やめたくてさ。あのサイコお茶野郎、アタシと結婚したいんだって。爪のない新しい生活。ウケルよね」笑い声。すり鉢からすくった粉を、『垢茶』とショドーされた茶筒が受け止める。ザリザリ。ザリ……

 コトブキは力なく拳を解いた。白い光がタイルに翳を作る。タイルの溝に、赤茶けた染み。隣室から物音。サイコ野郎が、221号室に向かって来る。否、――221号室に、戻って、来る。「あ。管理人は呼ばれてないよね? 『入居者』が暴れて言うこときかないと、呼んでいい契約みたいだから……そうするとさ、アタシも困るんだ。円満に退職したいよね」

 プガー! プガー! プガー!! タイル床に、赤LED回転灯が影を回した。「嘘。呼ばれちゃった。参ったなァ」モヒコが手を止めずに呟く。コトブキを見る。コトブキの瞳の奥を見る。「あ、でも、ダイジョブか。管理人……ニンジャだけど。コトブキ=サン、百戦錬磨。ガンバロ」ザリザリ。ゴリゴリ。シュンシュンシュン。コンロで湯が沸いている。「……アタシ、『オチャ』入れなきゃ」

 プガー! プガー! プガー!! 222号室への侵入口から、足を引きずりながら、着流しのチャ男が現れた。「ゼー……ゼー……モヒコォ……コイツ、オイランドロイドだろが……煎じられる垢がねえよォ……!」涙を流している。「おチャ、おチャだ……オレには垢茶がないとだめなんだよォ……」「仕方ないひと」モヒコは呟き、急須に湯を注いだ。湯気が立つ。ユノミを机の端に置き、ふたたび椅子に戻って仕事を続ける。

 プガー! プガー! プガー!! コトブキは油断なくカンフーを構えた。明かりの下で向き合えばわかる。力なき女性市民をただ甚振るだけのクソ野郎だ。踏んだ戦闘の場数が段違いだ。今のコトブキであればこの男ひとり、どうとでもなる。

 だが、もし本当に、マンション管理人が……ニンジャなら……? コトブキは奥歯を噛みしめ、俯いた顔を上げた。「ハイヤーッ!」高くシャウトし、振り絞るように踏み出す! プガー! プガー! プガー!! カンフー・カラテとヨーカン包丁が、赤い回転灯に照らされ、火花を散らした。

 ……回転灯は粉々に砕け、赤いガラスがタイル床に散っていた。その上に着流しの男が倒れている。両肘は逆に曲がり、指は五本とも折れ、口から泡を吹いている。コトブキに蹴り飛ばされたヨーカン包丁が、机中央、モヒコの作業場のすぐ手前に深々と突き刺さっている。

「……そいつ、殺した?」「いいえ」「できるよね」「できません」コトブキは首を振った。扉を見る。(イヤーッ!)……遠く、声が聴こえた。しばらく耳を澄ます。物音が消えた。ニンジャは……現れない。

 コトブキは222号室へ戻り、スーツケースから着替えを取り出した。薄橙のカーテンがそよいでいる。ネオン光。小さなキッチン。バスルーム。222号室。コトブキの城だった。彼女は千切れたシーツを雑巾代わりにして、部屋を片付け始めた。


◆◆◆


 プガー! プガー!「おいおい」ケアテイカーは、222号室からのコールに重い腰を上げた。「おいおいおいおい……夜中だぞ。勘弁してくれよ」ベッドから降り、髪を撫でつけアンダーリムの黒メガネを装着する。襟つきの作業着を羽織り、サイバネ腕に格納したマスターキーを念のためにチェックする。揃っていた。上層階の自室から、内部エレベーターを使用して一階の管理人室へと降りる。

 ケアテイカーはニンジャだが、あくまで管理人。『入居者』の不都合を解消することで、WinーWinの関係を保っているのだ。

 プガー! プガー! 222号室のコールは止まない。それどころか、管理人室の通用口を開くと、ピボー。ピボピボー。エントランスのインターフォンも鳴らされていた。ピボー。ピボー。ピボー。非常識すぎる。ケアテイカーは苛々と眼鏡を拭いた。どいつもこいつも。管理人を何だと思っているのだ。

 まずさっさと非常識な訪問者を追い返す。エントランスホール脇の管理人室に入る。小窓からは暗いホールが見えるばかりだ。仕方なくインターフォンのスイッチをオンにし、受話器を取った。「ハイ。今は業務時間外なので、お急ぎの要件で……」「急ぎだ」低い声が、受話器越しに聞こえた。

 不明瞭な画像モニタの奥には、赤黒い装束のニンジャが……ニンジャ?「ドーモ、ケアテイカー=サン。……ニンジャスレイヤーです」画面の向こうでニンジャスレイヤーはジゴクめいてアイサツした。「!? ド、ドーモ。ケアテイカーで……」アイサツを終えた瞬間、燃えるニンジャの鉤手がアップになり、カメラに近づき、画像が乱れた。ブツッ、ツー、ツー、ツー。

 KRAAAAAASH! 「グワーッ!?」振り返る間もなくケアテイカーは首を真後ろに引っ張られた。管理人室の小窓から引きずり出され、浮いている。腹に拳。頭上に吹き抜けのホール。何が。何が起こった? 

 ニューロンが泥めいて鈍化した。マンションのエントランスが破壊されている。ガラスが飛び散っている、そして、赤黒の影が……、黒く燃える腕をケアテイカーの方へ向けている……腕に巻き付いている黒炎の縄が、赤熱に歪み、彼を捉えている。時間が解放された。「イイ……」巻き付いたフックロープがケアテイカーの首を締め上げながら、引き寄せる! 「イイイイヤアーッ!」 黒き火炎が宙に浮いたケアテイカーめがけてネズミ花火の如く走り来た! そして、引き寄せられた先に……その先には……心臓を貫かんと待ち構えたチョップ手が……


◆◆◆


「サヨナラ!」ケアテイカーは爆発四散した。爆発四散痕が灰色に漂い、やがて散った。ニンジャスレイヤーは、エントランスの壁に背を預けた。腕を組んで、待った。

 動かぬエスカレーターを人影が降りてくる。スーツケースを引き摺っていたコトブキは、マスラダに気づき立ち止まった。「ニンジャスレイヤー=サン」「帰るぞ」コトブキは俯いた。「そうですか、タキ=サンが……」「ああ」「私、浅はかでしたね」「そうでもない」二人分の足音が、ガラスを踏みしだく。間もなく、ヒバノ・マンションのエントランスホールは無人になった。


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 ソファからはザックの寝息が聞こえている。タキはカウンターに足を乗せ、エッチ・ピンナップを上下に返してためつすがめつしていた。

 カララン。ピザタキの扉が開き、マスラダとコトブキが現れた。コトブキの服は汚れ、スーツケースを引いている。「おう。遅ぇぞ」カウンターに足を乗せたまま、ピンナップ越しにタキが視線を上げた。カウンター上に置いてあったメタリックのフォトフレームを掲げ、コトブキに渡す。「忘れもんだ」

 マスラダはソファを一瞥し、無言で奥の椅子に座った。コトブキは、手渡されたフォトフレームの写真を見つめた。自撮り慣れした笑顔のコトブキ、ポーズと表情に迷うザック。背景にはタキとマスラダが映りこんでいる。(自立のときです)己の声がフラッシュバックする。「……」コトブキは俯いた顔を上げる。タキがいて、マスラダがいる。ザックの寝息が聞こえてくる。

「……まだ、私には早かったみたいですね。こんなに大切なものを忘れるなんて、どうかしてました」コトブキはフォトフレームを胸に抱き、笑った。



【ネイバー・ネクストドア222】終わり

楽しいことに使ったり楽しいお話を読んだり書いたり、作業のおともの飲食代にしたり、おすすめ作品を鑑賞するのに使わせていただきます。