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ひとり体を丸めて眠りながら世界が回復するのを待っている

とんでもない過密日程で激務に追われ、気づけば3ヶ月以上もnote更新してなかった。ひさびさに書こうと思ったらエディタがリニューアルされてる。世の中は動いてたんだな。

こないだ唐突に上島竜兵さんが死んじゃって、ああしんどいねってあらためて思った。だいぶ以前から何かの記事で時世的にネタがやりづらくなってると悩んでらしたのを読んで、まあそうだろうなと同情に近い感情を抱いていたこともあり、自ら死を選んだ理由はわからないけれども、きっといろんな負荷が心にかかっていたんだろうと想像した。

それに関連してネット上で有吉弘行さんをボロカスに叩く人たちがたくさん現れたことに驚いた。主にツイッターのタイムラインで流れてきたのは過去のラジオ番組でのやりとりの断片だったけれども、その前後の文脈、もっといえば彼らのそれまでの素の人間性や関係性を把握せずして、毒舌芸の後輩とイジられ芸の先輩のやりとりに込められた真意など、どうにも推しはかりようがない。その推しはかりようのない部分をどうして最悪にセンスのない妄想でネガティブな方向へと補完したがるのかなと胸が痛んだ。なんなら毒舌芸人を叩いてる人たちのほうが余程ひどいことを言っている。有吉さんの毒舌は芸だが、心ないネットの声は芸などでなくただの暴言だ。

あまりに長いコロナ禍でストレスフルな日々が常態化し、その影響を受けたメンタルの、悪いかたちでの発露が悪循環を引き起こしているように思う。それにしてもこんなにも世界の捉え方が雑になっているのは、感染拡大防止のためにコミュニケーションの場が減少したからなのか何なのか。

評価軸を「共感」にしか定められない危うさ

島本理生さんによる原作は未読のまま、映画『ナラタージュ』をアマプラで見て、好みの分かれる作品だろうとは思ったけれど自分はすごく好きだったので他の人はどうだろうと映画評サイトを開いてみた。俳優さんたちの演技への評価は概ね高かったけれど、予想どおり酷評も多く、「暗い」「気持ち悪い」のオンパレード。鑑賞者それぞれの印象は否定するものではない。ただ、気になったのはそれらに混じって「全然共感できなかった」というだけの評がとても多かったことだった。

もとよりそれは「他者の物語」だ。だからこそ「共感できる/できない」という評価軸も生まれてくるわけだけれども、制作者たちが描き出しているのは登場人物という「他者たち」が織りなす物語の世界なのであって、たとえば『ナラタージュ』で言えば「過去の家庭事情を引きずりながら精神的に半死状態で生きている冴えない高校教師」だとか「高校時代にクラスで孤立し苛められる中で救いの手を差し伸べてくれた教師を思い続ける女子大生」だとか「彼女の気持ちに気づいていながら自分の思いが先走ってハラスメントに走る若い男子」だとかのそれぞれの人生が交錯する世界の物語の(乱暴にこう書いてしまうと身も蓋もない感じになるが)、空気感や人の心の狡さや弱さ、偶然の招く残酷な事態、そんないろんなものが、美しい演者たちによるセンシティブな映像や名作映画を絡めたエピソードによって、大事に浮き彫りにされてゆく。登場人物それぞれがダメダメな人たちで、それぞれに痛い経験をするのだけれども、その存在を語り手自身がジャッジすることはしていない。ただ、そのダメダメによって引き起こされた事実が美しく淡々と叙述されてゆくだけだ。

「共感できない」で切り捨ててしまう行為には、「他者という自分以外のもの」が存在していることへの、理解の欠落を疑わざるを得ない。ひとつのシチュエーションにおいて登場人物が動くとき、「あー、確かにこの人ならこうするよね」という想像力が稼働することなく「えーなんでそんなことするの意味わからん」で思考停止してしまう感じなんだろうか。

たとえば主人公の教師が『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を好きではないと教え子に話していた伏線について「あのキャラなら絶対その映画好きだと思うけど」というコメントがあったのだけど、それはそうだろうなと思う。おそらく彼はその映画、好きだったんだよ。かつて妻と一緒に見た思い入れの深い作品だからこそ、そんな過去を知る由もなくピュアに踏み込んでくる女子高生とその映画について語りあうことが出来ずに、「好きじゃない」と逃げたんじゃないかな。もちろんこれだって想像による補完だけど、「絶対その映画好きだと思うけど」のツッコミの、そのさきにまで思いを馳せることはないのかと、強く思った。

(『ナラタージュ』の予告動画は以下のリンクから。外部サイトでの再生が許可されていないのでYouTubeチャンネルで見てみてください。)

そういう現状を日々感じている中で、YouTubeでエンタメ評などを配信している大島育宙さんは、そんな人たちに「登場人物の心情」や「場の微妙な空気感」といった繊細な部分を平たくわかりやすく解説し鑑賞を手引きする、いい仕事をしているなと思っている。ドラマ『真犯人フラグ』について文学を軸にして考察していたことで注目したのだけど、さすがの博識。聞きやすいマシンガントークは予備校教師みたいで面白いので、興味のある方は是非。

…って書きながら気づいた。『真犯人フラグ』、上島竜兵さんが結構なキーマンのふりして怪演してたな。本当に怖かった。演じてた頃、どんなこと考えてたんだろう…。

『聞き耳頭巾」の世界は本当にしあわせなのか

その昔、まだ都内の広告代理店に勤めていた頃、文学講座に通ってみたときのことだ。最後の課題が一人一作品で、それぞれに小説を書いて、講師と生徒による批評会が行われた。その中に、広島地方の昔話『聞き耳頭巾』を下敷きにした童話を書いてきた人がいた。

被れば人の心の声が聞こえるようになるという頭巾。彼女の童話の中でそれを手に入れたのは殿様で、それまでは届かなかった民の声がわかるようになり、政策変更して支持率爆上がり、国も栄えてめでたしめでたし、というストーリーだった。いやこれも乱暴な紹介で申し訳ないのだけど。

それを読んだ最初の感想が「この殿様、強心臓すぎ!」だった。国民の真の声がすべて聞こえたら、あたしが殿様だったら確実にメンタル病む。果たして人の考えていることがすべて透けて見えてしまうというのは、しあわせにつながるのか。

ツイッターなどのSNSが普及して、一般の人たちも気軽かつ手軽に発信できる時代。目的を持った情報共有など利点も多いし、目的などなくても思わずクスッとするツイートがタイムラインに流れてきて、世の中には才能のある人がたくさんいるなーとテンションが上がることもある。

一方で、その他の大部分はあまりに無防備なツイートだったりもする。特に誹謗中傷とかネガティブな内容とかでなくとも、「ねえそれツイートする必要ある?」と思ってしまうものが、怒涛のようにタイムラインに絶えず流れてくる。仕事の愚痴などを分かち合ってストレスが晴れればそれはそれで結構。だけどツイッターがなかったらそれはきっと胸に秘めていたか内輪でしか話してなかったよねといった言葉が、全世界に向けてほとんどなんのフィルターも経由せずにダダ漏れているのだ。内輪で話すなら多少乱暴でも誤解を招くことも少ないけれども、全世界向けとなるとそうもいかない。思わぬ方向から炎上するケースも散見される。

自分は存在するだけで他人を傷つける可能性のある生きものなのだということに対して無自覚な人が多いのかもしれない。SNS普及以後はもうそれがスタンダードになっている気もする。ときに「文字は読めるけど文章が読めない人が多くなった」と言われる、そこに見られるガサツで殺伐としたコミュニケーションにしばしば目を覆いたくなりながら、これがいまの現実で、そういう世の中に言葉で伝えるためにはどうすればいいのかと、仕事での発信の仕方を試行錯誤したりもする。それだってネガティブなものに触れ続けるわけだから、少しずつ心に疲労が蓄積していく作業だ。

たとえば雨上がりの夕方の空がすごくきれいだったときとか

心の蓄積疲労は決して軽く見ないほうがよくて、通奏低音のように抑鬱がつねに継続した状態になる。コロナ禍の波が何度もひいては寄せてを繰り返しつつ、戦争が起き、その影響で物価が高騰し、もしかしたら食糧危機も巻き起こるかもしれないとニュースが流れ、そんな世の中の、この空気感。

コロナ禍以後、多くの有名人が自ら死を選んだ。そんなペースで、自死してもニュースになることのない人たちが亡くなっているかもしれないことを思う。暴言吐いたりしてストレス解消している人たちはむしろ大丈夫か。きちんとストレスを自己処理しようとする人のほうが危ないのかもしれない。

そういう瞬間は唐突にやってくる。苦しい、限界だ、とのたうっているあいだは自覚があるぶん防げる。のたうち疲れて、たとえばふっと雨上がりの夕方の空がものすごく澄んでいたときとかに、ふわっと人は、そちら側へと踏み出してしまうことがあるのだ。

有名人の自死を報じるニュース記事の下には必ずリンクが貼ってある。まるでアリバイのように。

無理矢理に明るく正しいものよりも

いまはみんな体力が落ちているのだ。ストレスをぶつけあって削られあって消耗してダメになってしまうことを避けるように、本能的に感性を鈍らせ世界把握を雑にすることで、自らを守っているのかなとも思う。

ああなんだかどうしようもなく鬱々とした文章になっちゃったな。だけどこういうときって無理矢理に明るく正しいものよりも、ちょっと汚れて疲れた感じのほうが心に寄り添ってくれるようなところもあるから。仕事ではひたすら光を目指す文章ばかり書いているから、ときどきはこうやって自分をすこし許してみる。

でもやっぱりストレスや感情を生のまま他者にぶつけるのは苦手だ。だけどべつにみんなで少しずつ我慢をシェアして助けあっていこうなんてきれいごとも言わない。低空飛行でいい。ひとりで丸まって眠りながら、ときどきいろんな美しいものに触れて、世界が回復するのを、ただひたすらに待っている。


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