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モノからの感動は、一瞬。経験からの感動は、一生。

何気なく呟いたことが「えっ!?」ってなることがよくあります。今回は少しこれを取り上げたいと思います。


わたしのツイートの傾向として、「捻り出したコメントは、大したことなくて、割とポロッと呟いたことに共感が得られる」があります。


どうしてそうなってしまうのか?今でも不思議なんですが、ひとつ言えることは「素が出る」と共感が得られるんじゃないか?ということです。


まあ、わたしのことはどうでもいいのですが。


話を戻しますが、最近のツイートで、比較的共感を得たのがこちら。今回の文章のタイトルにもなっています。


これ、割とそうだったりしますよね。


モノ買う時、期待してたモノ、欲しくて欲しくてたまらなかったモノ、それを手にするまでって、ドキドキするし、ワクワクもします。


そして手にする瞬間、その直後は、「感動」することもあります。まあ、買ってみて、手にしてみて「感動」しないこともありますが。


ただモノを介して得た「感動」というのはいつまでも続きません。


そういう経験、ありませんか?わたしは多々あります。


買う時まで、買った直後はそれなりに感動が残っているのですが、年数が経つとそれで得た感動が薄れてしまいます。いや、年単位で感動が残っていたらいいほう。


モノによっては、数日で印象から消える、あるいは存在自体、忘れてしまうこともありますよね。


これはどうしてなんでしょうね?


わたしは心理学の専門家でもないので「どうして?」には答えられないけれど、経験的には、モノで得た感動は長くは続かないということを知っています。


一方、経験で得た「感動」はどうでしょうか。


強烈にインパクトを与えられた感動は「いつまでも残っている」気がしませんか。それこそ「一生」モノのように。


子供の頃に体験した楽しいこと、いつまでも覚えていたりしますよね。あれはある意味その頃に、感動したことが、心に留まり続けている。


それだけでなく、美味しいモノを食べた、異国文化に触れた、ライブで音楽聴いた、親しい人との触れ合い、いろいろあるけれど、特に感動したことは、なかなか忘れないし、おそらく一生覚えていることだろう。


一つ考えたことがある。


モノで得ようとする感動は、経験では得ることが難しい感動を得ようとする代償行為かもしれない。だけど、代償にはなり得ないということかもしれない。


例えばお土産で外国のモノをもらったとしよう。その時はすごく感動しても、わたしが実際にその国に行ったわけではないから、外国で得るはずだった(行ってもいないけれど)感動とは別物です。当たり前ですけど。


モノで感動を得ようとするのは、そういうことで、だからこそ印象に残らないのかもしれない。


とすると、答えは見えてくる。


心豊かに暮らすなら、モノで得る感動よりも、体験で得る感動をどれだけ積み重ねられるか?にかかっている。


モノから脱却できたのなら、次は体験へという流れは、必然ということでしょう。


それでは、また。

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