ロラン・バルト『記号学の冒険』より

ロラン・バルト『記号学の冒険』花輪 光訳, みすず書房, 1988

1. 記号学の冒険 ( pp. 5-15 )

 では、「記号学」は、私にとって何なのでしょうか? それは一つの冒険 ( aventure ) です。つまり、私に不意に起こること ( 私のもとに「記号表現 ( signifiant ) 」からやってくるもの ) です。
 この冒険は、私の場合、三期にわたって行われました。この冒険は、個人的なものですが、しかし主観的なものではありません。というのも、そこで演じられているのは、まさしく主体の転位であって、主体の表現ではないからです。

1. 第一期は、驚嘆の時代です。言語活動 ( langage ) 、あるいはさらに正確には、言説 ( discours ) が、私の最初の著作、つまり『零度のエクリチュール』 ( 1953 ) 以来、私の仕事の絶えざる対象となってきました。1956年、私は、それまでモーリス・ナドーの雑誌「レ・レットル・ヌーヴェル」に発表してきた、消費社会の神話の分析資料といったものを、『神話作用』という表題のもとに一本にまとめました。私が初めてソシュールを読んだのは、その頃のことです。ソシュールを読んで、私は、次のような希望を抱き目の眩む思いがしました。すなわち、それまでいわば場当たり的に表明するだけだったプチブルジョワジーの神話の告発を、ついに科学的に展開してゆくことができる、と。その手段こそ、記号学だったのです。つまり、ブルジョワジーがその歴史的な階級文化を普遍的な自然に変えるために利用する意味の過程を精密に分析すること、だったのです。記号学は、当時、その将来性やプログラムや課題から見て、イデオロギー批判のための根本的な方法である、と私には思われました。私は、その目くるめく思いと希望を、『神話作用』のあとがきのなかで述べておきました。このあとがきは、おそらく科学的には古くなってしまいましたが、しかし幸福なテクストです。というのも、このテクストは、分析用具を与えることによって知的参加 ( engagement ) をゆるぎないものとし、政治的効力を与えることによって意味の研究を責任あるものにしていたからです。
 1956年以降、記号学は変化発展し、その歴史はいわば精算されてしまいました。しかし、いかなるイデロオギー批判であっても、ただその必要性を繰り返すだけにとどまりたくなければ、記号学的なものとならなければならず、またならざるを得ない、と私は今でも確信しています。先ほどの女子学生が意図したように、記号学のイデオロギー的内容を分析すること事態、記号学的な方法によってしか行うことができないでしょう。

2. 第二期は、科学の時代、あるいは少なくとも、科学性の時代でした。1957年から1963年にかけて、私は、服飾の「モード」という、高度に意味する対象の記号学的分析をやり遂げるのに懸命でした。この仕事の目的は、非常に個人的なものであり、もしこう言ってよければ、禁欲的なものでした。問題となっていたのは、よく知られているにもかかわらずまだ分析されたことのないある言語の文法を、綿密に再構成することでした。この仕事の発表が報われないものとなるかもしれない、などということは、私にとってどうでもよいことでした。私の快楽にとって重要なことは、それを行うこと、それを遂行することだったのです。 それと同時に、私は ( 『記号学の原理』によって ) 、記号学のある種の教育を考えてみようとしました。
 私の傍らでは、記号の科学が、各研究者それぞれの経歴、動向、独自の考えに従って構築され、展開されていました ( 私はとりわけ、私の友人で同僚のグレマスやエーコのことを考えているのです ) 。ヤコブソンやバンヴェニストのような大先輩と、ブレモンやメッツのような若い研究者との結びつきが生まれ、「学会」と「国際記号学研究誌」が創設されました。 私について言えば、この時期の私の仕事を支配しているのは、科学としての記号学を打ち立てる企図というよりも、むしろ一つの「分類法」を実行する快楽である、と思います。分類の作業のうちには、一種の創造的な陶酔があります。それはサドやフーリエのような偉大な分類家が味わったのと同じものです。私にとって、科学的段階における記号学は、そうした陶酔そのものでした。私は種々の体系や作用を再構成し、器用仕事 ( bricolage ) を行っていました ( この器用仕事という表現に [レヴィ-ストロース的な] 高度な意味を与えていました ) 。私はこれまで、快楽のため以外には決して本を書いたことがありません。私のうちでは、「体系」の快楽が、「科学」の超自我にとって代わろうとしていました。ということは、既に、記号学の冒険の第三段階が準備されていたということです。無差異 = 無関心 ( indifférent ) ( ニーチェが言うところの無差別 ) な科学に対して、私は最終的に無関心となり、 « 快楽 » に導かれて、「記号表現」のなかに、「テクスト」のなかに入っていったのです。

3. 第三期は、事実、「テクスト」の時代です。
 私のまわりでは、様々な言説が織り上げられ、それが種々の偏見の位置をずらし、種々の自明の理を動揺させ、新しい概念を提出していました。
 レヴィ-ストロースを通して見出されたプロップは、記号学を、物語という一個の文学的対象に本格的に適用することを可能にしました。
 ジュリア・クリステヴァは、記号学の風景を根底から変え、私個人に対しては、主としてパラグラム性と間テクスト性という新しい概念を与えてくれました。
  デリダは、記号内容の後退や構造の脱中心化を要請することによって、記号概念そのものの位置を強烈にずらしました。 フーコーは、記号に過去のある歴史的地位を割り当てることによって、記号の告発を強めました。
 ラカンは、主体の分割に関する完全な理論を我々に与えてくれました。この理論がなければ、科学は、自分がどの場所から語っているのかという点について、依然として盲目で無言のままでいなければなりません。
 そして最後に「テル・ケル」派は、そうした転換の全体を、マルクス主義的な弁証法的唯物論の場に位置づける試みを始めましたが、この試みは今日なお特異なものであることをやめていません。
 私にとっては、この時期は、大まかに言って、「物語の構造分析序説」 ( 1966 ) と『S/Z』 ( 1970 ) の間に記入されます。この後者の仕事は、構造的なモデルを捨て、無限に異なる「テクスト」の実践に訴えるという意味では、いわば前者を否定するものでした。 では、「テクスト」とは何でしょうか? 私は一つの定義によってこれに答えるつもりはありません。そんなことをしようものなら、またしても記号内容の手に陥ることになるでしょう。
 「テクスト」は、我々がこの語に与えようと努めている現代的、今日的な意味においては、根本的に文学作品と区別されます。
 それは美的産物ではない。意味する実践です。
 それは構造ではない。構造化です。
 それは一個の対象ではない。労働であり、戯れです。
 それは、見出されなければならない一つの意味をもった、閉じた記号集合ではない。転位しつつある痕跡の総量です。
 「テクスト」の審級は、意味作用 ( signification ) ではない。記号論的、精神分析学的な意味合いでの「記号表現 ( signifiant ) 」です。
 「テクスト」は、旧来の文学作品を超過します。たとえば、「人生のテクスト」といったものが存在するということであって、私が日本に関するエクリチュール ( 『表徴の帝国』 ) によって入っていこうと試みたのは、そうした「テクスト」だったのです。

 以上、三つの記号学的な経験、すなわち、希望、「科学」、「テクスト」は、今日、私のうちに、どのような形で存在しているのでしょうか?
 洗練された美食家だった国王ルイ13世は、料理人にロースを何枚も重ねて焼かせ、他の肉片の濾過された汁が沁み込んだ一番下の肉片しか食さなかったということです。同様にして、私が望んでいるのは、私の記号学の冒険の現在に、それ以前の時期の汁が沁み込み、国王のロースの場合と同じように、濾過するものが濾過されなければならない素材そのものによって織り上げられ、意味されるもの ( signifié ) が意味するもの ( signifiant ) となるように、濾過するものが濾過されるものそれ自体になるということ、したがって、私の現在の仕事のうちに、私の記号学の冒険の過去のすべてを活気づけた二つの欲動が見出されるということです。すなわち、厳密な研究者たちの共同体に加わろうとした意欲、ならびに政治的なものと記号学的なものの強い結びつきに対して示してきたこだわり、です。
 しかしながら、今日、私は、この二つの遺産を認めるにあたって、これにいかなる修正を施すかを言わずに済ますことはできません。
 第一の点、つまり、「記号学」の科学性については、今日、私は、記号学が単一の科学、実証的な科学であると信ずることはできませんし、また、記号学がそうなることを願ってもいません。それは一つの根源的な理由によります。すなわち、自分自身の言説を問い直すことこそ、記号学の務めであり、おそらく今日、あらゆる人文諸科学のうちで、「記号学」だけに属する務めだからです。言語活動の、種々の言語活動の科学である「記号学」は、自分自身の言語活動を、既知のものとして、透明なものとして、道具として、つまり要するにメタ言語として受け入れることはできません。精神分析学の知見を踏まえて、「記号学」は、自分がどの場所から語っているのか、を問います。この問いかけなしには、いかなる科学、いかなるイデオロギー批判も、笑うべきものとなるでしょう。「記号学」においては、主体は、たとえそれが学者であっても、自己の言説に対して治外法権を与えられていません。少なくとも私は、そうであってほしいと思っています。言い換えれば、科学は、最終的に、いかなる安全な場所をも知らないのであり、この点で科学は、自らをエクリチュールとして認めなければならない、ということになるでしょう。
 第二の点、つまり「記号学」のイデオロギー的な参加 ( engagement ) について言うなら、私の見るところ、賭金は著しく増大しています。「記号学」が攻撃しなければならないのは、もはや『神話作用』の時代のように、単にプチブルジョワ的な自己満足だけではありません。我々西欧文明の象徴的、意味論的体系の全体なのです。内容を変えようと欲するだけでは、あまりにも少なすぎます。とりわけ目指されなければならないのは、意味の体系そのものに罅を入れること、私が日本に関するテクストのなかで要請したように、西欧の囲いの外に出ることなのです。

 そして最後に、以上のようなまえおきについて注意をひとこと。ここでは「私」と言ってきましたが、この一人称は、もちろん ( 精神分析学的な意味において ) 想像的なものです。もしそうでないとしたら、もし誠実さ ( sincerité ) というものが 誤認 ( méconnaisance ) でないとしたら、もはや書くこと ( écriture ) は必要ないでしょう。話すこと ( parole ) だけで十分でしょう。エクリチュールとは、まさしく、文法上の種々の人称と言説の種々の起源とが、混じり合い、入り組み、見失われ、ついには標定しがたいものとなる空間にほかなりません。エクリチュールとは、人間 ( 作者 ) の真実ではなく、言語活動の真実を示すものです。だからこそ、エクリチュールは、常にパロールを超えるのです。ここで行ってきたように、自分のエクリチュールについて話すことに同意するということは、単に、他者のパロールが必要になるということを他者に告げているというに過ぎません。

イタリアでの講演、下記に掲載.
Le Monde, 7 juin 1974.

3. 行為の連鎖  (pp. 18-36 )

 よく知られているように、物語の初期の構造分析によれば、民話は、ある少数の登場人物に割り当てられた様々な行為の組織的な連鎖から成っていて、それらの行為が果たす機能は、どの話においても同一である。ウラジミール・プロップの功績は、何百というスラヴの民話を分析して、諸要素 ( 登場人物や行為 ) とその諸関連 ( 行為の連鎖 ) とがもつ普遍性を立証したという点にあった。その普遍性こそ、たしかに民話の形式を形作っているところのものなのである。しかしながら、プロップにあっては、その形式なるものが、様々な民話に含まれている筋の運びを抽象してできた、一つの図式、一つの連辞的構図にとどまっていた。レヴィ-ストロースとグレマスは、プロップを補足修正し、そうした筋の運びを構造化しようと試みた。物語の連鎖を構成する諸行為は、民話の流れのなかで、他の種類の行為やある時間的距離によって切り離されているが、しかし互いに範列的な対立関係によって結ばれているので、彼らはそうした諸行為を二つ一組にしたのである ( たとえば、主人公の突然の不在/その不在の解消 ) 。また、ブレモンは、物語の諸行為の論理的な関係を、人間の行動のある種の論理との関わりにおいて研究し、たとえば計略やペテンなどといった、民話によく出てくる挿話のある種の普遍的構造を明らかにした。ここでは、物語の構造分析にとって間違いなく基本的なこの問題について考察し、もはや民話ではなく、文学的な物語から取り出した行為のシーケンスを分析したいと思う。ここで取り上げる例は、バルザックの中編小説『サラジーヌ』 ―「パリ生活場景」に収められている― から借りてきたものであるが、しかしいかなる点においても、バルザックの藝術、さらには写実主義の藝術について論じようというのではない。ここで問題になるのは、専ら物語の形式であって、歴史的な特徴や作者の技倆ではないのである。
 始めるにあたって、二つの考察をしておきたい。まず第一に以下の考察。民話の分析は、種々の大きな行為、つまり話の筋の根源的な分節 ( たとえば、契約、主人公に課せられる試練や冒険、など ) を明らかにした。しかし文学的な物語においては、そうした大きな行為がひとまず標定されたとしても ( それは容易なことであるとしても ) 、そのあとには、たくさんの、しばしば取るに足らない、いわば機械的な、細かな行為が残っている ( たとえば、ドアをノックする、会話を始める、会う約束をする、など ) 。これらの補足的な行為は、一種の無意味な地であるというふうに考え、言説が二つの主要な行為を結びつけるためにそれらの行為を言表するのは、当たり前のことであるとして、分析から外してしまうべきであろうか? いや、そうすべきではない。というのも、それでは、物語の最終的構造を決めてかかることになり、その構造を統一的なもの、階層的なものとする方向に捻じ曲げることになるからである。我々は、それとは逆に、物語のあらゆる行為は、どれほど些細に見えようとも、分析し、ある秩序に組み込むべきであり、その秩序を記述していくことが望ましい、と考える。テクストにおいては ( 口承の物語の場合とは逆に ) 、いかなる言語特徴も無意味ではないのである。
 第二の考察は以下の通りである。文学的な物語においては、行為の連鎖は、民話におけるよりもはるかに豊富な、他の « 細部 » や特徴の流れに侵されているが、それらの細部や特徴は、少しも行為ではない。それらは、ある人物やある場所の性格を示す心理的な指標であることもあれば、また、当事者たちが再び結ばれたり、納得し合ったり、互いに騙したりしようとして行う会話のやりとりであることもある。言説が謎を設定したり、引き延ばしたり、解決したりするために差し出す記述であることもあれば、また、何らかの知識や知恵に基づく一般的考察であることもあり、さらにまた、分析によって一般に作品の象徴の場に組み込まれなければならない言語的工夫 ( たとえば隠喩 ) であることもある。それらの特徴は、どれも « 自然発生的なもの » ではないし、 « 無意味なもの » でもない。そのどれもが、種々の « 意見 » のある組織的な全体、ということはつまり、集団的な反復と規則のある組織的な全体、言い換えれば、ある大きな文化的コード、たとえば、「心理学」、「科学」、「叡智」、「修辞学」、「解釈学」、などによって根拠を与えられ、馴染み深いものとなっている。このように他の種類の記号がふんだんにあっても、登場人物たちの行動は ( それが首尾一貫した連鎖をなして結び合わされるかぎりにおいては ) 、ある特別なコード、ある行為の論理に支配されている。その論理は、たしかに、テクストを深いところで構造化し、テクストに « 読解可能 » な様相、物語的合理性の外観、古代人たちが真実らしさと読んでいたものを与えているが、しかし文学的な物語の意味する表面全体を覆い尽くすにはほど遠い。何ページもの間、何事も起こらない ( つまり、いかなる行為も言表されない ) ということが大いにあり得るし、また他方、後件となるある行為が、行為のコードとは別のコードに属する大量の記号によって、前件となる行為から切り離されることもある。それにまた、行為というものは、ある性格 ( 彼は~する癖があった ) の単なる指標として言表されることがあり得る、ということも忘れてはならない。そのような場合、諸行為は互いに積み重ねの過程に従って結びつけられるのであって、論理的な秩序によって結びつけられるわけではない。あるいは少なくとも、それらの行為が関わりをもつ論理は、心理の範疇に属するものであって、実践の範疇に属するものではない。
 以上のような場合 ( 文学的な物語ではこれが大きな部分を占めている ) をすべて別にしても、 (現代との断絶に先立つ ) 古典的テクストには、依然として行為に関するある数の情報が残っているが、それらは互いにある論理  = 時間的な秩序によって結び合わされており ( これがあれに続いて起こると、これがあれの結果ともなる ) 、まさにそのことによって、個々別々の連鎖ないしシーケンスとして組織される ( たとえば、1. ドアのところに着く、2. ドアをノックする、3. 誰かが現れるのを見る ) 。そうした個々のシーケンスの内部展開が ( たとえそれと並行した他のシーケンスの展開と複雑に絡み合っているとしても ) 、筋の運びを確かなものとし、物語が « 結末 » または « 大団円 » に向かって生成変化し発展してゆく一個の有機体となるようにするのである。
 物語の行為のうちのあるもの ( たとえば、人を殺す、犠牲者を誘拐する、愛を告白する、など ) は、非常に大きな小説的密度をもち、重要であると思われる一方、他の行為 ( たとえば、ドアを開ける、腰を下ろす、など ) は、まったく取るに足らないように思われるが、そうした物語の諸行為の一般的コードを、テクストのなかで用いられている他の文化的コードと区別するためには、何と呼ぶべきか ( といっても、もちろん、そうした区別は、分析的な価値をもつに過ぎない。というのも、テクストは、あらゆるコードを混ぜ合わせ、いわば編み合わせて示すからである ) 。私は、かつてアリストテレスの用語の一つに基づいて、そうした物語の行為のコードを、選択的コード ( code proaÏrétique ) と呼ぶことを提案した ( アリストテレスは要するに作品の構造分析の父なのである )。実際、アリストテレスは、行為つまりプラクシスの学を打ち立てようとして、それに先立つ補助的な規律、つまりプロアイレシスを考えたが、これはある行為の結果を予めよく考え、二者択一の二つの選択肢のうち、これから実行するものを選択する ( これがプロアイレシスという語の語源的意味である ) 人間の能力に基づいていた。ところで、物語もまた、行為の連鎖の各結節点において、いくつかの可能性のうちから « 選択する » ( ここでは作者というよりも物語が選択すると言った方がよい。というのも、ここでは語り手による運用ではなく、物語のラングが問題になっているからである ) 。そしてその選択が、各瞬間ごとに、話の成り行きそのものを決定する。ノックしたドアが開かれるか開かれないか、等々によって、もちろん話の筋は変わってくるだろう ( この二者択一的な構造は、とりわけCl. ブレモンによって研究されている )。言うまでもなく物語は、ある行為が行われるたびに、ある二者択一の前に立たされるが、自分にとって有利な選択肢、つまり、物語として生き延びることを保証してくれる選択肢以外のものは決して選ばない。話の筋を消滅させたり、急に終わらせたりする選択肢を ( これから実現されるものとして言表し ) 表示することは決してない。物語には、いわば真の自己保存本能といったものがあって、言表されたある行為が予想する二つの可能な結果のうち、筋を « 新たに展開させる » 方を必ず選ぶのである。平凡だがしかしほとんど研究されていないこの自明の理を思い起こすのも無駄ではない。というのも、物語の藝術 = 技術 ( つまりコードの運用、適用 ) はまさしく、こうした構造的な決定作用 ( これはただ物語を « 救う » ためのものであって、登場人物のうちの誰かを « 救う » ためのものではないのだが ) に対して、一般に心理的、倫理的、感情的な動機、などといった保証 ( アリバイ ) を与えることにあるからである。そこで、実際には物語が自分自身の生き残る道を選んでいるというのに、登場人物が自分自身の運命を選んでいるかのように見えるのである。物語の自己保存本能が、登場人物の自由によって覆い隠されてしまうのだ。 ( 貨幣経済とまったく同じような拘束力をもつ ) 物語の経済が、人間の自由意志のうちに昇華されるのである。選択過程 ( proaÏrétisme ) という語が含意するところは以上のようなものであって、私はこの語を、ある一つの首尾一貫した均質的な連鎖のうちに組み込まれた、物語のあらゆる行為に適用しようと提案しているのである。
 さらにまた、そうした行為の連鎖は、どのようにして構成することができるのか、ある行為がある連鎖に所属し、他の連鎖に所属しないということは、どのようにして決定するのか、といったことも知らなければならない。実際には、そうした連鎖の構成は、連鎖に命名することと密接に関係している。それとは逆に、連鎖の分析は、連鎖のために見出された名前を展開することと関係している。たとえば、出発する、旅行する、到着する、滞在する、などといった様々な行為は、「旅行」という一般的な名称によってごく自然に包括することができるからこそ、この連鎖は一貫性をもち、個別化される ( つまり、他の連鎖、他の名称と対立する ) ことになるのである。それとは逆に、「会う約束」という語には、一般に、申し出る、承諾する、約束を守る、といった一連の行為が含まれているということを、私は実際的な経験によってよく承知しているからこそ、この語がテクストによって何らかの形で示唆されると、とりわけそうしたシーケンスの図式を見て取る権利を幾分かもつことになるのである。 ( 既に述べたように不均質な性格をもつ、テクストの意味する全体のなかから ) シーケンスを取り出すということは、ある総称名 ( 「会う約束」、「旅行」、「遠出」、「殺人」、「誘拐」、など ) によって、いくつかの行為をひとまとめにするということである。そのシーケンスを分析するということは、そうした総称名を展開し、その構成要素を繰り広げるということである。しかし単なる命名が、観察すべき現象を構成するための十分な根拠になるというのでは、まことに手軽で、分析者の完全に主観的な裁量に委ねられていて、要するにあまり « 科学的 » でない、と思われるかもしれない。これでは、どの連鎖も、命名したから存在するということになり、これが予の意志であるからかくのごとく命名する、ということになりはしないか? こうした反論に対しては、次のように答えなければならない。すなわち、物語の科学は ( もしそれが存在するとしたら ) 、精密科学や実験科学の基準に従うわけにはいかない。物語は一つの言語活動 ( 意味作用や象徴作用の活動 ) であって、まさに言語活動の観点から分析されるのでなければならない。その場合、命名するということは、分析者にとって、測量技師の測量、化学者の計量、生物学者の顕微鏡検査と同じくらい、十分に根拠のある、対象と同質的な操作なのである。そのうえ、シーケンスのために見つけてくる名前は ( そのシーケンスを構成するものであり ) 、体系性を証拠立てるものであって、それ自体、言語 ( langue ) を構成する広範な分類活動に由来している。たとえば、私がある連鎖を「誘拐」と呼ぶのは、言語 ( langue ) そのものがあるいくつかの様々な行為を、ただ一つの概念のもとに分類し統一して私に与え、かくしてその概念の首尾一貫性を認証しているからである。そこで、私がテクストのなかに散在している断片的な行為から出発して構成する「誘拐」は、私がかつて読んだことのあるあらゆる誘拐と一致するのだ。名前というものは、何らかの、かつて書かれたもの、かつて読まれたもの、かつて行われたことの、正確な、異論の余地のない、科学的事実と同じくらい確固とした、痕跡なのである。それゆえ、名前を見出すということは、決して、私の気まぐれに任された、勝手気儘な操作ではない。名前を見出すということは、コードを構成しているこの「かつて」を見出すということであり、物語の言語 ( langue ) を形作っている他のあらゆる物語と、目の前のテクストとのコミュニケーションを確実なものにするということである。というのも、言語学的または記号学的な作業は、言語活動の過去とテクストの現在とのコミュニケーションが行われる通路を見出さないかぎり決して成り立たないからである。そして最後に、シーケンスに命名するとき、分析者は、読者が行う作業そのものを、より丹念に、より理論的に再現しているに過ぎないのであって、彼の « 科学 » は、読者の現象学に根差しているのである。実際、ある物語を読むということは、 ( 読書の熱狂的なリズムに従って ) 物語を断片的な構造の集まりとして組織化することであり、話の筋を « 貪るように追う » と同時に、心のうちでぴったりした名前を見つけようとすることであり、現に読んでいる新しい事柄を、それ以前の広範な読書のコードに由来する既知の名前によって、絶えず飼い馴らそうとすることである。民話を受け取る私の行為が、単に文を知覚するだけでなく、実際に一つの読書となり、私が文の言語的意味だけでなく物語的意味を理解するようになるのは、あるいくつかの指標が、いち早く、私の心のうちに、「殺人」という名前を浮かび上がらせるからである。読むということは、命名するということである ( だからこそ、読むことは書くことである、と言うことさえできるのであり、少なくともある種の現代的テクストについてはそう言えるのである ) 。
 ここでは、行為の論理の全体を扱うつもりはないし、また、そうした行為の論理は一つしかないと主張するつもりもないが、あるいくつかの選択的な ( proaÏréstique ) シーケンスを、ある少数の単純な関係に還元するよう努めてみよう。そうすれば、古典的な物語がもつある種の合理的な様相について、基本的な理解が得られるだろう。
 1. 継起の関係。物語においては、純粋な継起は存在しない ( そしておそらく、これが物語の標識なのである ) 。時間関係は直ちに論理に浸され、継起の関係が同時に因果の関係となる。あとから起こることが、その前にあったことによって引き起こされるように見えるのである。しかしながら、ある種の運動を分解してみると、純粋な時間関係に近づくことがある。ある対象、たとえばある絵を知覚するような場合はそうである ( あたりを見回す/対象を認める ) 。こうしたシーケンス ( といってもその数は少ないが ) のほとんど論理的でない性格は、要するにその各項が、ある系列 ( série ) におけるのと同じように、先立つ項を繰り返すに過ぎないという事実からしてよくわかる。たとえば、最初の場所 ( ある部屋 ) から出る/次の場所 ( その部屋がある建物 ) から出る。しかしながら、論理が、含意という形をとって、すぐ近くに控えている。つまり、 « 気づく » ためには、まず « 見る » 必要があり、 « ある部屋に入る » ためには、まず « その建物に入る » 必要がある、というわけである。ましてやその運動が帰りの運動を含意する場合には尚更である ( たとえば、「遠出」、「恋の散歩」 ) 。この場合、構造は ( あまりにも初歩的であるため ) 、きわめて貧弱であると思われる。つまり、それは、行きと帰りの構造なのである。しかし、その一つの項が記述されていない場合を想像してみれば、物語が突然、どのような論理的スキャンダルをもたらすものとなるか、十分に推し量ることができる。たとえば、帰らぬ旅は ( 連鎖の一つの項が欠けているというただそれだけのために ) 、物語られ得るもののうちで、最も意味深長な出来事の一つとなる。
 2. 因果の関係。これは、二つの行為のうち、一方が他方を決定する古典的な関係である ( しかし、ここでもまた、上記1の場合と対称的かつあべこべに、因果関係が、大抵は時間制に侵されることになる ) 。因果的な分節は、言うまでもなく、最も豊かな分節の一つである。というのも、それはいわば物語の « 自由 » を支えるものだからである。たとえば、あるシーケンスが、肯定的なものとなるか、否定的なものとなるかによって、話の成り行きはがらりと変わってしまう。
 3. 意欲の関係。ある行為 ( たとえば、服を着る ) は、意図または意志の記述 ( 服を着ることを欲する、服を着ることに決める ) に先立たれている。この場合にもまた、関係が脇に逸らされ、意志がその達成から切り離される ( たとえば、服を着ることを欲するが、そうはしない ) ことがあり得るが、それは最初のシーケンスの論理的な生成変化を、第二のシーケンスからやってきたある出来事がかき乱すようなときである ( 我々にとって重要なのは、ここでもまたその出来事が記述されているということである ) 。
 4. 反応の関係。ある行為 ( たとえば、手で触る ) は、それに対する反応 ( たとえば、叫び声を上げる ) を伴っている。これは因果的図式の一変種であるが、しかしこの場合のモデルは、それよりもさらにはっきりと生物学的である。
 5. 持続の関係。ある行為 ( またはある状態 ) の開始や持続を記述したのち、言説はその中止や終了を記述する。たとえば、笑い出す/やめる、隠れている/隠れ場から出る、物思いに耽る/夢想から醒める、など。繰り返し言っておくが、意味があるのは、こうした連鎖の平凡さそのものである。というのも、もし物語が、ある状態や行為の終わりを記述せずにいるようなことがあると、真の物語的スキャンダルが発生するからである。中止を記述するということは、物語の言語 ( langue ) が課す真の拘束であり、さらにまた、言説のレヴェルに移し替えれば、これはヤコブソンが言語活動について語っているあの義務項目の一つである、と思われる。
 6. 等価の関係。ある少数の連鎖は ( 既に行ってきたように、その核だけに還元してみると ) 、語彙のなかに書き込まれている対立を実現しているに過ぎない。たとえば、質問する/答える ( あるいは、疑問を抱く/確かめる ) 。この二つの項は、確かに単純含意 ( implication simple ) の論理的関係によって結び合わされている ( 人は質問されたから答えるのである ) が、しかしこの構造は、反意語の対に見られるような形式的補完の構造なのである。
 行為の連鎖のうちには、確かに以上のような関係とは別の論理的な関係が存在するし、また他方、ここで指摘した六つの関係は、おそらくさらに還元し、形式化することもできよう。だが、分析にとって重要なのは、そうした論理的な関係がいかなる性質をもっているかということよりも、むしろそうした関係を記述しなければならないという必要性である。物語は関係の二つの項を記述する必要があるのであり、さもなければ、 « 読解不可能 » なものとなってしまう。ところで、論理的な関係そのものよりも、その表現の方がより関与的に見えるのは、物語の拠り所とする論理が、かつて読んだものの論理以外の何物でもないからである。つまり ( 何世紀にもわたる文化に由来する ) ステレオタイプが、物語の世界の真の道理となっているのであり、物語の世界は、 ( 実践によるというよりもはるかに書物による ) 経験によって読者の記憶に蓄積され読者の記憶を形作っている、様々な痕跡に基づいて全面的に構築されているのだ。それゆえ、完璧なシーケンス、読者に最も強烈な論理的確信を抱かせるシーケンスとは、最も « 文化的 » なシーケンスであって、そこには直ちに大量の読書と会話の痕跡が見出される、と言うことができる。たとえば、 ( バルザックの中編小説『サラジーヌ』の ) 、「立身出世」というシーケンスは、パリに上る/ある大家のもとに入門する/その師匠のもとを去る/賞を獲得する/ある大批評家に認められる/イタリアへ出発する、となっているが、この連鎖は我々の記憶のなかに何回となく刻み込まれていないであろうか? 物語の論理は、アリストテレスの言う、ありそうなこと ( つまり科学的真実ではなく世間の通念 ) を展開するものに他ならない、ということは認めざるを得ない。それゆえ、この論理を ( 規範として、美的価値として ) 合法化しようとしたとき、物語の初期の古典的理論家たちが、再びアリストテレス的な観念、つまり真実らしさの観念を前面に押し立てたのは、当然のことなのである。
 あとは、どのような形で行為の連鎖がテクストのなかに存在しているかを言わなければならない。
 1. ここまでの分析は、いくつかの論理的核について行われてきたので、行為の連鎖は、定義上、連辞的秩序に属しつつも、二項対立的 ( 範列的 ) 構造をもっていると考えたくなるかもしれないが、それは分析がもたらす錯覚というものであろう。命名するのに適しているということ ( つまり、文化としての語彙体系から取り出してきたある総称語を被せるのに適しているということ ) が、連鎖の判別基準として認められるとするなら、項の数が非常に異なる種々の連鎖を認めなければならない。連鎖がある取るに足らない些細な操作を表すときは、一般にその項の数はあまり多くない。連鎖がある大きな小説的モデル ( たとえば、「恋の散歩」、「殺人」、「誘拐」、など ) に関係するときは、その逆である。それにまた、この種の大きなシーケンスにおいては、様々な構造が互いに重ね合わされることがある。たとえば、言説は、 « 現実の » 出来事の ( 論理 = 時間的な連鎖の ) 表示と、修辞学的な配置 ( disposition ) の通常の諸項 ( たとえば、予告、論述の各項目、要約、など ) とを混ぜ合わせることができるが、このようにすれば連鎖は分散することなしに長くなる。言説はまた、二つか三つの ( 異なる ) 主要な項を設け、 ( その記号表現を変えながら ) 各項を何度も繰り返すことができる。たとえば、ある登場人物は、ある状況に従って、望みをもつ/失望する/その埋め合わせをすることができるが、しかしその望み、失望、埋め合わせが、 ( その人物によって思い返されるたびに、フラッシュバックによって ) 何度も言い直されるのである。そして最後に、諸項の反復は ( 連鎖の増殖の原因となるだけでなく ) 、意味論的価値をもつことがある ( 反復という形によって固有の内容を与えられることがある ) 、ということも忘れてはならない。「危険」や「脅迫」といったシーケンスの場合がそうである。このような場合、ある一つの同じ項 ( 危険を犯す、脅迫を受ける ) の繰り返しは、劇的な緊迫感の価値をもつことになる。
 2. 一般に、物語の構造分析は、 ( プロップが機能と呼んだ ) 諸行為を分類する前に、それらの行為の動作主または被動作主となる登場人物によって、それらの行為を特定化する。この考えに従うなら、分析は、行為の連鎖がほとんど常に、二、三人の当事者によって行われる、ということに留意しなければならないだろう。たとえば、働きかける/反応するといった連鎖には、言うまでもなく二人の異なった動作主がいる。しかしこれは、行為の連鎖の分析が済んだあと問題になることである。 ( ここで我々が取り組んでいる ) 単純な構造化の観点からすれば、行為の項を、あらゆる人称的な事行 ( procès ) から解放され、逆に純粋な意義素 ( sémentème ) の状態で捉えられた一個の動詞と見なすこと ( といっても、ある種の動詞、たとえば再び一緒になるという動詞の意味構造 ( sémentisme ) は、それ自体既に動作主の二重性を含意しているが ) は、正当な ( そしておそらく有益な ) ことなのである。
 3. ある連鎖は、少しばかり長くなると、副次的な連鎖を含むことがあり、これが « 副プログラム » ( サイバネティクスでは « 煉瓦 » と呼ばれていた ) となって、連鎖全体の展開のうちに挿入される。たとえば、「物語る」というシーケンスは、ある時点で、「逢引」 ( 物語るために会う約束を取りつける ) という項を含むことがあり、次にはこの項がまた一つのシーケンス ( 逢引を申し出る/逢引を承諾する/逢引を断る/逢引をする、など ) を含むことがある。実際、行為の網の目は、場合により、主として拡張的な置換かまたは縮小的な置換によって構成される。言説は、あるときは一つの項を分解して、新たな行為の連鎖を生み出し、またあるときは、いくつもの操作をただ一つの語によって要約する。この揺れの自由は、分節言語に固有のものである ( たとえば、映画言語においては、これよりもはるかに規制されている ) 。
 4. ある連鎖が、ある種の非論理性を示しているように見えるときは、大抵、さらに分析を推し進め、あるいくつかの初歩的な置換を行ってみれば、その連鎖に合理性を取り戻させることができる。たとえば、「物語る」というシーケンスにおいて、申し出のあった逢引を承諾する、という項は、問題になっている物語を相手に語って聞かせることを承諾する、というのに等しい。物語るようにという命令と、その物語の効果 ( その物語を聞いた者に対する効果 ) との間に、ある « ブランク » が生じているのは、物語る行為が、そうとはっきり示されているわけではないが、その物語のテクストそのもの ( 『S/Z』 ) によって代行されているからである。この場合、欠けている項というのは、言表の開始を告げる引用符によってはっきりと示されているその物語の全体なのである。
 5. 上のような置き換え ( 上のような « 復元 » と言うべきか ) は、どうしても必要である。というのも、古典的な物語においては、連鎖は、報告された出来事を可能な限り覆い尽くそうとする傾向がある、ということは確かだからである。物語的執念とでもいったものがあって、事実を、可能な限り多くの決定関係によって包囲しようとするのだ。たとえば、物語るという行為は、その行為の条件やら原因やらによって先立たれることになる。事実が ( またはその事実を述べる行為の核が ) 、それに先立つものによって、絶えず延長されるのである ( この過程の典型的な例は、フラッシュバックである ) 。行為の観点から見ると、物語藝術の原理 ( その倫理とも言えよう ) は、補完することにある。つまり、完全無欠の要求を最もよく満足させ、読者に « 真空の嫌悪 » を免れさせる言説を生み出すことが問題となるのである。
 以上、語りのある種のレヴェル ( 語りには他の多くのレヴェルも含まれている ) に関するいくつかの指摘は、 ( 明白な事実を一種の予備的な目録という形で示すことによって ) ある明確な問題へ導くことを目的としている。すなわち、ある物語が « 読解可能 » なものとなるのは、何によってか? あるテクストの « 読解可能性 » の構造的諸条件とは、いかなるものであるのか? ここで取り上げられたことはすべて、 « わかりきったこと » と見えるかもしれない。しかし、もし物語のそうした諸条件が  « 自然なもの » に見えるとしたら、それはつまり、物語の « 反自然 » といったものが、裏返しの形で、潜在的に存在するからなのである ( 現代のある種のテクストは、おそらく、そうした « 反自然 » の新しい実験を行っているのだ ) 。行為の連鎖の基本的な合理性を跡づけていけば、物語の限界に近づくことになり、そこを越えれば、物語的侵犯の藝術という、新しい藝術が始まることになるのである。ところで、行為の連鎖は、そうした読解可能性の、いわば特権的な保管所である。ある物語が我々にとって « 正常なもの » ( 読解可能なもの ) に見えるのは、行為のシーケンスの疑似論理による。その論理は、既に述べたように、経験的なものであって、人間精神の « 構造 » に帰することはできない。その論理のうちにあって重要なことは、それが物語られた出来事の連鎖に、ある ( 論理 = 時間的な ) 不可逆的秩序を保証するということである。古典的物語の読解可能性をなすのは、不可逆性なのである。したがって物語が、その構造全体にわたって可逆作用を強めることにより、破壊される ( 現代的なものとなる ) のはもっともなことなのである。ところで、とりわけ可逆的なレヴェルというのは、象徴のレヴェルである ( たとえば、夢は、論理 = 時間的な秩序に従わない ) 。我々がここで少しばかり引き合いに出したバルザックのテクストは、ロマン主義的な作品であるかぎりにおいては、歴史的に、好意的なものと象徴的なものの交差するところに位置している。このテクストは、 ( 古典的タイプの ) 諸行為の強制的な不可逆性を特徴とする、単純な読解可能性から、時間と合理性を破壊する象徴的効果の分散ならびに可逆性の力に従った、ある複雑な ( いまにも崩れそうな ) 読解可能性への移行を見事に表しているのである。

1969. In Patterns of Literary Style,
ed. by Joseph Strelka,
© The Pennsylvania State University Press, 1971.

4. ソシュール、記号、デモクラシー ( pp. 37-45 )

 ルソー自身も使っていたが、俗語では、trayait ( 乳を搾った ) と言うかわりに、traisait と言う。traire ( 乳を搾る ) という動詞を、plaire ( 気に入る ) という動詞にならって変化させ、その半過去形 plaisait ( 気に入った ) と同じ形にするのである。これは四項の比例関係であって、ソシュールはこの関係を類推 ( analogie ) と呼んだ ( 実際、この語の語源 analogia は、比例関係 proportion を意味するが、しかし今日なら、むしろ相同関係 homologie と言いたいところである ) 。
 類推 ( analogie ) は、言語の根源的な原動力であり、言語の本質である、とソシュールは考える。« 類推の役割は無限である »。« 類推の原理は、結局のところ、言語活動のメカニズムの原理に他ならない »。類推のこの優越性は、ソシュールによって熱っぽく説かれている。ソシュールは、類推の力を、効力を、知恵を、誉め讃える。類推を、創造の、造化の原理として祭り上げ、かくして彼の時代の言語学的階級関係 ( hiérarchie ) を再編する。類推現象のひしめく群れは、音韻変化 ( これが彼以前の言語学の唱えるお題目であった ) よりもはるかに重要である、と彼は考える。言語を構成する諸要素は、数世紀にわたる進化を超えて保存されてきた ( ただ分布が変わっただけなのである ) 。ソシュールは、言語の耐久性、安定性、自己同一性を賞賛する ( 彼は常に通時態を共時態のうちに吸収しようとした ) のであるが、そうした言語の永続性の理由は、類推にある。« 類推は、優れて保守的なのである »。« 類推による革新は、現実のものというよりも見かけだけのものに過ぎない。言語は、同じ布地を継ぎ接ぎして作られた服である »。フランス語の五分の四は、インド・ヨーロッパ語である。類推が言語に永続性をもたらすのだ。 類推に対するこのような熱烈な支持は、その裏に発生論 ( génétisme ) への深い敵意があることを窺わせる。ソシュールとともに、ある認識論的転換が行われるのだ。類推論 ( analogisme ) が進化論 ( évolutionisme ) に取って代わり、模倣が派生と入れ替わるのである。たとえば、 magasinier ( 倉庫係 ) という語は、magasin ( 倉庫 ) から派生したと誰もが言うが、そのように言うべきではない。むしろ magasin/magasinier が、prison/prisonnier ( 牢獄/囚人 ) にならって形成された、と言うべきなのである。語源学は、現存する語形から、語源の形に « 遡る » のを目的とする、と言うべきではない。その語を、隣接する諸辞項のある配置型、諸関係のある網の目のうちに位置づけさえすればよいのである。「時間」はそうした配置型や網の目をトポロジックに変形するに過ぎない ―それが「時間」のささやかな力なのである。
 このような考え方にいかなるイデオロギーが含まれるかは、容易に察しがつく ( 実際、多くの場合、言語学ほど直接的にイデオロギー性を帯びるものは何もないのだ ) 。一方において、類推を支持するということは、当時タルドによって体系化された「模倣」の社会学全体に同調するということである ( ソシュールはおそらく、デュルケムよりもタルドを読んでいた ) 。そしてその社会学は、大衆社会の始まりに実に見事に呼応するものであった。中産階級は、文化の面、とりわけ服装の面において、ブルジョワ的な価値を模倣し、それを自分のものにし始めていた。「流行」、つまり、絶えず追いつかれてしまう新しさの狂ったような模倣は、そうした中産階級による社会的模倣の勝利を示すものである ( そのためブルジョワジーは、「流行」の外で、簡素だが模倣し難い « 洗練 » によって自己主張をしなければならなくなる ) 。ソシュールは、スペンサーからマラルメに至る同時代人の多くと同じように、「流行」の重要性に注目し、言語活動の領域における「流行」を、相互交通 ( inter-course ) と呼んだ。また他方、ソシュールは、言語を永遠のものとすることによって、いわば「起源」をお払い箱にする ( 語源学に対する彼の冷淡さはここから来ている ) 。言語は、親子関係 = 系譜の過程に縛られているわけではないのだから、遺産相続の価値は下がる。科学的な手続は、説明的であること ( 親子関係的 = 系譜的であること、原因や先行するものを探し求めること ) をやめ、記述的なものとなる。語の空間は、もはや祖先 = 遡行 ( ascendance ) や子孫 = 下降 ( déscendance ) の空間ではなく、横並び ( collatéralité ) の空間となる。言語を構成する諸要素 ―言語に属する諸々の個体― は、もはや子孫ではなく、互いに同じ市民となる。言語は、生成変化するときでさえ、もはや封建制ではなく、民主制に従う。語の権利と義務 ( 要するにこれが語の意味を形作っているのである ) が、平等な個体の共存や同居によって制限されるのである。
 しかしながら、ソシュールのもとでは、類推の原理は、万能ではあっても原因をもっている。それは、記号のステイタスから出てくるのである。言語においては、記号は « 恣意的 » であって、いかなる自然の絆も、記号表現 ( signifiant ) と記号内容 ( signifié ) を結びつけていない以上、この恣意性は、安定をもたらすある力、つまり類推によって補われなければならない。記号はその本性からして、真っ直ぐに « 立って » いられないのだから、記号が存立するためには、どうしても周囲のものに寄りかからなければならないのである ( 記号の意味作用 ( signification ) [ 記号表現と記号内容の結びつき ] を垂直に書き表すのは、人を欺くものだ ) 。そこで、隣接する関係 ( 同じ市民同士の関係 ) が、意味作用の関係に取って代わり、契約が、不確実であるがゆえに無力な自然と入れ替わるようになるのである。ソシュールにあっては、こうした成り行きが、ちょっとした科学的ドラマの様相を呈している、ということを思い起こそう。それほど、この言語学者は、意味作用の欠陥に悩んだのち、ようやく価値の理論を明らかにするに至る、と思われるのである。
 ソシュールは記号を、分割され、分離され、閉ざされた個体という形で考える。記号はまさしくモナドなのである。そのどれもが、自己の回路 ―自己の存在― のうちに、一個の記号表現と一個の記号内容を含んでいる。その回路が意味作用である。そこで、二つの不都合が生ずる。一方において、もし言語が、モナドだけに基づいて分節されているとしたら、言語は記号の死んだ集まり、語彙目録以外の何物でもなくなるだろう ―が、言うまでもなく、言語はそのようなものではない。また他方、もし意味を、記号表現と記号内容の垂直の、いわば閉ざされた関係に還元するなら、その関係は自然なものではないのであるから、言語の安定性が理解できなくなる。« 言語は [ もしそれがモナドの集まりに過ぎないとすれば ] 、記号表現と記号内容の関係を絶えずずらしてゆく諸要因から身を守ることが、徹底的にできなくなる。これは記号の恣意性がもたらすさまざまな帰結のうちの一つである »。それゆえ、意味作用だけで満足していると、「時間」が、「死」が、絶えず言語を脅かすことになる。この危険は、記号の恣意性という一種の「原罪」 ―ソシュールはこれを、悔やんでも悔やみきれずにいるように見える― の結果に他ならない。記号表現が、人間のいかなる契約、いかなる社会性の助けも借りずに、永遠に、自己の記号内容と等価であり、賃金が労働の « 正当な » 対価となり、紙幣がそれと同量の金と永久に等価であるような、時代や、秩序や、世界や、言語は、なんと素晴らしいことであろう! というのも、ここでは、交換についての一般的な考察が問題になっているからである。ソシュールにとっては、「意味」は、「労働」は、「金」は、「音」の、「賃金」の、「紙幣」の記号内容である。何よりも「記号内容」という「金」を! これこそが、あらゆる「解釈学」、つまり、意味作用に終止する記号学の叫びである。ちょうど健全財政において、金が通貨の基礎となるように、そうした解釈学、記号学にとっては、記号内容が記号表現の基礎となるのだ。これはまさしくド・ゴール的な発想である。金本位制を維持しよう、そして明晰であれ、これがド・ゴール将軍の二つの合言葉なのである。
  だが、ソシュールのちょっとしたドラマは、尊大な保守主義者たちとは反対に、「記号」も「金」も信用しない、という点にあった。紙幣と金、記号表現と記号内容の結びつきは、流動的、一時的なものであって、何物によっても保証されず、時代の、「歴史」の変遷に委ねられている、ということが彼にはよくわかっていたのだ。意味作用の考え方に関しては、ソシュールは、現代の貨幣危機の段階まで進んでいる。金とその人為的な代替物であるドルの本位制が崩れ、通貨が、ある自然な本位に頼ることなく、相互に依存して成り立つようなシステムを夢見ているのだ。要するに、ソシュールは、 « ヨーロッパ統合主義者 » なのである。
 最終的に、ソシュールは、ヨーロッパの現代の政治家たちよりも幸せなことに、そうした相互依存のシステムを見出した。文は、単に言語鎖によって並べられた自己完結的な諸記号とは違ったふうに機能するのであり、言語活動が « 始発する » ためには、それとは別のものが必要である、という事実確認から出発して、彼は価値を発見する。そこで、彼は意味作用の袋小路から脱け出すことができるようになる。記号内容 ( 金 ) との関係は不確実で、脆いが、 ( 言語の、通貨の ) システム全体は、記号表現 ( 通貨 ) の相互依存によって安定するのである。
 価値とは何か? 繰り返すまでもないことだが、ソシュールの『一般言語学講義』は、この点に関するかぎり明快である。言語学の概論書に出てくる例 ( sheep/mutton ) とは違った例を、一つだけ挙げておこう。ジュネーヴ大学のトイレには、実に奇妙な ( だが完全に公認の ) 表示が見出される。二つのドアがあり、この必要欠くべからざる二重性は、一般に性の違いのために設けられているわけであるが、ここでは、その一方に « 紳士用 » と書かれ、他方には « 教師用 » と書かれている。この表示は、純然たる意味作用だけに還元されると、何の意味もなくなる。教師は « 紳士 » ではない、とでも言うのであろうか? 道徳でもあり風変わりでもあるこの対立は、まさに価値の面において説明される。ここでは二つの範列が衝突し、その残骸だけが読み取られているのだ。すなわち、( 紳士/淑女 ) / ( 教師/学生 ) 。言語の働きにおいては、まさしく ( 意味作用ではなく ) 、価値こそが、感覚的、象徴的、社会的な役割を果たすのであり、ここではそれが、教育上、性別上の分離を行う役割を果たしているのである。
 ソシュールの企てにおいては、価値とは、贖罪を行う概念であって、これが言語の永続性を救い、信用貨幣の不安と呼んで然るべきものを克服することを可能にする。ソシュールが言語活動について抱いていた考えは、ヴァレリーのそれに極めて近い ―あるいはヴァレリーがソシュールに極めて近いということであっても一向に構わない。彼らは互いに相手のことを少しも知らなかった。ヴァレリーにとってもまた、商業活動、言語活動、通貨、法律は、ある一つの同じ体制、つまり相互依存の体制によって規定される。それらはいずれも社会契約なしには成り立たない。というのも、ただ契約だけが、本位となるものの欠如を補正することができるからである。言語におけるこの本位の欠如に、ソシュールは ( ヴァレリーよりもさらに不安を抱き ) 、悩まされた。記号の恣意性は、言語活動のうちに、絶えず「時間」を、「死」を、「無秩序」を、導き入れる恐れがないであろうか? そこで、言語と、その背後にある社会にとっては、ある規則のシステムを設けることが、生死に関わる必要性 ( 言語と社会が生き残るための必要性 ) となる。その規則というのは、 ( 類推と価値に基づく ) 経済の規則、民主主義の規則、構造の規則であって、それらの規則のシステムはいずれもある種の遊びに似たものとなる ( ソシュール言語学の中心的隠喩は、チェスであった ) 。言語は、金本位制を捨てた場合の経済システムに近づき、君主と臣下の自然な ( 永遠の ) 関係から市民相互の社会契約に移行した場合の政治システムに近づく。ソシュール言語学のモデル、それは民主制である。ジュネーヴの名士で、ヨーロッパの最も古い民主主義国家の一つに属し、しかもその国にあって、ルソーを生んだ都市に属していたソシュールの伝記的境遇を、その理由として挙げることはやめにしよう。ただ、認識論的なレヴェルにおいて社会契約と言語契約とを結びつけている、異論の余地のない相同関係だけを指摘しておこう。
 もう一人のソシュール、「アナグラム」のソシュールが存在する、ということはよく知られている。この第二のソシュールは、既に、古代の詩句の音と意味のひしめく群れから、現代的問題を聴き取っていた。そうなるともはや、契約も、明晰さも、類推も、価値も存在せず、記号内容という金は、記号表現という金に取って代わられ、記号表現は、もはや通貨の金属 ( métal )ではなく、詩的な素材 ( métal ) となる。この聴き取りが、ソシュールをどれほど狂乱させたかは、周知の通りであり、彼はかくして、失われた記号内容の苦悩と、純粋な記号表現の恐るべき回帰との狭間にあって、その生涯を終えたように思われるのである。

Le Discours social,n° 3-4, avril 1973,« Socialité de l'écriture ».

5. 意味の調理場 ( pp. 46-50 )

 衣服、自動車、出来合いの料理、身振り、映画、音楽、広告の映像、家具、新聞の見出し、これらは見たところ極めて雑多な対象である。
 そこには何か共通するものがあるだろうか? だが少なくとも、次の点は共通である。すなわち、いずれも記号であるということ。街なかを ―世間を― 動き回っていて、これらの対象に出会うと、私はそのどれに対しても、なんなら自分でも気がつかないうちに、ある一つの同じ活動を行う。それは、ある種の読みという活動である。現代の人間、都市の人間は、読むことで時間を過ごしているのだ。彼はまず、とりわけ、映像を、身振りを、行動を読む。この車jは、その所有者の社会的地位を私に告げ、この服は、それを着ている服がどの程度常識的か型破りかを正確に私に告げ、このアペリティフ ( ウィスキー、ペルノー酒、カシス白ワイン ) は、私をもてなしてくれる主人の生活様式を告げる。それが書かれたテクストであっても、我々は、第一のメッセージの行間から、絶えず第二のメッセージを読み取ることになる。パウロ6世は危惧する、という大見出しが出ていたら、それはまたこういう意味でもある。この記事を読めば、その理由がわかりますよ。
 この種の « 読み » はすべて、我々の人生において実に重要であり、実に多くの社会的、倫理的、イデオロギー的価値を含んでいるので、体系的な考察によってこれを取り上げずにおく手はない。その種の考察のことを、我々は、少なくとも目下のところ、記号学と呼んでいる。記号学は、社会的メッセージの科学なのか? 文化的メッセージの科学なのか? 第二次の情報の科学なのか? 教会の盛儀からビートルズのヘアスタイル、パンタロンドレスから国際政治の駆け引きに至るまで、世界中の « 演劇 » をすべて扱うものなのか? その定義は多様で流動的であるが、差し当たりそれは問題ではない。 重要なのは、見たところ無秩序に見える膨大な事実の山に、ある分類原理を適用することができるということであり、その原理を与えてくれるのは意味作用であるということである。様々な決定関係 ( 経済的、歴史的、心理的 ) と並んで、いまや、事実の新たな性質、つまり意味、を予測することが必要なのである。
 世界は記号に満ちているが、それらの記号が、すべてアルファベット文字や道路交通標識や軍隊の制服のように、素晴らしく単純明快であるわけではない。それらの記号は、比べ物にならないほどよじれている。我々は、大抵の場合、それらの記号を « 自然な » 情報として受け取る。たとえば、コンゴの反乱軍の手にはチェコ製の機関銃が握られていた。これは異論の余地のない情報である。だがしかし、それと同時に、政府軍のもとで使われているアメリカ製の武器の数を指摘しないでいるとしたら、この情報は、第二次の記号となり、ある政治的選択を公示することになる。
 世界の記号を解読する、ということは、常に、対象のある種の無邪気さと戦う、ということである。我々は皆フランス語を極めて « 自然に » 理解するので、フランス語が、実に複雑な、実に « 自然 » でない、記号と規則の体系であるなどとは、決して思ってもみない。同様にして、メッセージの内容ではなく作られ方に焦点を合わせるためには、観察力を絶えず研ぎ澄まさなければならない。要するに、記号学者は、経済学者と同じように、 « 意味の調理場 » に入っていかなければならないのだ。
 これは遠大な計画である。それはなぜか? 意味は決して個々別々に分析し得るものではないからである。たとえば、ジーンズが若者のある種のダンディズムの記号であること、デラックスな雑誌が写真に撮ったポトフは、かなり芝居じみた田舎らしさの記号であること、などを明らかにし、さらに、こうした等価関係の事例を増やしていって、記号のリストを辞書のページのように列挙したとしても、まったく何も発見したことにならないだろう。記号は差異によって構成されているからである。
 記号学の企てが始まったばかりの頃には、その主要な課題は、ソシュールの言葉にもあるように、社会生活のなかにおける記号の生態を研究することであり、したがって、種々の対象 ( 衣服、食物、映像、儀式、しきたり、音楽、など ) の意味論的体系を再構成することである、と考えられていた。確かに、それは、行われなければならないことである。しかし、それだけでも既に遠大なこの企てを推し進めるうちに、記号学は、新たな課題に出会う。たとえば、ある何らかのメッセージに、 « 共示的意味 » と呼ばれる第二次の、漠然とした、一般にイデオロギー的なある意味を滑り込ませる、あの謎に包まれた操作を研究することである。ある新聞に、次にような見出しが出ているとしよう。« ポンペイには熱狂的な雰囲気がみなぎっているが、贅沢や自己陶酔も見られないわけではない » 。これを読むと、確かに私は「聖体大会」の雰囲気について字義通りの情報を受け取るが、しかしまた、この文が、否定表現によって微妙にバランスを取ったある種の紋切型 ( stéréotype ) でもあることにも気づき、この文によって、常に均衡を保とうとする一種の世界観に送り返される。こうした現象は常に見られるものであって、今後はこれをあらゆる言語学的手段によって大々的に研究しかなければならない。
 記号学の課題が絶えず増大しているのは、事実、世界における意味作用の重要性と広がりがますますよく認識されるようになってきているからである。以前は « 事実 » が実証科学の思考の単位となっていたが、いわばそれと同じように、現代の世界においては、意味作用が思考の様式となっているのだ。

Le Nouvel Observateur,10 décembre 1964.
 
7. 広告のメッセージ ( pp. 69-77 )

 広告は、すべて一つのメッセージである。事実そこには、発信源、つまり、売り出され ( ほめちぎられ ) た製品の発売元と、受信者、つまり一般大衆と、伝達手段、つまりまさしく広告媒体と呼ばれるもの、が含まれている。そして今日、メッセージの科学が現代的関心を呼んでいる以上、広告のメッセージに対して、 ( ごく最近 ) 言語学が我々にもたらした分析法を適用することは試みられてよい。そのためには、研究しようとする対象に対して内在的な立場をとること、つまり、メッセージの発信や受信に関する考察はすべて意図的に斥け、メッセージそのもののレヴェルに身を置くことが必要である。意味論的には、ということはつまり、コミュニケーションの観点から見れば、広告のテクストは、どのように構成されているのか? ( この問題は、広告の映像に対しても成り立つが、しかしそれを解決するのは、テクストの場合よりもはるかに困難である ) 。
 周知のように、あらゆるメッセージは、表現の面つまり記号表現と、内容の面つまり記号内容とが結びついたものである。ところで、ある一つの広告文を調べてみれば直ちにわかることだが ( それよりももっと長いテクストについても、分析は同じように行われよう ) 、そうした文には事実二つのメッセージが含まれていて、その絡み合いそのものが広告の言語活動の特殊性を 形作っている。まさにこのことを、このあと二つのキャッチフレーズ、「アストラで黄金の料理を」と、「ジェルヴェのアイスクリームはおいしくてとろけてしまう」について確認しようというわけであるが、ここでこの二つの事例を取り上げるのは、それが簡単なものだからである。
 第一のメッセージ ( これは分析のための恣意的な順序に過ぎないが ) は、まさしく広告の意図を捨象し、 ( もしそれが可能なら ) 字義通りの意味に解した文によって構成されている。この第一のメッセージを分離するためには、カナダインディアンのヒューロン族とか、火星人とかいった、要するに別世界からやってきて、突然我々の世界に上陸したある人物を想像してみればよい。彼は、一方においては、フランス語を完全に知っている ( フランス語の修辞 ( rhétorique ) を知っているとまでは言わないにしても、少なくとも語彙と統辞法は知っている ) が、他方、商業や料理や食い道楽や広告のことはまったく知らないものとする。そうした知識と無知を魔法のように兼ね備えた、このヒューロン族、この火星人は、完全に明確なメッセージ ( しかし、物事を知っている我々の目から見れば、まったく奇妙なメッセージ ) を受け取るだろう。アストラの場合、彼はそれが料理に取りかかれという文字通りの命令であり、かくして出来上がった料理は、黄金と呼ばれる金属に似た物質を含む結果になるということを、それが確実に保証していると考えるだろう。そしてジェルヴェの場合には、ある種のアイスクリームの摂取が、おいしさの効果によって間違いなく全身の溶解を引き起こすということを学ぶだろう。もちろん、わが火星人の知的作用は、フランス語の隠喩を少しも考慮に入れていないが、しかしそうした特殊な無理解は、彼が完璧に構成されたメッセージを受け取ることをいささかも妨げるものではない。というのも、そのメッセージには、表現の面 ( これは語句の音声的、書記的実質であり、受け取られた文の統辞関係である ) と、内容の面 ( これはその同じ語句、同じ関係の字義通りの意味である ) とが含まれているからである。要するに、ここには、この第一のレヴェルには、たしかに十分なある記号表現の全体があり、その全体がこれもまた十分なある記号内容の全体に関係しているのである。この第一のメッセージは、あらゆる言語活動が « 翻訳する » ものとされている現実との関連において、外示 ( dénotation ) のメッセージと呼ばれる。
 第二のメッセージは、第一のメッセージの分析的性格を少しももっていない。それは総合的なメッセージであって、その総合性は記号内容の特異な性格からきている。その記号内容は、あらゆる広告のメッセージを通じて、唯一であり、常に同一である。一言で言えば、それは、広告された製品の素晴らしさである。というのも、アストラやジェルヴェについて字義的に何を言うにしても、最終的にはただ一つのこと、つまり、アストラはマーガリンのうちで最高であり、ジェルヴェはアイスクリームのうちで最高である、ということしか言わないのは確かだからである。この唯一の記号内容が、いわばメッセージの内容であって、コミュニケーションの狙いを完全に言い尽くしている。この第二の記号内容が理解されれば、広告の目的は達成されたことになる。この第二のメッセージの記号表現 ( その記号内容は製品の素晴らしさである ) はと言えば、それは何か? それはまず、修辞に基づく種々の文体的特徴 ( たとえば文体の文彩、隠喩、文の区切り方、語句の結びつき、など ) ということになるが、しかしこれらの特徴は、先ほどメッセージの全体から捨象した字義通りの文に組み込まれている ( し、またときによると、たとえば脚韻を踏んだリズミカルな広告の場合のように、文全体に浸透している) ので、第二のメッセージの記号表現は、実際には、第一のメッセージ全体によって形作られているということになる。だから、第二のメッセージが、第一のメッセージを共示すると言うのである ( 第一のメッセージが単なる外示に属することは既に見た ) 。それゆえ、個々に見られるのは、メッセージの真の構築物である ( メッセージの単なる総和や連続ではない ) 。それ自体、記号表現と記号内容の結合によって構成された第一のメッセージが、一種のずれる運動によって、第二のメッセージの単なる記号表現となるのだ。というのも、第二のメッセージのただ一つの要素 ( その記号表現 ) だけが、第一のメッセージ全体に対して外延的なものとなるからである。
 この « ずれ » ないし « 共示 ( connotation ) » の現象は、極めて重要であり、広告の事実そのものをはるかに超えている。実際、それは、マスコミュニケーション ( 我々の文明におけるその発達は周知の通りである ) と密接に関係していると思われる。新聞を読んだり、映画を見たり、テレヴィやラジオを視たり聴いたり、買い求めようとする製品の包装をさっと眺めたりするとき、我々はただ共示されたメッセージしか受け取らないし、理解しない、ということはほぼ確かなことなのである。共示が人類学的な現象である ( つまり、様々な形をとるが、あらゆる歴史、あらゆる社会に共通の現象である ) かどうかはまだ決定できないが、我々二十世紀の人間は、共示の文明のうちにあると言うことができる。そしてこのことは、この現象の倫理的影響を検討するように我々を促す。広告はおそらく ( それが « 率直 » である限りにおいては ) 、特別な共示である。それゆえ、どんな共示についても、広告に倣って判断するというわけにはいかない。しかし、少なくとも広告のメッセージは、その構成の明瞭さそのものによって、問題をはっきりさせることを可能にし、ここで粗描してきたようなメッセージの « 技術的 » な分析を、どのようにして一般的考察につないでいくことができるのか、それを見ることを可能にしてくれる。
 さて、外示 = 共示された二重のメッセージを受け取るとき ( これは広告を « 消費する » 何百万という人間の状況そのものであるが ) 、一体何が起こっているのか? 第二の ( 共示の ) メッセージが、第一の ( 外示の ) メッセージの下に « 隠されて » いる、などと考えるべきではない。それとはまさにその反対に、我々が ( ヒューロン族でも火星人でもない我々が ) 直ちに理解するのは、メッセージの広告的な性格であり、その第二の記号内容 ( つまり、アストラは、ジェルヴェは、素晴らしい製品であるということ ) である。この第二のメッセージは隠密なものではない  ( これとは逆に、広告以外の共示体系においては、共示は、第一のメッセージのなかに密輸品のように滑り込ませてあり、かくして無邪気な様子を与えられている ) 。広告の場合、説明しなければならないのは、反対に外示のメッセージの役割である。つまり、なぜ二重のメッセージなど用いずに、単に、アストラを、ジェルヴェを買ってください、と言わないのか? これに対しては、おそらく、外示は議論を展開し、要するに説得するのに役立つ、と答えることもできるだろう ( そしておそらく、これが広告業者の意見である) 。しかし、第一のメッセージは第二のメッセージをよりいっそう巧妙に自然化するのに役立つ、と考える方がより確かである ( それにまた、意味論上の可能性にもより合致している ) 。第一のメッセージは、第二のメッセージの打算的な目的性、その主張の根拠のなさ、その威嚇的説得のぎこちなさを取り除く。平凡な勧誘 ( 買ってください ) の代わりに、アストラやジェルヴェを買うのが自然であるような世界を見せる。かくして商業的な動機づけが、はるかに豊かな表象によって、覆い隠されるのではなく、裏打ちされるのである。というのも、その表象は読み手を、人類の大きな諸テーマ、つまりいつの時代にも快楽を人間存在の完全溶解になぞらえ、ある対象の素晴らしさを黄金の純粋さになぞらえてきた人類の諸テーマそのものに参加させるからである。広告の共示的な言語活動は、その二重のメッセージによって、買い手の人間に夢を取り戻させる。夢は、なるほど、ある種の疎外 ( 競争社会がもたらす疎外 ) であるかもしれぬが、しかしまた夢は、ある種の真実 ( 詩の真実 ) でもあるのだ。
 実際、外示されたメッセージは ( また、広告の記号内容の記号表現でもあるが ) 、ここにおいて、いわば広告の人間的責任を負うものとなる。外示されたメッセージが « 良い » とき、広告は人を豊かにし、 « 悪い » ときは、堕落させる。しかし、広告のメッセージの場合、 « 良い » 、 « 悪い » というのは、どういうことか? キャッチフレーズの効果を持ち出しても、これに答えたことにはならない。というのも、その効果をあげる手段は、一定していないからである。たとえば、キャッチフレーズは、説得せずに « 誘惑する » こともできるし、しかもそうした誘惑だけによって買わせることもできる。メッセージの言語的レヴェルだけに限るなら、 « 良い » 広告のメッセージというのは、最も豊かな修辞を自らのうちに凝縮し、人類の夢を表す大きなテーマを正確に ( しばしばただの一語で ) 捉え、かくして詩そのものを定義するあのイマージュの一斉解放 ( またはイマージュによる一斉解放 ) を行うメッセージである、と言えよう。言い換えれば、広告の言語活動の価値基準は、詩の価値基準そのものである。修辞の文彩、隠喩、言葉の遊びなど、すべて二重の記号であるこれら父祖伝来の記号は、言語活動を潜在的な記号内容に向かって押し広げ、かくしてその記号を受取る人間に全体性の経験がもつ力そのものを与える。一言で言えば、広告文は、二重性を含めば含むほど、いや言葉の矛盾を避けて言うなら、それが多重であればあるほど、ますます共示的なメッセージの機能を発揮する。アイスクリームが « おいしさでとろけ » させると言うとき、そこでは、とろける物質の ( その素晴らしさは、とろけるリズムに起因する ) 字義通りの表象と、快楽によって自分が無になってしまうという人類学的な大きなテーマとが、経済的な言表のもとで結びついている。黄金の料理と言うとき、そこに凝縮されているのは、計り知れない価値の観念と、かりかりした物質の観念である。広告の記号表現の素晴らしさは、このように読み手をできるだけ多くの « 世界 » に関係させる能力に基づいているのであり、広告の記号表現にはこの能力を与えることができなければならない。その « 世界 » とは、つまり、非常に古くから伝わっている種々のイマージュの経験のことであり、何世代もの人々によって詩的に名付けられてきた、身体の漠とした深い感覚のことであり、人間と自然の関係についての知恵のことであり、間違いなく人間だけの能力である言語活動を通して事物の理解に到達する人類の忍耐強い営みのことなのである。
 こうして、広告のメッセージの意味論的分析によって、我々は理解することができるのだが、ある言語活動を « 正当化する » のは、決して、 « 藝術 » や « 真実 » への服従ではなく、反対にその二重性である。あるいはもっと正確には、その ( 技術的な ) 二重性は、決して決して言語活動の率直さと相容れないものではない。というのも、その率直さは、断言の内容に由来するものではなく、メッセージに使用された意味論的体系の公然たる性格に由来しているからである。広告の場合、第二の記号内容 ( 製品 ) は、常に、率直な、ということはつまり自己の二重性を隠さない、ある体系によってあからさまに示されている。というのも、その明白な体系は一重の体系ではないからである。実際、二つのメッセージを連接することによって、広告の言語活動は ( それが « 成功した » ときは  ) 、人々が非常に古くから実践している、 « 物語 » という、世界の語られた表象に我々の関心を向ける。あらゆる広告は、製品のことを告げる ( それが広告の共示作用 ( connotation ) である ) が、しかしまた他のことも物語る ( それが広告の外示作用 ( dénotation ) である ) 。だからこそ、広告は、 ( R. リュイエが言うところの ) あの主要な精神的栄養食品、つまり、我々にとっての文学、演劇、映画、スポーツ、「ジャーナリズム」、「モード」などと同じものである、と見なさざるを得ないのだ。広告の言語活動を通して製品に接することによって、人間は、製品に意味を与え、かくして製品の単なる使用を精神の経験に変えるのである。

Les Cahiers de la publicité,
n° 7, juillet-septembre 1963.

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