尾崎放哉&鐘⓶

釣鐘重たし

ねむの花の昼すぎの釣鐘重たし 放哉
(ねむのはなのひるすぎの つりがねおもたし)

長閑だなあ‥そんな声が放哉から漏れてきそうに想えた。
ねむの花は「ねむの木の花」で、上皇后の詩「ねむの木の子守歌」や去年亡くなった宮城まり子の「ねむのき学園」で知られるが、共に悦びたいという想いに由来するようだ。因みに放哉が亡くなった翌年が宮城まり子の出生。

今日の朝ドラおちょやん姉弟も母親を偲んだようだが、その想い出を作れなければ思いだしようもない。ねむの花の由来は知れば己の境遇に被せてアレコレ想像を巡らしたのか‥。母親の甘い想い出と聴けば砂糖の甘さと引き比べるような、ねむの花に朽ちたお腹で向合えば瞼(まぶた)は重たくもなる。

そんなことが私のなかで想われて切ない気持ちにもなっている私。この切なさの種子からどんな枝葉や花や果を着けるべき?こう導かれてきて私に出来ることは「失われた宝を贈ってあげることだろうか?」と自問自答することになる。私に出来るのは‥無上の宝所への路を先行することしか出来ない。

いやいや、昼寝は出来るし・食事の悩みはなく・寝るところも確保できている者に、それが放哉でなくても私の言がそうそう通じるものでないのはヨクヨク承知しているのです。私が仮にも放哉よりも恵まれているとするなら・それは母親の本当の甘い味だけど、これだけは金銭に換えられないよ。

そんなこと・こんなことを須磨寺時代を過ごしている尾崎放哉に言ったところで直ちに通じるものでないのは分っているのです。彼のアンテナに私の姿は恵まれていない者であるとしか捉えられてていないだろうからね‥。名刹須磨寺に暮らしていた時代の放哉は天に住んでいたのでなかったろうか‥。

あなたは如何お思いになりますでしょうか?

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?