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「ツル」から「コウノトリ」へ。

コウノトリは、ロシア、中国などに生息する大型の鳥。日本でも1971年まで自然状態で生息しており、ドジョウやフナ、カエルなど田んぼに生息する生物を餌とすることの多いコウノトリは、里山と密接に関係があった。

実はコウノトリは、害鳥として扱わせていた。田植えしたばかり田に入り、稲を踏み倒してしまっていた。そのため、農村の人は、コウノトリを見たら、追い払うこともしばしばあった。


以下は、菊地(2003)を参考・引用する。


コウノトリの保護史の要約


野生下での状況

元々は日本各地にいた鳥である。明治期になって、日本各地で大型鳥類の密猟が横行した。1908年に狩猟法の保護鳥となったが、既にその頃には但馬地方だけにしか生息しなくなった。

それからは保護政策などの影響で、羽数は増加した。1930年には100羽近く生息していたと考えらる。しかし、1940年代から、農薬の使用や耕地整理により羽数が減少。1959年以降は自然繁殖は見られなくなり、1971年に野生最後の個体が死亡し、日本のコウノトリは野生化では絶滅した。


導入・人口飼育繁殖

1985年にハバロフスクから贈られた6羽の幼鳥を創設ペアにして、1989年、ヒナが誕生した。飼育下繁殖は順調に進み、2000年には豊岡市立コウノトリ文化館が開館。2003年時には、100羽のコウノトリが飼育されている。



「ツル」から「コウノトリ」へ。


今でこそ、コウノトリは守るべきもの、豊かな自然の象徴として扱われているが、それまでは農村では害鳥のように扱われていた。

この論文(菊地 2003)では、インタビューを通して、農村の人々のコウノトリに対する意識の変化を探っている。論文の中にはこうある。

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Aさんは以下のように語った。

今でこそコウノトリ、コウノトリ言いますけどなぁあ、その時分は・・・コウノトリがおるのも当たり前ですし…。気持ちがコウノトリにどうこう、そんな関心は全然薄かったですなぁあ。当たり前のことですしなぁあ。

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人は、当たり前のものは認識しない。上記の発言から分かるように、コウノトリは特別な存在ではなく、日常のごく一部としてのみ認識されていたのだろう。


またその呼び方も異なっていた。コウノトリではなくツルやコウヅルなどと呼ばれていたのだ。保護活動が活発になり、今まで見向きもされなかった「ツル」が、テレビや新聞などで「コウノトリ」として盛んに取り上げられるようになった。それを農村の人たちは、どのような気持ちで見ていたのだろうか。

以下、引用。

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多くの語り手が、決まり文句のように語ることがある。Bさんは次のように語った。

コウノトリいうことは言わなんだですがな。ツル言って。なんでコウノトリ、なんで。わたしらほんとにコウノトリっちゃなもんはこの地区におれへん、ツルはおったけど、不思議だったな、わしらは。そりゃもう馴染めなんだですな、コウノトリという言葉に。

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農村にとって、日常の中の存在だった「ツル」はいつのまにか社会的に価値のある存在、「コウノトリ」に変わったのである。

菊地(2003)では、それまで多元的な認識をされてたコウノトリは、保護政策によって、一元的な意味しかもたない「コウノトリ」になったと指摘する。つまり、農村の人にとって、コウノトリは、その場所や季節、営み(働きかけ)によってその「存在」が変化するものだった。例えば、田植えの時、コウノトリは稲を踏み倒す害鳥であり、追い払いの対象だった。でも稲が育った後は、村人はコウノトリを田んぼで見ても、追い払うことはなかったし、時にはイタチ用の罠に誤ってかかってしまったコウノトリを逃がしたりもした。

あるいは、川やため池付近で餌をとるコウノトリには、追い払われることもなかった。そこでは、例えば子どもが、どこまでコウノトリに近づけるのか競ったり、村人も「きれいだな」と感じたり、そんな瞬間が沢山あった。

この違いを、「働きかけ」という言葉で表している。つまり、働きかけの「強い」田植え時期、あるいは耕作地におけるコウノトリと、働きかけの「弱い」冬の田、あるいは耕作地以外におけるコウノトリは、異なる見方をされていたのだ。


また、コウノトリの営巣する山を「鶴山」として、そこに茶屋を出して観光地になっているところもあった。日常的にコウノトリを見ている村人たりも、そこに遊びにいっては、非日常の体験として、「端鳥」としてのコウノトリを楽しんでいた。

著者は、日常ー非日常の軸、また働きかけの濃ー淡の軸によって、人々のコウノトリへの感じ方、は違っていたということを示唆している。つまり、人々の生活が、コウノトリに対する多元的な認識をもたらしていたのだ。

しかし、生活の中で、働きかけの中で、認識されていたコウノトリは、その働きかけが薄くなっていくにつれ、認識されなくなっていく。例えば、それまでは手作業で行われていた田植えが機械化され、農薬が開発され、圃場整備が行われた。それらは、農作業を効率化はしたが、その分今までの働きかけとは異なる「生活」を生み出した。そんな中、段々とコウノトリ自体も姿を消していくことになる。


コウノトリへの認識ーそれが空白になってきたところに、保護政策によって新しい概念が入ってきたのだ。

再導入されたコウノトリは、たった一つだけの意味、「価値あるコウノトリ」しか持たなくなった。



以上のことを踏まえて、次回はコウノトリの保護がもたらしたものについて、考察してみようと思う。

(つづく)



引用・参考文献

兵庫県但馬地方のおける人とコウノトリの関係論ーコウノトリをめぐる「ツル」と「コウノトリ」という語りとかかわりー

菊地 直樹著  (2003)

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