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【プロ野球 名場面第23回】大洋ホエールズの健闘(1990年)

この年のセ・リーグのペナントレースは、終わってみれば巨人が2位広島に22ゲーム差をつける圧勝だったのだが、前半戦を沸かせたのは、須藤豊新監督率いる大洋ホエールズだった。前年、古葉竹識という名将を要しながら最下位に転落した結果を踏まえ、「古葉内閣」を解体し、首脳陣を一新したのだった。

スタートダッシュがうまく行くと5月途中までは、巨人に食らいついていた。最後は息切れしたが、「小兵なり」に見事な戦いぶりであった。

高卒3年目の野村弘樹が11勝を挙げ、エース級の成績を収めると、アキレス腱断裂後、不本意な投球が続いていた遠藤一彦は、抑え投手として復活を果たし、カムバック賞を獲得した。野手陣は来日3年目のパチョレックが初の首位打者に輝いた。来日1年目の1988年、翌年の1989年共に打率2位であり、3度目の正直を果たしたのだった。
パチョレックは翌年も打率3割1分を残し、1988年~1991年全て打率3割を残したものの、長打力がないとして契約は打ち切られた。1992年は、オマリーの誘いもあって阪神に移籍し、主砲として阪神2位の躍進に大きく貢献している。
外国人助っ人と言えば、通常はホームランを見込まれて獲得されるケースが多く、日本の「スモールベースボール」にパチョレックのような選手が十分通用するという、いい例になったのではないかと考えている。

このパチョレックと熾烈な首位打者争いを展開したのが、高木豊。巨人の原辰徳と同期で1981年に中央大からプロ入り。1990年は32歳になる年で、ベテランの域に達していたが、絶好調であり、この年二塁手として初のベストナインも獲得している。
※この時代の2塁手はセ・パ共に充実していた。パ・リーグには辻発彦(西武)、大石第二朗(近鉄)、セ・リーグには高木の他、篠塚利夫(巨人)、正田耕三(広島)と名手揃いであり、ベストナインの獲得は価値が高い。高木は1985年に遊撃手としてベストナインを一度獲得している。

一方で、「一言居士」で球団とはよく衝突していたようだ。当時、1億円プレイヤーがまだ珍しい時代であったが、1992年のオフには年俸9500万円の球団からの提示に、1億円に届かなかったことを不服として、年俸調停を申請。然し、惜しくも1億円には到達しなかった。この球団と揉めた件で、翌年以降自分の立場を苦しくしてしまった。それでもプロ生活14年間で8度の打率3割をマークしており、史上に残る素晴らしい選手と言えよう。
その「一言居士ぶり」を活かして今では球界初のYoutuberとして、新しい野球の見方を提示してくれており、今後もその言動には注目していきたいところだ。

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