#24 思い出いっぱい。人生の最期を見せてもらうってことは…
#23 私こんな人生で一生終わるなんていいのかな?
に引き続き私の生い立ちnote
私がポジティブと言われる由来
普通だけど変わっている人生をちょいちょい送っている私なのですが、実は、6年間のうちに身内が5人亡くなるという過去があります。
といっても、誤解のないようにお伝えしますが…
変な呪いとか、不慮の事故の連続とかではないのでご安心を。(笑)
<10年ほど前の話し>
2007年秋、最初に母方の祖母が亡くなり。
翌年冬に、父方の祖父。
祖父の死後2年に満たないくらいで、実父が。
娘達が大きくなってこれから夫婦の時間というところでした。
次は、父方の祖母。
そして最後は、母方の祖父。
最初の母方の祖母はC型肝炎からの肝臓癌でした。
小さい頃とても可愛がってもらったのと、私にとって身近な人の初めての死でした。
それまでにも、葬儀には何度も参列していましたが、子供だったのもあり、人の死というものを実感してはいませんでした。
北海道から遠く離れた地に住む祖母。
大人になっても私は寂しくないようにと、定期的に手紙を送ったりしていましが、働くようになってからは、なかなか会いにはいけませんでした。
それでも、何度かお見舞いに行けたのはいい想い出です。
三人目人の闘病生活…
母方の祖母が闘病生活を送る中、次は父方の祖父が脳梗塞で倒れました。
90歳半ばでも学びを忘れない祖父。
早朝に突然、内線電話がなりました。
それは、同居していた祖父からでした。
『救急車を呼んでほしい』と。
慌てて母と私が階段を駆け上り、不安を抱きながら駆け付けた先で目に入ってきたのは、体制を保つのがやっとで、自分の力では床から立ち上がれない祖父。
今でもその時のことを鮮明に覚えています。
ろれつが回らず、体を自分の力で動かすことのできない祖父。
社会人になってまだ数年目だった私。
動揺する母をなだめっつ救急車に同乗しました。
その時、私の父はというと、すでに父自身の闘病生活中でした。
手術のために家から離れた病院で入院中でした。
3度目の手術も無事終えていて、退院まで後少しというところでした。
幸いにも祖父は一命はとりとめましたが、日常生活には戻ることはできませんでした。
話は少しそれますが、救急隊の方はさすがプロですね。
症状から判断し、本来であれば当番病院に搬送するだけでしたが、地元で名の知れた脳神経外科へ搬送してくれました。
日常生活に戻ることはできませんでしたが、おかげさまで手厚い看護を受けることができました。
父方の祖母はというと、祖父が倒れる何年も前から認知症で介護が必要な状態でしたので、父の看病、祖父の世話、もちろん、祖母の世話も母の役目でした。
人に上手に頼ることができない母。
自分の気持も上手に発散ができない人でした。
私も仕事で手一杯だったのもあり、自分なりには手伝ってはいましたが、大変だから手伝いたいとかではなく、怒られるのが嫌だったから、母の機嫌が悪くなるのが嫌だった。怖かったから。。。。
優しさのかけらも感じられない自分にうんざりしつつ恐怖で委縮するだけの子供の頃のままの私の心。辛かった。
怒られて泣いて。いい大人が怒られて怖くて悲しくて泣く…。
心に住む小さな私が悲鳴をあげる…。
助けてほしかった。
介護
今だから改めて思うことがあります。
それは、家族に身内の介護は無理だということです。
もちろん、出来る人も世の中にはたくさんいると思いますが…
私にも、皆さんにも、人には感情があります。
変化への対応の他に、今までできていたことができなくなった相手を受け入れること。そして、それをサポートすること。
毎日湧き上がる心の葛藤。
思うように行かない気持ちを処理すること。
その上での繰り返される介護。対応。
様々な
『なんで!?!!』
という気持ちは湧き上がります。
それは、誰でも思うこと。
疲れているのに…。なんで今のタイミングで?
私ばっかり…。さっきも〇〇したでしょ…。
わかっているよ、少し待ってて…。 など
なので、金銭的な問題は別として、心情的に
「家族なんだからお世話をしなければいけない」
なんて自分を追い込んでまで思わなくていいということを強くお伝えしたいと思います。
自分の心の平和を守るのが先。
余裕がなくなると人の心は疲弊する。そしてそれはいつしか闇にすら変わる。それが私たち人間。
さて、話を戻しますね♪
お見舞いって大変
祖父が脳梗塞で倒れてから毎日のお見舞い。
父はC型肝炎からの癌で闘病生活。祖母の世話…。
流石に我が家が疲弊してしまうのもあり、ついに祖母は施設へ行くことになりました。
もっと早くそうすればよかったんですけどね。
今だから言えることなんでしょうけれどもね。
祖父が倒れてから 入院生活はそんなに長くなかったと思いますが、骨折や生活習慣病などの病気などの入院と違い脳梗塞、癌など回復の見込みが難しい方の闘病生活は支える側の家族にとっても大きな負担となりました。
どれくらい期間が闘病生活だったかは今となっては覚えていませんが、ものすごく長い期間だったように感じられていました。
お見舞いに行くたびに元気になっていく人の姿を見るのは見舞う側の足取りも軽いですが、日に日になんて声をかけていいかと思う方も多くないのが現状ですね。
なんて薄情なことを言う人だと思われるかも知れませんが、年齢的にはいい大人でしたが、中身は子供のまんまの私は、怖くて自分の意見をはっきりということもできず、途中から嫌々お見舞いに行っていました。
自分の生活を犠牲にしてまでお見舞いに行く理由がわからなかったんです。
子供っぽいと言われるかも知れませんが、お見舞いなどって強制的に行くものではなく、自発的に行くものだと思うんですよ。
ましてや、日々のお見舞いが家族にとって圧迫するものであればなおのこと。
ストレスって自分だけのものではない
一心不乱にしてはいけないレベルでの自己犠牲の上での家族の闘病生活を支える母。
ストレスは伝染します。
やり場のない気持ちは一番近くにいる家族。
子供などに向いていきます。
そして、一番それらを感じ取りやすかった私はサポートする側にも周りきれず、言われるがままなすがまま。
でも、母は自己犠牲での奉仕をやめることはできなかったんだと何年も経った今だから分かること。
一番の悲鳴を上げていたのは母の心だと…。
改めて思いました。
私の性格が歪みを増したのは、このあたりも関係しているなって思います。
自発的に助けてあげたいとかというよりも、怒られないための行動ばかり。
自然と、優しさ溢れそう思える人は尊敬していますし、私の手に入らないもの。
壊れた傘
そんなこんなで入院生活を送っていた祖父は誤嚥性肺炎で亡くなりました。
いつも身近にいて難しい話ばかりするおじいちゃんという印象でしかなかったんですが、なくなった後でとても優秀な人だったと知りました。
今から15年くらい前で90歳超えでPCを使い、ローマ字入力を使い、インターネットを活用していた人でした。
人前で講話をすることもあり、日々勉強熱心でした。
その優秀さが私に遺伝しなかったのが残念ですが。(笑)
そんな優秀な祖父だったので 父は祖父のことをとても尊敬し、稼業を営む中でも頼りにしている存在でした。
祖父が亡くなった後に父から、ある話を聞きました。
誤解のないように言いますが、片親が良くないとか、毒親を見捨ててはいけないなど、そういう話ではありません。
自分が窮地に陥った時、孤独になった時、自分と繋がっている人は良くも悪くも必ずいるから寂しくないんだよ。と、そういう話です。
もう、立派に大人としての人生を歩み、父親であり、他人から見たらいい歳のおじさんです。
ここからは私の推測ですが 生きている時ですら、存在の大きさを感じていた実父(祖父)がいなくなり
心の支えを失ってから次は自分が先頭に立って家族をこれまで以上に守っていきたい。
守らなければいけないと優しく弱い父ながら感じたのでは…と思いました。
火葬場での笑い話
そうそう。
祖父の火葬の際ちょっとしたハプニングがありました。
まあ、ハプニングを引き起こしたのは私なのですが…
お供え物は生前大好きだったもの。
祖父は北海道人らしく塩鮭が大好きでした。
私が免許をとって間もない頃、孫とのコミュニケーションを取るためだったのか、近くの鮮魚店からチラシがはいると買いに行くのに車で乗せていってほしいと頼まれたことが懐かしいです。
そんな思い出があったので、私は何を思ったか…
『お供えされた塩鮭一匹まるごとを一緒に納棺したい!』
父にそう話したらすんなりOKがでたので、棺桶の足元にそっと入れました。
そして、そのまま火葬場へ行きました。
戦時中を生き延びただけあってか、祖父は年齢の割に骨が丈夫で火葬が終わるまで通常の人よりも時間がかかりました。
火葬場へ行ったことがある人ならご存知だと思いますが、後どれくらいで終わりますというアナウンスがあると思うのですが、祖父の場合焼き上がりまで『延長で〜す』というのを2度ほどききました。
ご存知の方も多いと思いますが、火葬はプロの方が焼きすぎないように様子を見つつ時間を計算します。
病歴や年齢等で骨の丈夫さが違うので、焼きすぎると拾える骨がすくなくなってしまうからです。
ふと、気づくと
待っている間ほんのり香ばしい匂いがしてきました。
はいっ!!
私が仕込んだ塩鮭が焼き上がる匂いでした。(笑)
おそらく通常の生鮭であればすぐ炭化したと思いますが、なにせ塩鮭。
程よく水が抜けて身がしまっていたのでしょう。
なかなか焼けませんでした。(笑)
話は変わって。
見落としていた現実 ~肝臓癌の最期~
人には、楽しいことも、辛いことも、慣れるという性質を持ち合わせていますが、毎日顔を突き合わせていると少しの変化を見落とし、父が以前よりも明らかに弱っていることに気づくのに鈍くなっていました。
それがなぜ起こるかというと、人の脳は判断力をできるだけ使わないで過ごせるように毎日見えているものは少々省いて観察するという性質があるからです。
なので、よく男性が彼女や奥さんが髪をきったのに気づかないで大変な目にあうというのはそのためですね。(笑)
私たち家族の日常生活でどんな慣れが起きていたかと言うと…
日に日に腹水が溜まり、お腹が膨らんできて、黄疸が出ていた父。
なので家族みんな 父がそう長くないことは薄々気づいていました。
ですが人は現実を見ない。
辛い現実であればあるほど現実から目を背けるという性質がありますね。
それがなぜ起こるかと言うと、ネガティブなものに反応ばかりしていては、私たちの人生が成り立たなくなるからです。
むしろネガティブや危険なものから、背けるようにできているからです。
そんな気づいてはいるけれども日常の忙しさに気を取られ父の余命があとわずかだというのに気づいたのは 街にクリスマスのイルミネーションで賑わい始めた頃でした。
余命宣告
そうそう。
病院から帰ってきた父からこんな話を聞いたことがありました。
がん治療を受けている患者さんでお坊さんがいたそうです。
その人は、担当医に『自分は色々な人の死に携わっており、信仰もあり、修行もしているので大丈夫だから、余命は教えてほしい』とお願いしたそうです。
医師がそのお坊さんに実際に教えたら、余命よりもはるかに早くに自殺してしまったという話を聞きました。
人がどれだけ心構えをしたつもりでも、実際自分の目の前に突きつけられたらそれを消化しきれないものなのでしょう。
父は自分で色々調べるのが好きな人だったので、自分の病気のことも本やインターネットなどで情報を集めていました。
なのでもしかしたら本当は余命について医師から聞いていて、私たち家族を不安にさせないために言わなかっただけなのかもしれませんが…
父の容態を心配し、そう先が長くないことを不安がる家族に父は
『残念だけど、一番下の妹の結婚する姿や孫を見ることは無理かもしれないけれど…後数年は大丈夫だよ!』と言っていました。
ですが、日に日に黄疸が進んでいく父を見ていた姉が心配して、本人には内緒で病院に病状を聞きに言ってくれました。
本来ならそういう受診はさせてもらえないのもしれませんが…
医師の口から姉が聞いた言葉は
『春までもたないと思います。』 とても残酷なものでした。
家族みんな物知りで優しい父に頼りっきりだったので、これから先迎える
避けられないであろう出来事に不安でいっぱいになりました。
お金って何だろう
ちょうど私はその頃、ボーナスが出る頃でした。
ボーナスといっても大金ではないんですけど、貯金をかき集めても。
この貰ったボーナスをすべて使っても…
お金があっても父の命は救うことができないんだと絶望しました。
父の癌が発覚してから家族で旅行に行こうと考えていましたが、祖父母が老いてからは家業があったので家を留守にして旅行に行ったりすることができていませんでした。
こんな現実がすぐ来るなんて思いもせずに、やりたいことの先延ばしをしていました。
お金がない
時間がない
周りの目…
こんなものいらないんですよね。
雀の涙ほどのボーナスを貯めていました。
それは、猫っ毛で生まれつき髪の毛が少ない私は、就職してから将来ハゲたらこまるとせっせと貯めていたのでした(笑)
やれることはまだある!
私は悲しみと、絶望で自暴自棄になっていたのもあって、旅行に行けなくても、地元の温泉宿になら家族みんなで泊まれるのでは?!と思い家族みんなを招待して一泊することにしました。
父は体力的にも大浴場に行けないかも知れないと思い客室露天風呂にしました。
入浴は叶わなくても、足湯だけでも景色を見ながら入れたらいいな。
そう考えました。
今となってはいい思い出です。
ハゲ資産にしなくてよかったです(笑)
現実は残酷だから…
そんな楽しい時間もあっという間。
北海道の冬の寒さも身に応えたのか、父の容態は悪化していきました。
肝臓は最後まで元気な病気です。
入院することになったのは亡くなるほんの2周間前。
最初の1週間くらいは、自宅にいる時と変わらず身の回りのことは自分でできていました。
仕事の引き継ぎをと病室にPCを持ち込んだりしていました。
今思うと仕事に対して甘い考えなんでしょうけれども…
当時の私は職場の人の協力を得て、有給休暇を使って父との最後の時間を過ごすことにしました。
病院の許可をもらい、個室に父、母、妹、私の家族4人で泊まり込みました。
人のストレスって恐ろしいものです。
やることもない病室でほとんど動かないのに朝昼晩と食事をとり、デザートまで食べる毎日。
姉は小さい子供がいるので、泊まり込みはできませんでしたが、父が食べたいと言ったカツ丼を差し入れたりしてくれました。
ほとんど食べれないんですけど、それでもとても嬉しそうにしていました。
また、お寿司が好きだったので病院にお寿司の出前を取ったりと案外たのしい付添・看病生活を送っていました。
普通に考えたら非常識なのかもしれませんけどね。
これも楽しい思い出です。
そんな楽しい付添ライフを送っていれたのもほんの束の間。
入院して1周間を過ぎたあたりからでそうか明らかに父の容態が悪化していきました。
会話もままならなくなり、食事も取ることができなくなっていく中。
医師からは今夜が山場かも知れないと言われた夜。
父の意地でしょうか?
好きだったゼリーを完食して家族を驚かせたり?(笑)
回復することなんてないのに、感覚が麻痺していた私達は大丈夫なのかもなんて淡い期待をいだいていました。
突きつけられる現実はテレビのアレと違う…
ですが、そんな喜びもすぐに消え去りました。
積極的な延命をしていなかったので、日に日にミイラみたいになっていく父を見て人はこうして死んでいくんだなと思いました。
人の死を間近で感じさせてもらうことなんてないからとても貴重な体験をさせてもらいました。
テレビと現実はこうまでも違うのかと知ったことがあります。
よく、テレビなんかでは医師が亡くなる時に「◯◯時ご臨終です」というシーンが印象的ですが、全く違いました。
もしかしたら、病院によって違うのかも知れませんが。
個室でずーっと毎日、毎日
父のそばにいて家族と話をするだけで時間が過ぎていった中。
気のせいかな?とも最初思っていましたが、ふと病室の入り口に目をやると看護師さんが頻繁に出入りし、血圧や脈などを計測している機械をチェックしにきていました。
個室でずーっとずーっと思考停止して過ごしていても異変に気づきやすい私らしいなと思います。
そのうち、更に気づくと、今まで閉まっていた病室のドアが開けっ放しになっていました。
あれ…前から開いてたかな?
出入りが多くてめんどうだから開いているのか、換気のためかな?なんて思っていました。
更に暫く経つと…
看護師さんが病室の隅でたっていました。
前日くらいからでしょうか…父は呼吸もかろうじてしているような感じでした。
生きているというよりも、消えそうなロウソクの火が揺らいでいるような時間が流れていました。
人の失うことの恐怖心は現実を歪め、これまでも思考停止させるものなのだと今こうして書きながら思います。
おそらく今の私が当時の私達を見たら、明らかに死が目の前に着ている父と一緒にいる感覚ではなかったことに気づき落胆するでしょう。
もう亡くなっているも同然の父でしたが、このまま生き続けるのでは…?とすら思っていましたから。
病室の片隅で立ち尽くす看護師さんが待っていたのは、
父の回復ではなく、医師の到着でした。
あっ……
その時初めて…
あっ。父は死ぬんだ…。死んだんだ…。
そう気づきました。
そう。死の時を告げるための間だったのです。
そこからは慌ただしい時間が流れていきました。
悲しみ浸る間もなく処置ななんかで
あっという間に病室からでなければいけないし、葬儀屋さんとの打ち合わせなど。
その日は…
まるで、家族の悲しみを表現するかのように
まれにみる大雪の中父の葬儀を迎えることになりました。
父が亡くなってからの葬儀は想像以上に大変な日々を過ごすことになりました。
家業のことはさっぱり…な母が悲しみに浸るまもなく次々に葬儀の段取り打ち合わせをこなさなければいけない日々。
ストレスは計り知れないものだったと思います。
母が更に壊れていく大きな出来事となりました。
散財??
そうそう。どうやら人は…いや。私は?
自暴自棄になると大金を使うようです。
父が亡くなる前は家族旅行に。
この度は生前父が『目と歯はお金をケチらず大事にしなさい』と言っていたのを思い出し。
忌引休暇の合間にメガネ屋でふと新しいメガネを購入しました。
普段はコンタクト生活なのに…
心の隙間を埋めたかったんでしょうね。
良質なレンズと気に入ったジルシチュアートのメガネフレームを選びました。
今こうして書き綴るのに愛用しています。
さらなる悲しみが降り注ぐ
父の死の悲しみが癒えないまま…
月日が流れ今度は父方の祖母がなくなりました。
祖母は先にお話したとおり、認知症で介護施設へ入所しておりました。
父が亡くなってから母は自分の実家に妻を亡くした後、一人で細々と暮らす祖父の病状を心配し時折帰郷していました。
たまたま母不在の時に起きたこの出来事。
朝方普段はならない家業の電話がなりました。
寝ぼけ眼の私は「朝早くからなんだろう、めんどくさいな…」と思いつつ電話をとりました。
その電話は祖母の施設の方からでした。
ぼーっとした頭で
「こんな時間に電話なんてなんだろう…?仕事行く用意をしなきゃないのにな〜」なんて呑気なことを考えていました。
施設の方も動揺していたのか?
慣れていないのか?
『◯◯さんの血圧が低くて…脈がよわっていて…来れますか?』
そんな内容だった。
眠たい頭をフル回転させようにも働かない私は
「年齢的にも血圧も脈も元気元気ってわけじゃないだろうし、そんなに慌てて電話をよこすものなのだろうか…?」
「ここ数日祖母の状態が芳しくないなどは聞いていなかったので、ふ〜ん」「施設からの定期連絡かな?それにしてもこんな朝早くに連絡よこさなくてもなー」
そんなことが頭をよぎりながら状況を把握しきれないまま、妹と相談して施設へ向かった。
祖母のぬくもり
到着した頃にはもうすでに祖母は亡くなっていました。
まだ温もりの残る祖母を目の前にしようやく意味がわかりました…。
施設側の配慮
父の時もそうだけれども、患者(入所者)の家族に向かって
『もうすぐ死にますよ?!』
なんて言えるはずがないことにようやく知りました。
冷静に考えればわかることだけど、状況は人の判断力を奪う。。。
嫌な話ではあるけれども、これだけ毎年身内がなくなると、祖母の葬儀は施設に行ってからが長かったのもあって淡々と進めることができた。
人が物事に慣れるのって恐ろしいですね。
喜びや悲しみの感情も慣れてしまえば淡々と過ぎていくだけです。
感情を失うその理由
目の前に起きる受け止めきれない悲しみや絶望や不安を目の前にして人は
自分の感情にも鈍くなっていく。
そう。家族全体のバランスが崩れ、特に私にとっての一番のキーマンの母が更に壊れていくことになるのです。
父方の祖母が亡くなって1年ちょっと過ぎた頃でしょうか。
今度は母方の祖父がなくなりました。
人の死という物は突然、そしてゆっくりと私達に近づいてくるものです。
「もう着ることがないよね?!」と家族と交わしたはずの喪服に5度目の袖を通しました。
亡き父の言うところの傘。母からしたら祖母が亡くなり片方だけになっていたけれども傘としての役割を果たしていた祖父。
両方なくなって骨になったのです。
母にとって。
父をのぞけ年齢的に不幸が重なってもおかしくはないのですが
ストレスランキング1位は人の死によるストレス
そのストレスは亡くなったから突然降ってくるのではなく、長い闘病生活の中で蓄積された不安だったり寂しさだったり、絶望だったりをぎゅっぎゅっと押し込んで日々を過ごし…
出来るだけ見ないように気づかないように日常をこなし。
めいっぱい膨らませた風船のごとく破裂してぼかーんとなってしまう。
人の心は。
壊れてしまった心を戻し、癒すのはものすごい年月と熱量が必要です。
なので、体の健康はもちろんのこと、心の健康はとても大切なこと。
誰かを助ける。応援する
人が誰かを助ける時それは、自分にある程度の余裕を残してその上で助けれるだけ分だけ助ける。
飛行機で緊急時の酸素マスク等もまずは自分がつけてから。
それから助けたい人に装着する。
自分の心と思考めいいっぱいは助けてはいけないのです。
心と身体が壊れ始めるから。
人に上手に甘えることができない母。
支えにしていた両親という傘を失い。
そんなに立派じゃなくていいのに。
どんどん無理をして、本当は助けて欲しいだろうに上手く伝わらず、消化不良。
心の悲鳴は言葉の悲鳴となって吐き出される。
愚痴。不満。抑圧。
助けてほしいと心が叫べば叫ぶほど叶わなくなっていった。
壊れゆく母を
私は姿は大人だけれども、中身は小さな小さなお地蔵さんだった頃の子供のままの私はただじっと耐えることしかできなかった。
悲劇ではなく学びだった6年間 ~糧~
ここまでお読みの方は、私のことを頭がおかしいのでは?と思った方もいるかもしれませんね。
6年間のうちに5人も身内が立て続けに亡くなるなんて、なんと不幸な悲劇的な人生なんだと思う人もいるかもしれません。
ですが、私は違いました。
当然寂しさや、埋められない気持ちはあります。
こうして長々と書き綴る中、何度も何度も胸が締め付けられ、えぐられる思いをしたことか(笑)
ですが、こういった辛い体験に意味を見出す事。
それが、それらを乗り越え、自分の人生の糧にしていく方法なのです。
生きて居れば必ず挫折や逆境に見舞われます。
転んで立ち上がろうとした矢先に上から土砂が降り注ぐこともあります。
悲しみの順番の意味…
これでよかった。
<母>
本来であれば、母は北海道から遠く離れた地に住む両親のお世話には行けなかったと思います。
ですが、義両親が健在で父もまだ闘病生活とはいえ元気だった。
<父>
親から子へ。
父から祖父へとたった数年ですが家業を引き継ぐことができた。
そして、何より子供が親より早く旅立つのは親不孝といわれますが、幸いにも祖母は認知症を患ってましたので、息子が亡くなったことを知りません。
戦後未熟児で生まれた父を大変な思いをして育てた祖母はもし認知症でなければ、自分の息子が先に亡くなるなんて現実を受け入れることはできなかったと思います。
そして、今私が幸せな日々を送れているのは父が亡くなっているから。
皮肉にもそんな巡り合わせです。
塩鮭といい、付き添い入院生活といい、薄毛ハゲ貯金が温泉旅行に変わったこといい。
たくさんの気づきと学びの6年間でした。
悲しいけど、楽しくもある。笑っちゃういい~想い出です!
起きてしまった事実は変えられないけれど、なかなか出来ない思い出の数々。
こうして更にネタの宝庫の人生を歩むことになるのです。
これこそが、私がポジティブだと言われる理由かもしれませんね。
1万文字をこえる伝えたいこと。
長文乱文を最後までお付き合いいただきありがとうございました。
あなたも、良い氣づきの人生を(*^^*)
諦めないで生きて欲しい。
ありがとうございます。
知的柔軟性を高めるための活動につかいます♪具体的にはヨガや読書に♪