「大人になったら《何に》なりたい?」と聞かれるのが嫌いだった

子供の頃、将来の夢を聞かれるのが嫌だった。聞くのは決まって大人だった。

「大人になったら《何に》なりたい?」という質問。

わたし子供やねんから急に仕事のことなんか言われてもよくわからんし、なんでたいして仲良くない人に言わなあかんの?なりたい職業なんて無いわ。子供やからって全員が全員未来に希望を持ってなあかんというその押し付けなんなん?そう聞く大人のあなたは子供の頃の夢叶えたんですか?…とは心の中だけで思って、適当に答えていた。大人が喜ぶことを全うする子供だったので。

何になりたいか、つまり〈職業・役割〉を聞かれることに違和感を感じていたのやと思う。なぜ夢は〈何がしたいか、どんな人になりたいか〉に限定されなければならないのか。


「大人になったら《どんな人に》なりたい」ならあった。

強くなりたい、自立した人になりたい。

小学校高学年の時にはこんなことを日記に綴ったのを覚えている。

『人』という字は支え合ってできていると、かの有名な言葉はあるけれど、それってお互いもたれかかってるだけやん。なら私はお互い自立している人と共に手を繋いで生きていきたいわ。言うなれば『H』みたいな形で。

(当時はそんな英単語知らんかったけど、今考えるとHumanのHやん。我ながら上手くできてる!)

成長した私は友人や配偶者から「自立している、しなやかで強い」性格と表現されている。なりたかった自分に近づいており、かつそれを評価してくれる周りがいて本当にありがたい。

「大人になったら《何に》なりたい」はその都度変わっていたし達成されてないけれど、《どんな人に》は性格の問題なので目指しやすかったのかもしれない。


大人になった私は、軽々しくトピックスとして子供に将来の夢を聞くのは控えようと心に決めている。その子にとって大事なプライベートな事を土足で踏み散らすようなダサい大人にはなりたくない。

でもぼんやりとでも《どんな》性格の人になりたいかを考えてみるのは楽しいかもね、ということは伝えていきたいと思う。

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