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アートと民主主義について

 みなさん、こんにちは。クジラ8です。

 今日は、ちょっとこれまで話さなかった話題について書こうかなと思います。

 タイトルの通り、「アートと民主主義」について話す予定ですが、正直いってあまり得意な分野ではありません。でも、挑戦したいなと思い立ち、記事にしてみました。お付き合いいただければなと思います。


「アート」といえば、どのようなものを思い浮かべるでしょうか。

 真っ先に思い浮かぶのは、「美術館」に飾っているような「絵」かもしれません。しかし、バスキアやバンクシーのような「グラフィティ」もまたアートだし、壺などの陶器だってアートだ。

 けれども、多くの人は「アート=美術館(絵画や彫刻)」を思い浮かべるのが常だろう。それもそのはず、アートとはほんとうにざっくりいえば、「僕たち(鑑賞者)の心を揺さぶるもの」だからだ。

 つまり、心が揺さぶるものがアートであり、揺さぶらないものはアートではないといえる。美術館に行けば、一つくらいは「すげー」とおもったり、「この絵くらいなら俺でもかけるんじゃね?」と思うかもしれない。

 感想を抱くもの。それがアートなのだ。

 この定義は本当にざっくりとしたものだから、専門家によってはかなり複雑な思いを抱かせるかもしれない。とはいえ、アートが「心を揺さぶるもの」でなければ、どのような作品でも「アート」になってしまうだろう。僕が適当に書いた絵と、ピカソが書いた絵を同列に語ることはできない。そこが、アートの良さであることは間違いないだろう。


 一方で、民主主義はアートと非常に似ている側面がある。民主主義の定義はこれまた難しいが、本当にざっくりいえば、市民が代表を決定し、「自由を制度化する」ことを指している。描くことや、書くことがあるのは憲法に基づいた「表現の自由」が認められているからである。

 ただ、路上で手あたり次第スプレー缶をまき散らすことが、「アート」とは認められていないように、自由には幾ばくかの制限がある。いわゆる、「他者に迷惑をかけない範囲での自由」というやつだ。(他者危害の原則ともいう)

 アートと民主主義は、いま非常によく似ている。

 アートは美術館に、民主主義は国会にあると考えられているからだ。しかし、思えばこれは変な話である。

 アートはそこら中に転がっているし、民主主義はSNSの中にだってある。端的にいえば、これまでの枠組みでは収まりきらないほど、二つの概念は大きくなっているのである。

 美術館にある絵だけが、神格化されたり、国会で決められることだけが、民主主義ではない。(ただし、表面上は国会できまったことは、民衆の総意となっている)


 この「枠に収まりきらない」ものとして、もう一つ面白い例がある。これは、「アーバン・スポーツ」と呼ばれる都市型の新しいスポーツである。

 パルクールやスケートボードなど、いわゆる若者の間で流行していたものが、オリンピックの競技になった。これは、明らかにアートや民主主義とは異なった進化を遂げたものである。

 要は、「枠に収まりきらなかった」ものが、「枠に収まった」ともいえる。スポーツが柔軟なのか、硬直的なのかは意見の分かれるところだが、民主主義も、この例をどうにかいかせないものかと思う。アートは、バスキアやバンクシーの絵が高価なものになっている(=需要)があるのに対して、民主主義はどうもいまだに「頑固おやじ」の特権になっている感が否めない。

 検察庁法改正案でSNSでは、芸能人が反対意見を表明するごとに、かなりの「ヘイト」が寄せられた。

 確かに、芸能人は一種の「操り人形」のようなものだ。無知と捉えられても仕方のないような人間もいるだろう。しかし、彼らも人間である。賛成や反対のどちらにしても、表明すること自体は自由であり、自分の意見を拡散するのがSNSの特徴である以上、それは彼らの自由な使い方の一環である。

 とはいえ、自由は抑制されなければいけない側面も持っている。裸で街中を歩いていたら、逮捕される。当然だ。法によって、街中を裸で歩いてはいけないと定められているからだ。


 SNSの整備が必要なのも間違いない。しかし、僕にとってはSNSとは一つの芸術のようなものとしても機能している。「心を揺さぶる」という意味での芸術である。過度な整備と、不快なものの縮減というのが、課題としてあることはやはり否めないだろう。


 おおざっぱな議論でしたが、このあたりで締めたい。

 ではでは、失礼します。

 

 


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