人に迷惑をかけない生き方が正しいとは限らない。
親からよく「周りに迷惑をかけてはいけません」
と教わった事ありませんか?
それは家だけはなく学校でもそうです。
きっちりと細かな決まり事を端からしっかりと外れることがなく守る。
それが人としての当たり前の行動であり、正しい生き方だと学ぶ。
僕は子供の頃からそういう事を言われた時に
半信半疑だったのを覚えています。
人に迷惑をかけていないから正しい人間なのだろうか?
全ての決まり事を守って生きたから人は正しい人間になるのだろうか?
若き日の盛りと言いますか。僕は当時反発をしたりしました。そして本当に自分の行いが間違いであるのならば、自分自身が身を持って実感させられる。
そして初めて「自分がやった事は悪いことだったんだ」
と思い知らされる。
正しく生きようとすればするほどに
正しい道とは何かを知ることが出来ない。
間違いを知ることが無ければ本当の正しさを知ることが出来ない。
人は常に失敗や過ちを通して初めてその真実に気がつく。
それをしてはいけないとストップをかけられると
事が起きる前に行動を止めてしまう。
そうすると物事の善悪に対してリアルに知ることが出来なくなるんですよ。
僕は高校時代カナダの学校にいましたが
僕の友人の友人(カナダ系中国人)はろくでもなく
学校のぎり敷地内で大麻を吸うおかしな奴でした。
僕は流石に大麻は絶対にやりたくない思ってたので、まぁどうでもいいやと適当に友人と話していたら
いきなり学校へ入って構内のコルクボードに火を放ったんですよw日は少しずつ大きくなった時に「おいおいコイツまじかよ!」って思いました。
結局火は消えたのですが、共犯だと疑われて
その後は散々な仕打ちを受けたんですね。
長い間小さな部屋に拘束されて、質問攻めの嵐。
結局そいつ以外は事を犯していなかったとなり、その日のうちに釈放されたのですが、改めて物事の重大さを知ることが出来たんです。
日々自分が何か間違いを犯して
自分で責任を取るという習慣が無ければ、咄嗟の時に上手く行動が出来なくなる。そして本当に間違っていたのならば、自分がきちんと状況を説明して謝罪が出来る。
だからといって進んで周りに迷惑をかけて生きろとは違いますが、こういう行動をすることでこういう結果になるんだ。じゃあそういうことはしないようにしよう。もし起こしてしまったのならしっかりと自分で対処出来るようにしよう。
そういう習慣が持てる様になるんです。
学校の廊下を走ってはいけない。
実際に走ってみて転んで痛い目をみた。
下手すれば人に怪我をさせてしまった。
それを知るには経験してみないとわからない。
失敗をして謝罪をして次はこうならない様にしよう。
それの繰り返しで人は善悪を知ることが出来るのではないかと僕は思う。
学校で問題を起こした場合
自分と相手とで取り敢えず解決が出来るのだろうか?と行動をしてみる。本当にどうしようも無ければ大人が間に入る。
「自分たちがこういう問題を起こしました。あらかじめお互い解決をしようとしたけど、埒が明かないので先生や親に相談をしました」
と言えれればいいですが
「問題は起こしたけど間には大人が入るに決まってんだろ?何の為に教師をやってるんだ?なんの為の親なんだ」
では何の解決にはならないと僕は思うんです。
もしその行動によって
とてつもなく面倒は事になってしまった、大怪我をさせてしまった場合。初めて自分のやった事の重大さを知ることが出来る、もう二度とこんな事をするのはやめようと反省が出来る。
人に迷惑をかけずに生きることはまず不可能です。
生きていれば人に迷惑をかけていないと生きていけません
ただ人に迷惑をかけた分。それをしっかりと対処できれば、人としての器量をしっかりと持っているとなるのではないでしょうか?
先ほども言いましたが
だからといって敢えて人に迷惑をかけろというわけじゃありません。問題が起きたら自分で責任を取れる、その行動が出来る様になるのは、自分が経験していないとわからないって事です。
今では自分の行動がSNSで晒されたり、それが抗議の種になったりします。でも第三者はそういうリスクを負うこともなく、隠れた場所で正義を振りかざす。経験を積んでいなければ、その重大さをリアルに感じることが出来ない。
重大さがわからないから、自分は蚊帳の外からアレコレ言うことが出来る。
経験した人は確かにこういう事もあるだろう。
やってしまった事は悪いことだけど、本人がキチンと対処し、反省出来ればそれも経験の一つだろうと許せる。
人に迷惑をかけない生き方が本当に正しい生き方だろうか?
僕はその言葉の表の意味も裏の意味も少しだけ理解が出来た様に思える。
そう物事は常に表裏一体だ。
それを少しづつ理解が出来てくればいいのだろう
それも経験の内なのだろう…