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走れ! ナルシス!

 奴はたった一人の演劇部員。奴が現れるまで、我が校に演劇部はなかった。男子校だから無理もない。男子ばっかり集まってやる劇は、必然的に男子校か刑務所の劇になってしまうではないか。だが奴はどうしても舞台の上に立ちたかった。そしてある日、一人で演劇部を立ち上げた。たった一人の演劇部員による一人芝居。セットすらない。それを目にしたことのある者は俺の身内におらず、都市伝説のようになっていた。そいつが演劇部を立ち上げた時と同じ熱量で俺に迫ってくる。なんだかいい匂いを漂わせて。近い近い。俺を幻惑するな。奴のあだ名は「ナルシス」。

 男子校にもナルシストはいる。我が校は良い言い方をすれば、「バンカラな校風」で知られているが、意訳すれば、「汚い」。なにせ、朝から夕方まで男だけの社会、皆、オシャレの意味がわからない。寝癖を付けた者、シャツがズボンからはみ出している者、右と左の靴下を間違えているものの中に、一人だけ奴、「ナルシス」はいた。

 一体、どういう目的で奴はいい匂いをさせているのだ? 他のほとんどが脇の匂い、足の匂い、時にはタバコの匂いをさせていると言うのに。
 一体どういう理由で奴は長髪を靡かせているのだ? 入学した時は確かに坊主頭だったと言うのに。
 一体、どう言う根拠があって、奴は「オレ、イケメン」と言う雰囲気を漂わせているのだ? 切長の目にタラコ唇。素材はどう見ても10人並みかそれ以下なのに。

 いつの間に現れた? 黒の詰襟集団の中の突然変異、「ナルシス」。

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 「頼む。」
文言は頼んでいるが、奴の背筋はピンと伸びている。俺の方は腕組みして背中を丸めている事もあり、妙に上から目線だ。

 「だがなあ、前例がない。他の団員もなんというか。」

 「許可しないと言うなら、勝手にやる。」

 「ちょ、ちょっと。それは困る。わかったわかった。わかったから、あくまで目立ち過ぎないように、な。裾は短く、短く、だぞ。頼むぞ。」
 頼まれたはずが、気づけば俺の方が頼んでいる。

 長い髪をかき上げ、額の前に指二本だけのキザな敬礼をして、奴は言った。

 「後悔はさせん。よろしく。」

 体育祭を前にして、俺の身辺は騒がしい。近隣の高校からもたくさんの観客が集まるこのイベント、仕切るのは我ら応援団だ。全校生徒が紅軍と白軍に一時的に分断されるこの時期、「応援団」は学内のステイタスになっている。刺繍や金ボタンを施された「変形学ラン」での演舞が体育祭最大の見せ場だからだ。

 この晴れ舞台、紅軍応援団長の俺には一番裾の長い学ラン、「長ラン」、さらに背中に龍の刺繍をすることが許されていた。ちなみに、副団長は俺より短く、班長はそれよりもさらに短く、と言った具合に団の中の階級により、変形学ランの裾の長さは決められている。くだらないと言えばくだらないが、受け継がれた伝統だ。

 「ナルシス」のやつは、どうしてもカッコつけたいらしい。彼には応援団の役職はないのだが、知り合いが見にくるから当日変形学ランを着る許可をくれ、と言いにきた。どうせ許可を出さなくても着てくるつもりなのだろう。ならば、俺の管轄下でほどほど、目立たない程度の長さの変形学ランを着てくれた方がいい。これは奴のためでもある。俺の許可があれば、他の団員から白い目で見られずに済むだろうから。

 うまく手打ちをしたつもりだったが、体育祭当日俺は見事に裏切られた。奴が身に纏って来たのは、俺よりも裾の長い変形学ラン! 背中には竜の刺繍! 派手なハチマキ! 団長の俺よりも偉い人に見える。実際、奴が腕組みしている立ち姿を見ると、なんだか奴の言うことを聞かないといけないような錯覚を覚えた。‥‥‥服装って恐ろしい。それだけならまだギリギリ許せるが、あろうことか十重二十重に女の子に囲まれてやがる!! ナルシスの野郎! 何が「後悔はさせん」だ! 断言する。後悔しかない!

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 俺は応援団OBの先輩に呼び出され、叱責された。団外のものになんであんな派手な服装を許したのか? と。許した覚えはない。「裾を短く」、と言ったつもりだ。俺は奴を締め上げようと思ったが、より事態が深刻なことに気づいた。

 クラスで奴が無視されている! 誰よりも目立つ服装で、あまつさえ女子高生に囲まれていた奴を、他の団員、クラスメートは許さなかった。げに恐ろしきは男の嫉妬である。男子校は弱肉強食の世界、厳然としたヒエラルキーが存在する。故に、俺達は常にお互いを見て、自分の方が上か下かを見極めている。喧嘩の強い者、勉強ができる者、スポーツが得意な者、面白くて友人が多い者はそれなりに幅を効かせることができる。ナルシスは、そのジャンルのどれにも当てはまらない。当てはまらない者は目立ってはならないのだ。悲しいが、それが暗黙の了解だ。

 奴の売りである、「雰囲気がイケメン」と言うのは、男子校においては逆風になりこそすれ、何の立場も保証しない。あるいは「真のイケメン」であったら事情は違っていたかも知れない。明らかにイケメンを「演出」していた「ナルシス」においては、その演出行為一つ一つが反感の対象となった。

 元々異質な存在で、事あらば目立とうとするナルシスには友人が少なかった。体育祭以降はそれがさらに加速した。ナルシスが発言すると、クラスは沈黙で答えた。ナルシスが目立った時は、どこからともなく舌打ちが聞こえた。「ナルシス」の呼び名には、あざけりのニュアンスが加わった。奴は、今や完全に孤立していた。言わんこっちゃない。だからほどほどにしとけと、、。俺は、自分の判断がきっかけとなった手前、なんとなく気になって奴の様子を伺う日々を送った。ナルシスの裏切りへのわだかまりは消えないままに。

 だが見よ、今や話しかけるものもないナルシスの背筋は、今日も伸びているじゃないか。奴の挙手は指の先まで垂直に天井を向いているじゃないか。演劇部らしく、声にも張りがあるじゃないか。髪は靡いているし、誰得ないい匂いも漂わせているじゃないか。二本指のキザな敬礼も健在で、一挙手一投足に誰憚ることない大袈裟なキレがある。

 ……奴は、昨日も、今日も、ただ「ナルシス」たらんとしていた。「美しい自分」を貫いていた。憧れの目で見る女子生徒などいないこの教室で、奴は誰よりも「ナルシスファン」であった。いつしか俺はそんな奴を強者と認めるようになった。

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 年内最後のイベント、「夜間行軍」が始まった。30キロ以上の道のりを夜を徹して歩くこの行事は、我が校の「バンカラ」を象徴するような行事だ。運動に自信のある者はこの距離を走り、そうでないものは友人と連れ立って話しながら歩く。食料と水の入ったリュックを背負って。

 「スタート!」

 教師の号令で一同は歩き始めた。クラスメートの多くは後ろでグループを作り、雑談をしながら歩いている。俺はそいつらを置き去りにして渋々走り出した。テニス部の友人から、「一緒に走る『連れ』になってくれ」と頼まれたからだ。どっちかと言えばダラダラ組に混じりたかったが。

 冷たい夜風に吹かれながら最初はある程度のスピードで走っていた。冗談を言い合い、思い出話をポツポツしながら軽快に進む。暗い夜道をひた走るのは非現実感があり、テンションが上がった。親しい友との道行きは、苦しくも楽しい。だが、進むうちに足がだんだん重くなってきた。20キロを過ぎた辺りまではまだジョギング程度の速度があったが、25キロ付近でいよいよ歩くのと変わらない速度になり、へたばった俺はまだ元気そうな友人に言った。

 「先に行け。」

 理由があった。到着が早い方が学内ヒエラルキーが上がる。「運動自慢」のジャンルで地位を確立出来る。俺の為に友人のヒエラルキーが落ちるのは申し訳ない。

 「バカ言うな。とにかく足を動かせ。」

 友人に励まされ、再び足を引きずりながら走り始めた俺を、一人の男が抜いて行った。

 「ナルシス!」

 ‥‥‥奴は、たった一人だった。暗くて寒いこの道を、共に行く友もなしに淡々とここまできたのか。それはまるで、奴が「ナルシス」として一人で歩んできた高校生活そのもののようだった。だが見よ、その背筋はいつものようにピンと伸びていた。後ろ姿は、打ちひしがれた男のそれではなかった。俺の呼びかけに二本指敬礼を送ると、颯爽と走り去る。振り返りもしない。前を、前だけを向いて奴は行く。

 強い。強い男。涙が溢れてきた。きっと疲れのせいだ。俺は叫んだ。

 「走れ!走れ!ナルシス!!あともう少しだ!」

 クソみたいなヒエラルキーを登れ! 喝采を浴びろ! もう誰も君の事を無視できなくなるように。

(了)

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