「大衆」とそうでない人間の区別。『大衆の反逆』より。

「自分はそこらの人と考えが違う」

そう考えることは、人生の中で一度はあったと思う。しかしながら、誰しもがそう思うのに、いつの間にかその他大勢、つまり「大衆」に分類される。では、その「大衆」とそうでない人間の区別は一体どこにあるのだろうか。

単純な頭の良さや、収入の多さというのであれば、それは「エリートという区分の大衆」に過ぎない。つまり、少数であってもotherでくくれてしまう時点で、量的にそうでなくても「大衆」と区分されるのだ。つまり、そうでない人間というのはこういった枠組みにはまらない人間である。

『大衆の反逆』についてと、この先の議論について

 オルテガ・イ・ガセット著の『大衆の反逆』は、この「大衆」を痛烈に批判した本である。この本が出版された当時は自由民主主義という、新しい時代であった。誰もが政治として(単なるデモではなく)政治に関われる、大衆の勝利の時代である。しかしながら、肝心のその「大衆」というのはあまりにも怠惰である、というのがこの本の主張だ。

この本には、政治についてもかなり多くある。しかし、ここでは「大衆という性質」に主に着目して読んでいきたい。この記事を読むような人は、おそらく大衆ではないと思う。しかし、付き合う人間の多くは大衆であるし、私たちは簡単に大衆になれる。この記事の中で「大衆」という人間性に向き合いたい。

大衆について

まずは、この本に書いてある「大衆」の説明を引用する。

すなわち本書で取り上げられている「大衆化した人間」(el hombbre-masa)[人間の種類としての大衆]がいたるところに出没していることである。(中略)今や大陸全体の生が呈し始めた、息の詰まるような単調でもの悲しい様相はそのせいである。
 この大衆化した人間は、前もっておのれ自身の歴史を空にした人間、過去という内臓を持たず、「国際的」と呼ばれる規律に従う者たちである。(中略)彼らには「内部」が、頑として譲渡できないおのれだけの内面性が、取り消すことのできない自己が欠けている。必要とあらばいつでも、どのようなものの振りでもできるのはそのためである。彼らにあるのは欲求だけであり、自分には権利はあるが義務があるものとは思ってもいない。彼らは貴族の義務を持たない(sine nobilitate)のであり、ソノップ(俗物)なのだ。p26
大衆とはあくまで「平均的な人たち」のことを言う。そう考えると、単に量に過ぎなかったもの、つまり群衆が、質的な規定に変化する。大衆とは、多くの人に共通する性質、つまり所有者を特定できない社会的な属性を指し、誰もが他の人間と同じく、自らの中で同じ一つの類型を繰り返すと言う意味での一般的な人間を表すにすぎないのである。p67

まずは下の引用から考えていく。この平均的、というのは語弊があると思う。というのは、先述した通り、エリートでさえ「大衆」になるためである。これは、ある分野に突出している専門家さえも、他の分野、特に精神においては「大衆」になってしまう。この平均的というのは、「精神が凡俗である」ということを示している。内に秘めているものが、他者と変わりがない、区別がつかないことから「平均的」であるということだ。そのことを、「内部」が、自己が欠けていると上の引用で表現している。

これが、世間の大半を占めている「大衆」である。では、この「大衆」はいかに振る舞うのか。

この「大衆」というものの特徴は、「精神が凡俗である」ということが一番大きい。その要因というのは、次のようなことである。

前世紀にとって、あれほど自慢の種だった学校は、大衆に対して近代生活の技術を教えることはできたが、教育することはできなかった。つまり力強く生きるための道具は与えたが、大事な歴史的責務に対する感受性は与えなかったのだ。近代的な諸手段についての誇りや力はあたふたと接種したが、精神は与えなかった。p120
すなわち世界や生が平均人に対してしきりに心を開いているのに、彼らの方が固く心を閉ざしていると言うことである。私が主張したいのは、大衆の反逆がこうした平均人の心の閉塞状態に基づいており、さらに今日人類に提起したとてつもない問題がこの反逆に根を持っているということなのだ。
 もちろん私は、読者の多くが私と同じように考えているわけでは無いことは知っている。そのこと自体は当然のことであり、それがかえって私の理論を確証してもくれる。なぜなら、たとえ私の理論が決定的な誤謬だったとしても、私と意見を異にする読者の多くが、かくまで複雑な問題についてたかだか五分も考えなかっただろうという事実が残るからである。第一そんな人が私たちと同じように考えるはずもないではないか。しっかり考えを練るための前持った努力もなしに、この問題について意見を持つ権利があるという考えること自体、私が「反逆する大衆」と呼んだ愚かしい人間のあり方の典型的な一つの例だということを表している。それこそまさに閉塞的で封鎖的な魂を持っている。この場合は知的閉塞性が問題なのだ。人はおのれの内部にいくばくかの思想を持っている。それらに満足したり知的に充足しているとみなすことにしてしまう。自分以外のことに何一つ不足を感じないので、自己の思想の限られたレパートリーに最終的に落ち着くことになるのだ。自己閉塞のメカニズムがここにある。p144
彼らは政治家が計画したりやっていることが良いか、それとも悪いかと考えたのだ。そしてそれに対する支持を表明するか、あるいは反対するかしかなかった。つまり彼らの態度は他人の創造的行為に、肯定的あるいは否定的に反応することに限られた。政治家の「思想」に対して自分の別のそれを対決させようなどととは思いも寄らないことだった。(中略)おのが限界についての、つまり自分には理論化する素質がないという生得的な意識が、それを禁じていたのだ。p148

要約すると、次のようにまとめられる。

1. 技術、知識はあるにもかかわらず、感受性が失われている p120
2. 現在の知識に満足しきっている
3. そのため、知識的にアプローチをしても、心を閉ざして考えることをしない
4. 熟考なしに、権利を振る舞って意見だけを言う p144
5. 思想を持たず考えず、周りに流れる p148

これをまとめると、「自分を持っていない」という言葉に集約される。この自分を持っていないので、他の人と同質化し、「大衆」になるということである。

「大衆」から抜け出すことはできるか

では、「大衆」の枠組みから、全員が抜け出すことはできるのだろうか。これについてオルテガも次のように述べている。

私の考えでは、救いの可能性のすべてが賭かっているもう一つの決定的な問いは、大衆がたとえそう望んだとしても、果たして個々の独立した生に目覚めることができるだろうか、というものである。p44

私は、この「大衆」の枠組みから抜け出せそうな人に、その手伝いをしているつもりである。飲みの席で、きちんと自分の意見を持っている人がいたため、その点について議論し、深めようとしたのだが彼は諦めていた。「そうだけどねえ」という気の抜けた声で返事をするだけで、特段心を開いて、さらに深い「自分を持つ」ことをしようとはしなかった。このことからも、誰もが誰も「大衆」の枠組みを脱することができるわけではない。それはこちらからどんなに熱心にアプローチをしても、すでに諦めている、立ち止まってしまった人間は救い出すことができない。

おそらく、人数的には1割に満たない人間しか「大衆」から抜け出すことができない。この時点ですでに量的に「大衆」であり、大多数の意見として猛威を振るい続ける。

「大衆」に陥らないために

さて、我々はどうやってこの「大衆」から脱するか、もしくは陥らないようにするかを考える。先に言っておくと、「大衆」になることで大きなデメリットはない。この手の本に罵られるとか、大人が膝を曲げて子供に話しかけるように知識人に扱われるくらいだろう。本質的なことがわかることが幸福でないなら、それは立派な「大衆」の素質がある。

私はそれが幸福だとは思わないし、その思考を保っていたいと願っている。また、同様に思っている人たち、特に「大衆」へ疑問を呈しつつ、普段は「大衆」として振る舞う人間を引っ張り上げたいとも思っている。その手法としては、「精神的に向き合うことで自分を持つこと」が挙げられる。この理由について話す。

まず、「大衆」の特徴というのは、「自分を持たない」ということに集約されると述べた。「自分を持つ」というのは少し曖昧である。一番簡単なところでいえば、「自分の意見を持つ」というところであるが、これはむしろ勘違いが起こりやすい。というのも、この本が書かれた時代も、現代も「文句に近い意見」は持っているからである。もう一度、p144の文章を引用すると

もちろん私は、読者の多くが私と同じように考えているわけでは無いことは知っている。そのこと自体は当然のことであり、それがかえって私の理論を確証してもくれる。なぜなら、たとえ私の理論が決定的な誤謬だったとしても、私と意見を異にする読者の多くが、かくまで複雑な問題についてたかだか五分も考えなかっただろうという事実が残るからである。第一そんな人が私たちと同じように考えるはずもないではないか。しっかり考えを練るための前持った努力もなしに、この問題について意見を持つ権利があるという考えること自体、私が「反逆する大衆」と呼んだ愚かしい人間のあり方の典型的な一つの例だということを表している。

つまり、意見のためには考える、向き合う必要がある。そのために「精神的に向き合うこと」が重要である。この精神的というのは、科学的と対極している。科学的というのは事実であり、意見ではないためである。自分の奥底から、誰かに教示されたわけでもない内在的な思考こそが、「自分を持つこと」である。つまり、「大衆」に陥らないためにはこの内在的思考が重要である。これは日本人の多くが表に出すことがない。そのために大衆であるとも言えるだろう。「ぶっちゃけると」を枕詞にするような、本音の対話をすることで「自分を持つ」ことにつながっていくのではないか。

「大衆」とどう付き合うか

しかし、そうは言っても先述の通り「大衆」は9割以上を超えると思われる。その理由としては、「幸福論への識字率」があると考えている。p26の文章で「彼ら(大衆)にあるのは欲求だけであり」という文章があるが、この本全体でこの欲求に関しては書かれていない。そこで、ショーペンハウアー著『幸福について』からこの欲求を分析する。この本は、この『大衆の反逆』と同じように、「大衆」と区別して読者を想定している。次の文章の「俗物」という表現がそれに値する。

これによれば、俗物とは「精神的欲求なき者」だ。ここから実にさまざまな推論がなされる。第一に俗物その人について。俗物は先にあげた「真の欲望なくして、真の快楽はない」という原則通り、「精神的楽しみ」というものをもたない。認識と洞察そのもののために認識と洞察を餓えたように希求することはなく、これと実に似通っているが、真に美的な喜びを希求することもないので、これらによって生活が活気づくことはない。けれども、たとえば流行や権威から、こういう種類の楽しみを押しつけられると、一種の強制労働としてできる限りさっさと片付けるだろう。俗物にとって真の楽しみは、官能的な楽しみだけだ。これで埋め合わせをする。したがって牡蠣とシャンパンが人生のクライマックスであり、肉体の幸せに寄与するすべてを手に入れることが、人生の目的となる。俗物はこれで大忙しなら、十分幸せなのだ!

そう、「大衆」というのは、その場の快楽があれば十分な人間である。それこそが彼らの「幸福論の結論」であり、探究する理由がない。そのため、小難しく書かれている「幸福論」などとても読む気にもなれないのである。これが「幸福論の識字率」であり、彼らは「自分と向き合うこと」をせずとも、彼らの中で一番幸福な道を歩むことができる。それを踏まえると、彼らには私たちの対話や、私たちが考える幸福論には耳にも貸さず、己が道をそれぞれ突き進む。彼らの「思想」は、彼らの中だけで完結し、他の意見は一切いらないのだ。

平均人は自分の内部で「思想」を見出すが、思想を考え出す機能に欠けている。思想の生きる基盤である、きわめて精妙な要素が何であるかを考えても見ない。彼は意見を述べたがるが、そのために必要な条件や前提を受け入れようとはしない。p151

そんな彼らと付き合うには、残念ながら多くの場合彼らに合わせるしかない。大衆は幸福、快楽について考えるのだから、その快楽に沿った方向で話を進める。もし、伝えたい思想があるのであれば、それは言葉ではなく、体感で伝えるべきである。仮にその思想が難しくても、「大衆むけ」でなくても、そこに快楽があれば大衆は受け入れてくれる。本人たちは納得してではなく、体験してその思想に同意する。

あとは、大衆に流されて「大衆」にならないようにすることだ。近くにいて、同じような行動をすれば、それは「大衆の思想」に呑まれる可能性がある。そうではないと、たまに自分で振り返るべきだ。

「大衆」の変質

ここまで、この本が書かれた当時の大衆について論じてきたが、ここからは近年の大衆の傾向を分析したい。この本が書かれて100年近くたったが、大衆はどう変化したのか。

少し前、「うっせえわ」という曲がとても流行った。曲が流行る理由はいくつかあるが、おそらくこの曲の場合は歌詞が強烈で、若者が共感を示した、というところだろう。歌詞の一部を引用する。

一切合切凡庸な
あなたじゃ分からないかもね
嗚呼よく似合う
その可もなく不可もないメロディー
うっせぇうっせぇうっせぇわ
頭の出来が違うので問題はナシ
(中略)
うっせぇうっせぇうっせぇわ
私が俗に言う天才です

この歌詞に、「多くの人が同意した」というのがとても皮肉が効いている。「他人とは違う」というのが、多くの人が思う、それは多様性ではなく、「他人と違う」と考える同質性であり、このグループの大衆となった。

これともう一つ、「大衆」の意見を言うところである。ここ20年、匿名のSNSというものが流行った。2ちゃんねるなどから始まり、今はTwitter、instagramなどのSNSが主流である。これらの特徴は、個々人が、それぞれを安易に表現することができる点である。その時、同質の人間との差異を自分で持つ。

この点が、当時の大衆の特徴とは、少し違っている。

たとえ大衆を構成する一個人が自分には特別な資質があると信じたとしても、そこにあるのは、単に個人的思い違いの一例であって、社会学上の破壊要因とはならない。むしろ現代の特徴は、凡俗な魂が、自らを凡俗であると認めながらも、その凡俗であることの権利を大胆に主張し、それを相手かまわず押しつけることにある。p74

これが当時の大衆である。凡俗であることを認める、という点が相違していると考えられる。しかしながら、彼らは変わらず大衆である。その理由は、「凡俗な魂」という点については変わっていないからである。他人との差異があると思いつつ、その差異がより自らの権利の大きさを主張し、SNSという簡単に、他人の目につくところで押し付けるということである。簡単にいえば、問題がよく見えるようになったのである。

まとめ

『大衆の反逆』を通して、この「大衆」というものの質をみてきた。その結果として、「我々は大衆に憐れんだ目を向けて、大衆と付き合っていこう」とはなってはいけない。この大衆という質が、多くの割合を示す中で、我々の思想を、思いを、幸せを、どうやって伝えていくべきか、というものを考えるべきである。

大衆から抜け出そうとしている人を手伝うのはもちろんだが、「大衆」であり、他人の教義に頭を悩まされる人間を導いていくべきではないか。その時は、「大衆」と目線を合わせることも大事であろう。だが、我々自身が、我々自身の持っている軸から外れてはならない。外れた瞬間、その思想は「それっぽい教義」となり、盲目的な大衆を盲目な人が導く、恐ろしい世界を作り出す。E・F・シューマッハー著『スモールイズビューティフル』より引用すると

「軽薄な者が軽薄な者の手を引く」社会ではなく、軽薄な者が盲人の手を引く危険な社会だといってよいだろう。

我々は、軽薄に探求を終えてはいけない。常にアップデートをし続け、思想を磨かなければならない。

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