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『Fly Me to the Moon』と歴史をつくること

グレッグ・バーランティ監督が手がけ、スカーレット・ヨハンソン、チャニング・テイタム、ウディ・ハレルソンがキャストとして名を並べる映画『Fly Me to the Moon』。アポロ11号が月面着陸した55年後にあたる2024年7月に、日米で公開された。ロマンティック・コメディとして謎を残さないハリウッド的な映画であったため、この映画そのものの考察や批評ではなく、劇中の言葉を手繰って自身の研究的な興味関心の側へ話を拡げてみたい。

We're making history.

映画の中盤、月面着陸のフェイク映像を撮影する「アルテミス計画」を秘密裏に遂行するよう、モー(ウディ・ハレルソン)からケリー(スカーレット・ヨハンソン)に告げられる。このやり取りのなかでモーは、“アメリカ国民がテレビで月面着陸の瞬間を目撃すること(それが真実かどうかではなく)”の重要性を激しく説き、「我々は歴史をつくっているのだ We're making history.」という言葉を残して部屋を出ていく。

歴史をつくること history-making

歴史をつくること、と聞いたときに、つまりは教科書に載るような歴史的事実を起こす/残すことだ、と理解する方が多いのではないだろうか。それに対して、SpinosaFloresDreyfusは、1997年出版の『Disclosing New Worlds: Entrepreneurship, Democratic Action, and the Cultivation of Solidarity』のなかで異なる主張を提示している。

私たちは、起業家精神(entrepreneurship)、市民運動(citizen action)、連帯の醸成(solidarity cultivation)の根底にある特別なスキルを、歴史をつくること(history-making)と呼ぶ。(中略)各大統領の任期は米国の歴史書に記載されているが、例えば、新しい大統領の当選は歴史をつくることではない。歴史をつくるものは、私たちが自分自身や物事を理解し、それらに対処する方法を変えると、私たちは主張する。

Spinosa, Flores and Dreyfus(1997)p.2

つまり、事実それ自体ではなく、物事の見方や関わり方を変えるという作用の有無によってhistory-making(と見なす)かが定まるという。その前提で、Spinosa, Flores and Dreyfusは、『Fly Me to the Moon』の背景にあたる、1961年当時のジョン・F・ケネディ大統領の宣言を例として取り上げている。

歴史をつくること(history-making)は国家レベルでも生じる。1960年代にジョン・F・ケネディ大統領がアメリカ国民の歴史的な意識を明確にしようしたことは、今でも多くの人々の記憶に鮮明に残っている。ソビエト連邦との「宇宙開発競争」を宣言し、10年以内に人間を月に送り、無事に帰還させるという目標を掲げたケネディ大統領は、アメリカ国民のアイデンティティの感覚、つまり自分たちをどう感じ、どう見ているかという感覚を変えようとしていた。アメリカ中の学校では、打ち上げや着陸の瞬間には授業が中断された。生徒や教師たちはラジオやテレビの前に集まり、アメリカ国民としてのアイデンティティを決定づける出来事を追った。アメリカ国民は、宇宙開発計画が、人生とはフロンティアの開拓である、という彼らの理解を表現していると感じていた。
ジョン・F・ケネディは、技術・工学教育と結びつけることで、開拓者のアイデンティティを取り戻した。新しい未来を創造する試みとして、科学が宗教に取って代わった。宇宙飛行士のようなクールな男らしさが、アメリカの男らしさのスタイルとなった。神を畏れる民から、宇宙開発競争に参戦する民へと変化した。さらに重要なのは、ケネディが、国家としてのアイデンティティの感覚を危険にさらすような、自分自身を理解する方法を推進したことである。もし10年以内に月に人間を送り込み、無事に帰還させることができなければ、あるいはソビエトが先にそれを成し遂げてしまった場合、自分たちが誰なのかというビジョンを達成できなかったと感じたであろう。 ケネディのような歴史をつくる行為(history-making act)──私たちがアーティキュレーション(articulation)と呼ぶ行為─は、私たちが自分自身と向き合う方法を再発見し、その卓越性と関連性──このケースでは開拓者としての道──を回復し、新たな価値を見出す手助けとなる

Spinosa, Flores and Dreyfus(1997)pp.2-3

(補足:最後に言及されるarticulationは、history-makingの方法的分類のひとつであり、そのほかにはcross-appropriation、reconfigurationが説明される)

『Fly Me to the Moon』の導入部から語られる宇宙開発競争への関心の低下や、ケリーが取り組んだようなマーケティング・PR施策(Marketing the Moon)を鑑みると、上記の引用はあまりにきれいな物語に映るかもしれない。それでもやはり、1961年の宣言がhistory-makingであったからこそ、モーがケリーに「アルテミス計画」の遂行を告げた時の迫力を理解できるように思う。


余談

『Fly Me to the Moon』を観ようと思ったきっかけは、月面着陸に関する根強く残る陰謀論を題材にし、「リアルかフェイクか」(英語版では“Will they make it… or fake it?”)というコピーがどう回収されるのか/されないのかが気になったためだ。冒頭で書いた通り、謎を残さないハリウッド的な映画であり、エンターテイメント/娯楽映画として見本のような終わり方だった。それはそれで素晴らしいのだが、たとえばこの題材に対して real <> fiction/possible 、あるいは actual <> virtual といった極があったのなら、ずいぶんと異なる語り口と読後感があったのではないかと妄想する(この記事も当初はその方面で書こうとしたが断念した)。そんなことを思っていたら、上田慎一郎監督がポッドキャストで近しいことを明瞭にお話されていて、とても共感した。私も“うるさ型”なのかもしれない。


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