三島由紀夫の最期の小説を再読して思うこと「俺は三島を超える」
せっかく何で読後の所感を残したい。
三島由紀夫の小説四部作「豊饒の海」
を、何年ぶりだろうか、
恐らく20年近い歳月を経て読み直した。
ボロボロの四部の本の間に挟まっていた
当時働いていた職場の名刺が落ちてきたり、
なぜか三島由紀夫の顔の切れ端が落ちてきたり、
ドキッとすることが電車で起きた。(中二病の発露である)
有名なオチだけをいうと
四部に渡って生まれ変わりを経て来た主人公の魂は
最後の最後で
「そんな方、いらっしゃいましたか?」
と1巻のヒロインである聡子(さとこ)に言われて突き放されて終わる。
とにかく長くても良いし、、くどいわけでもないんだけれど
表現が婉曲(えんきょく)である。
凄まじい真理が書かれているような気がするが、
三島自身が歴史に残した最期の行動をとることと、
あの最期の小説の存在自体との因果関係を考えると
いったい何を言いたかったんだろう。
どんどん老いていく老境に怯えるような小説全体の構図は
最後に「老いることは澄んでいくこと」であり
「虚心にありのままを受け止める」ことを知ることに80歳でたどり着いた、
はずなのに、三島はああして最期を遂げる。
目的は「武士の魂」の顕現だったのか、
それとも結局自身を美と芸術として完遂したかっただけなのか。
芸術が、知のブルジョワのただの嗜好や戯れであるのなら
そんなもの生きる真剣の一撃で打ち砕こう。
では、そうでないのならば、なぜ
あんな醜悪な展開ばかりを描いたのだろう。
(三部以降、観察者本田は覗きの趣味に走り、裸見たさにプール付きのぞき穴付きの豪邸を建てる)
死ななきゃ本物じゃないなんて、
それで死んでしまうなんて三島はズルすぎる。
それにしても辞書にも載ってない言葉が出てくる難解な三島小説。
仏教用語なども頻繁に出てきて、どれだけの知識の源泉の底が見えない(私の知識は浅すぎて子供用プールなので子供が大いにはしゃぐでしょう。では三島は誰用のプール?足がつかないのは深さが三メートルもあれば関係ないんだからただの無駄な深さになるよね。競技潜水用プールなのか!(いやプールの話になってるΣ(゚Д゚;))
と、いうことで
私の書いている小説の主人公が「三島を超える」って言っている主人公なので、ここは私もスーパー中二病として
三島由紀夫を超える、と言っておきたいと思います。
今四部を書いておりまして(五部までは構想あり)
一~三部は全部小説新人賞に応募して何にもならない紙屑です。
どれかが引っかかった時、すべてが動き出すのでそれまでお待ちくださいませ。
朝活が捗れば少しずつ執筆も軌道に乗るでしょう。
(最近YouTubeに力入れちゃってました)
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