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#04 思い通りの後半生には「3K」が必要



~過去投稿はマガジンから~

童門さんの文筆活動の原点は、20代の頃に強い影響を受けた太宰治だ。

当初は純文学に取り組んでいたが、
歴史小説や評伝を少しずつ手掛けるようになったのは、
東京都庁時代に管理職についてからだと言う。

「中学時代の国史の先生が生徒を飽きさせない授業をする人だったので、
もともと歴史は好きでした。
都庁で部下を持つ立場になり、また行政マンとして、
歴史上の人物に学ぶことが少なくありませんでした。
『上杉鷹山の経営学』には、課長になった頃の実体験をかなり書いています」
 
美濃部亮吉都知事時代の政策室長を最後に、51歳で都庁を退職。

人生後半の生き方のモデルにしたのが、伊能忠敬だった。

「誰にも相談もせず、美濃部さんの退陣とともに都庁を退いてしまったので、家族は私の退職を新聞で知りました。
その時、生活に困ることのない生活費を工面することを約束し、
それと引き換えに、これからは自分の好きなように生きたい宣言しました。
50歳までは家族のために、それ以降は自分のために生きていこう。
伊能忠敬の生き方をパクったわけです」

隠居後の伊能忠敬が、暦学、天文学を学び、正確な日本地図を残したことは有名だが、伊能家に養子に入ってからの忠敬は、病気や家族関係で苦労をした。

しかし、結果的には伊能家を再興。生活には困らない財産も残した。
伊能忠敬をモデルにしたものの、童門さんは仕事が軌道に乗るまでは、
「タコが自分の足を喰って生き延びているような状態」だったと言う。

「自分の経験を踏まえて言うと、定年後は自分の好きなように生きることを望むなら、それまでにきちんと準備をしておくことが必要でしょう。
その準備としては、心(気持ち)と体(健康)とお金の〝3K〟が大事なんです」

いくら「こうしたいという気持ち」があっても、お金に困れば周囲の理解が得られない。そもそも不健康な体では実行に移せないというわけだ。

「孔子は人生のありようを年齢別に示しました。
吾十有五にして学に志し(志学)、三十にして立ち( 而じ 立りつ)、四十にして惑わず(不惑)……〟です。

私の年齢にいちばん近い〝70にして心の欲する所に従へども矩のりを踰こえず〟の〝従心〟は、自分の思うように行動しても間違わないというのが一般的な解釈です。

ところが、先ほど言ったように私自身の人生は、80になっても90になっても落ち着くことなく転がりっぱなしの起承転転

年齢別人間の完成度には個人差があると思います。
40歳の頃も惑わぬどころかワクワク感がいっぱいで、
そのまま加齢したものだから、まだワクワクの決着がついていません」

あえて人生の最終目標を決めない、「童門流起承転転の人生」。

お仕着せのような人生モデルが囂かまびすしい中、
「もっと気楽に考えてみないか」という心優しい人生モデルを提案されているようだ。

※本コンテンツはCOCORO 22号をもとに再構成しています

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著者プロフィール

童門 冬二 (どうもん ふゆじ)

1927年10月19日、東京生まれ。
東海大学附属旧制中学卒業。海軍少年飛行兵の特攻隊に入隊。
東京都庁に勤務のかたわら創作活動を行う。

都庁では都立大学事務長、広報室課長、企画関係部長、知事秘書、広報室長、企画調整局長、政策室長を歴任。
1979年51歳で退職し、作家活動に専念。1960年、『暗い川が手を叩く』で第43回芥川賞候補。
都庁勤務時代の経験をもとに、人間管理と組織管理の在り方を歴史の中に再確認し、小説やノンフィクションの分野に独自の境地を拓いた。

著書は『小説 直江兼続』『小説 吉田松陰』『上杉鷹山の経営学』
『情の管理・知の管理』『恕 日本人の美しい心』
『人生を励ます太宰治の言葉』などのほか、約700点ある。