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「難民」という言葉の裏には、意志を持った人間がいる。医師であり、政治運動のリーダーであり、母国の未来を想う、ある一人の友人の話。

コンゴ民主共和国出身のMさんは、日本語を流暢に話す。

2年前に出会った当時からは想像もできない程に、流暢な日本語でインタビューに応じる彼は、私たちと同じ屋根の下に8ヶ月間ともに暮らしてきた友人のような存在である。

MさんにとってWELgeeは「メンター(師)」であり、WELgeeにとってMさんは「パイオニア」であり、「良き友人」である。 
   
現在Mさんはヘルスイノベーション ー 健康・医療分野における社会システムや技術革新 ー を学ぶ大学院生でもあり、同時に総合病院で勤務をしている。彼を表す言葉として、「6ヶ国語話者」「医者」そして「政治運動のリーダー」。その中の一つに「難民」がある。彼は現在、日本で難民認定申請を行う1人でもある。
   
彼が私たちに対して2つの言葉をよく口にする。
 
「難民になった時間を無駄にしたくない。ただ逃げてきたのではない。」
  
「まだ自分の同胞たちが母国で頑張っている。彼らを置いて、自分だけ逃げようということではない。彼らが今頑張っていて、自分も生き延びるために日本に逃れて、ここで自分は新しいことを学び学び、母国につなげることが自分の役目なんだ。」
 
彼の放つ言葉の裏にある、母国への想いとは?そして、迫害から逃れ、来日した日本で、志を捨てずに道を切り拓いてきた彼のストーリーから、「難民」という言葉の先にある人の持つ可能性を探る。


◇2018年初夏、私たちはMさんに出会った。

WELgeeがMさんに出会ったのは、2018年7月。
 
私たちは日本語を教えるボランティア、そしてMさんは日本語を学ぶ生徒であった。カトリックの系の支援団体が無償で開催する日本語教室には、母国での迫害から逃れ、来日して間もない人たちが集う。

2016年から、WELgeスタッフは、彼らにマンツーマンで日本語を教えるボランティアとして教室に定期的に参加していた。
 
Mさんと初めて出会ったWELgee職員の山本は、彼と初めて話をした際、彼が気を張っていいたことを覚えている。Mさんは自分自身のこと、なぜ国から逃れざるを得なかったのかということ、それらのことをわかってもらおうと一生懸命に伝えてきてくれた。
 
彼が日本にたどり着いてから1ヶ月間は、人生で体験したことのないホームレス生活が待ち受けていた。彼は当時の状況を振り返って、こう言っている。
  
「例え大学の学位を所持している私でも、日本の漢字は全く読むことができませんでした。宿泊できる場所もなかった私は、夜も街を歩き回って1ヶ月以上を費やしました。」

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「24時間営業の店や飲食店を巡っていました。食べ物は、難民を支援する団体からサポートを受けました。この時期は、私の人生で最悪の経験でした。それと同時に良い学びも得られたと思っています。」
 
雨風しのげる家を探していた彼。

当時WELgeeでは難民の人たち向けの宿泊シェルター兼シェアハウスを都内で運営しており、それまで滞在していた人が別の住居へと移るタイミングと重なったため、彼を受け入れることになった。

Mさんと、彼と行動を共にしていた同国出身の難民認定申請者一人と、そしてWELgee職員3名の共同生活が始まった。

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日常風景

▲夏は外より暑く、冬は外より寒い古い木造住宅で、国籍も年齢も性別も異なる若者が共同生活を行う。

綺麗好きなMさんは、毎朝早朝に、一張羅のスーツやYシャツにアイロンをかける。お風呂場にピカピカに洗われたスニーカーが並べてあった。他方私たちの穿き物はいつも無造作に玄関に転がっていた。毎日のように深夜に帰ってくる職員のために、コンゴ料理であるマデズ(豆の煮物が乗ったご飯)を作ってくれていた。

1ヶ月もしないうちに、同じ釜の飯を食う仲間として、打ち解けあっていた。

◇WELgeeのアンバサダーとして全国で対話を重ねたMさん

WELgeeでは難民当事者の仲間たちとともに企業や学校にて講演やワークショップを行う機会が多く、共同生活をしていたMさんは、積極的に講演に参加してくれていた。
  
終戦記念日に開催された「平和のための戦争展」では、老若男女の市民とともに平和について語り合い、

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日系メーカー会社での研修で登壇した際には、社員さんとともに解決したい社会課題についての対話を行なった。

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ある研修では彼の一言に、場が沈黙することもあった。

社員研修に参加している社員さんたちに対して、Mさんが真っ直ぐ目をみて「あなたたちのビジョンはなんですか?」と尋ねたときだ。
 
「朝職場に行って、夕方家に帰りテレビを観ながらビールを飲んで...同じことを繰り返すことはできるけれども、本当にそれで良いのでしょうか?自分にしか変えられないことがあるのではないでしょうか?私たちは若い。私たちは職場や社会を変えることができると思います。」

その言葉を受けた社員さんはハッとした様子で答えた。「自分と自分の家庭を幸せにしたい、とは思ったけれども、社会をどうしたいいうことは考えたことがなかった。」

彼の放つ言葉は、人を動かす力があった。

◇「難民となった時間を無駄にしたくはない」

Mさんが、私たちとの共同生活の中でよく口にしていた言葉が2つある。

「自分に何ができるのか?」と、「難民となった時間を無駄に過ごしたくない。」という言葉である。

彼のこの発言の背景には、彼が母国の未来を想い、産婦人科医として、そして若者の政治運動の幹部として活動をしていた経験がある。

母国で医科大学を卒業したMさんは、産婦人科医の研修医として3ヶ月間病院に勤務をした。彼が勤務した病院は、一昨年ノーベル平和賞を受賞した、デニス・ムクウェゲ氏が活動する病院と同じ地域で、同じ問題に取り組んでいた。

(ムクウェゲ医師についてはこちらの記事に詳しく書いてあります。)

コンゴ民主共和国では、第二次世界大戦以降、最多の犠牲者(累計約600万人)を生み出している紛争が今なお続いている。紛争の理由は、同国が豊富な希少金属(レアメタル)に恵まれていること、9カ国もの国々と隣り合っていることなどに起因している。

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レアメタルはパソコンやスマートフォンなど、電子機器の製造に不可欠な素材であり、これらを資金源とする武装勢力の衝突 ー いわゆる「鉱物紛争」が、世界最大の避難民を生み出す原因の一つになっている。

その一番の被害者は、鉱物資源が豊富な地域に暮らす一般市民だ。武装勢力は、一般市民への恐怖心を植え付けることでコミュニティ全体を支配したり、地域から追い出したり、一生残る傷や性器を機能させなくするような暴力を女性に振るうことで、長期的にコミュニティの弱体化を図ったりするのだ。

Mさんは、研修医として、傷ついた女性たちを医術を通じて回復させることに奔走していた。だが、傷ついたコンゴを立て直すには、それだけでは十分ではなかった。

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研修医として働くMさん。(プライバシー保護のため一部画像を編集しております)

植民地支配時から続く武装闘争、外国軍の侵略、国の資源・財源を私物化する独裁政権の存在、デモを起こす市民への無差別な暴力...複合的な原因から、同時進行する様々な紛争に、国民たちは嘆いてきた。

そんな中でも、Mさんは若者たちの可能性を信じ、若者の政治参画を促す青年協会を設立した。協会のメンバーとして様々な活動を行なった彼だがその後、政治的動乱に巻き込まれ、迫害の脅威にさらされ、国を逃れざるを得なくなった。

逃れた先の日本でも、ずっと母国の未来や、ともに活動をしていた仲間のことを思っていた。Mさんは、スマートフォンやパソコンでニュースをチェックしたり、SNSで仲間の安否を確認していた。

「難民になった時間を無駄にしたくない。ただ逃げてきたのではない。」
  
「まだ自分の同胞たちが母国で頑張っている。その人を置いて、自分だけ逃げようということではない。彼らが今頑張っていて、命をせめて紡がれる場所に行って、自分が何ができるのかを学び、持って帰ることが自分の役目なんだ。」
 
彼は、繰り返し、繰り返し私たちに伝えてくれていた。

◇「医療に従事する仕事」

母国の未来のために、私ができることは何だろう?
  
彼が出した結論は「医療による貢献」だった。母国には、優秀な専門医がたくさんいるが、彼らへの高度な技術を習得する機会や、他国の医師と関わる機会が限られていた。
 
「私のバックラウンドを活かして、どうやったら日本の医療現場に携わることができるのだろう?」
  
彼はこの熱烈な想いを、同じ屋根の下で暮らす私たち職員に共有してくれた。
 
しかし、私たちは外国人を日本で医師として育てる専門家でもなければ、医療現場で働くための知識などない。そんな彼の想いを受けた私たちは、彼の問いの答えを探すべく、まずは「医療に従事する仕事」の入り口を片っ端から探した
 
就労伴走事業部の山本の母親が看護師であったこともあり、病院で働く現役医師とのつながりができた。

その医師を通じて外国籍の医師が集まるご飯会に参加したり、別のつながりから元々難民認定申請のため来日し、現在は国内の医療系大学院で教授として働くコンゴ民主共和国の人の経緯を聞いたりする機会をいただいた。そしてさらには、難病の子供たちとその家族が参加する運動会へと参加させていただいた。

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▲ 公益社団法人が開催する運動会に参加した様子(プライバシー保護のため一部画像を編集しております)

様々な人たちと出会う中で、医療関係の仕事に就くまでの途方のない道のりに狼狽することもあった。イエメン出身で、日本でPh.Dを取得し、医師を目指す人と話した時。外国人として医師を目指す彼のアドバイスは、現実的な指摘だった。
 
「医療現場に入るためには、最低5年はかかると思うよ。日本語を漢字までマスターして、日本の医師免許を取得し、現場に研修医をして入るところまで5年。そのゴール感を見直した方が良いのではないか?」

◇違いは「言語」だけだった。医療現場で見えた可能性

医療従事者との対話の機会だけではなく、実際の医療現場の診察に同席する機会をいただいたこともあった。

2018年12月。現役医師の知り合いのご好意で、多忙を極める小児科医・婦人科の現場へと招待をしていただいた。医師が患者を診察する現場に立ち合ったり、院内の医療機器をみて回った。本当にありがたいことに、婦人科では、帝王切開の現場を見させていただいた。

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▲院内見学をした時の様子(左がWELgee山本、右がMさん)

Mさんは、当時を振り返り、こう話す。
「これまでは”日本で医師になるのは難しいよ”、”夢を変えた方がいいかもしれない”、”日本の医療の職場はこうだよ”と言われつつ、他の人の話から想像することしかできませんでした。」
 
「しかし、この経験は私にある気づきをもたらしてくれました。日本の病院で行われていることは、私の母国で行われていることと同じであり、唯一の違いは”言語”だけであることに気づいたのです。」
 
他の人から話を聞くだけではなく、またインターネットで調べるだけでなく、直接現場に足を運んだことで、初めて自分が医療現場で働く具体的な想像をすることができた。その気づきが、多くの人たちから途方もないと言われていた、医療従事者として働くことへの一筋の希望となった。

◇医師から「公共衛生」の道へ。目指すべき具体的指針が定まった彼は猛進した

多くの医師からアドバイスを受けたのは、「医師」ではなく、「公共衛生」のスペシャリストへの道だった。

医師として医療現場で個別の患者と向き合うことだけでなく、より多くの人たちやコミュニティに対して医療知識を使った貢献ができることに心を惹かれたMさんは、公共衛生を学ぶために大学院へと進学することを決意した。 

大学院のために必要なことは何か?
 
まずは日本語を学ぶこと、そして入試のための英語や面接の勉強、さらに入学のための費用を得ること。具体的な目標が見えたMさんは、迷わず行動したした。
   
彼の進学までには、本当に多くの人たちの支えがあった。家を探す期間中に住まわせてくれた人、日本語教室に通うための費用をサポートしてくれたボランティアの人。大学院設立に携わった人からの多大なるご助言やお力添え。彼の入学費を援助してくれた人。推薦書や様々な相談に乗ったWELgeeのプロボノメンバー...
 
目指すべき道筋を明確にしてくれた数々の機会、彼の医療に対するパッション、そしてそのパッションを支えてくれた人たちの協力により、今年の3月にヘルスケアイノベーションを学ぶ社会人大学院へと合格をした。

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▲Mさんの入学を祝う集まりの様子

◇ 母国と日本の架け橋になりたい

昼は病院に勤務し、夜は大学院生として多忙を極めるMさん。そんな彼がこれから成し遂げたいビジョンを聞いた。

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▲ 2年前、シェルターで日本語の単語を教えていたことが信じられないほど、流暢な日本語で会話をするMさん

「私の国には、優秀な医療従事者がたくさんいます。しかしながら、日本のように科学や技術を学ぶ機会が非常に限られています。もしも私が日本で最新の科学や技術を学び、私たちの国の未発達な部分に活かすことができたら。もしも、志ある母国の医師の卵たちが、日本の最新の医療現場に足を運ぶことができたら、と考えています。」

「アフリカ内では、元英国植民地には諸外国との友好関係があり、医療従事者が繋がる機会が数多くあるのですが、私たちの国には外交がありません。私たちの国のリーダーは、母国の未来や若い世代には興味はないのです。私は彼らの未来を支援したい。」

◇「難民という言葉」の裏にある、その人の物語を見て欲しい

Mさんは、実績も前例もない私たちを信じ、情熱や努力を注いでくれた。
彼はWELgeeに対して、こんなことを伝えてくれた。

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「自らの命を守るために母国を去る決心をしたとき、文字通り、全てが終わったと思いました。しかし、自分を信じ、人生のゴールを再定義することのできる、強さとモチベーションを、自分自身が持っていることを、WELgeeは再び気づかせてくれました。」
  
難民として国を追われることは、その人が母国で築いてきた信頼関係やキャリア、地位や名声の全てを失うことを意味する。しかし、一度「難民」とならざるを得なかった人は、そのまま全てを失ったままでいるのだろうか?
 
彼の話を聞いた時に、そうではないと思った。  
あらゆる人間には、己の人生を切り開く意思がある。
  
どんな境遇にあろうと、「難民」として故郷を追われようと、人間には再び人生を再スタートする力がある。

そんな彼ら一人ひとりには、「難民」という言葉では括ることのできない、積み上げられてきた経験や、個性、強みがある。
  
彼らを表現する際、私たちはよく「難民」という言葉を使う。
 
しかし、「難民」と呼ばれる彼らとともに活動する私たちは、「難民」という言葉の背景にある、その人個人の物語や人間性を忘れてはならない。Mさんと共に過ごしてきた日々は、そんな当たり前のことを、私たちに伝えてくれた。
  
今日は「世界難民の日」。
そんな日だからこそ、他者との間に線を引かない方法を、みなさんと一緒に考えて行きたい。

◇ 最後に...

WELgeeファミリーとして、難民の人生再建を応援しませんか?

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▲1日30円〜の寄付を、Mさんのような方々へとWELgeeが伴走するために使用させていただきます。

様々な理由から、故郷を離れざるを得ない人たちがいる。

国境を超えた彼らは「難民」と呼ばれる。人の移動は、私たちの社会にポジティブな影響もネガティブな影響ももたらす。正解がないこの課題に対して、私たちは、まだまだ試行錯誤の道中にいる。「難民」と呼ばれる私たちの仲間はその道のりを一緒に作る同志だと、WELgeeは信じています。

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私たち、そして彼らとともに、未来を築きませんか?

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