五章:軌跡を振り返る 1:価値観と支援観の繋がり


6:福祉について考える。
https://note.mu/welfare/n/nee3ac0914d08


障害分野に行った当初、僕は自己研鑽に余念がなかった。
努力の動機にはやるしかないという切実な思いがあったし、
とにかくいい支援がしたかった。
理解が難しくて学童の時のような手応えも得にくかったが、
その分からなさがむしろ励みになっていた。
しかし、前に思いがありすぎて
利用者の思いを置き去りにしてしまったように、
この頃の熱量にはどこか危うさもあったような気がする。

外部の会議では見解の違いから分かり合えない気がして
虚しくなることもあったし、思いが燻るような感触があった。
視野が狭くなり始めて、仕事に過集中していたのかもしれない。
頼れるものや繋がりがそこしないという感覚があって、
そこに打ち込んでいくのは、自然な流れだった。

当時立ち上がって間もない組織だったこともあり、
研修の必要性をみんなが感じ始めていた頃に、
僕も同じく研修は必要だと思っていたから、
資格をもっているということもあり、
自然な流れで研修をするようになった。

初めての研修は今思うとかなり一方的なコミュニケーションだったと思う。中には泣き出す人もいて、でもそれでいいと思っていたし、
それくらい厳しくなくてどうする、とも思っていた。

知識と技術をどん欲に求めて勉強と考察を積み重ねる日々は、
まるで山を駆け上がるかのようで、
数年経ったときに息をつくように立ち止まった時、僕は孤独を感じていた。

途端に、つまらなく感じた。独りで仕事をすることはできない。
当然のことだが、急に気づいて、努力を登山に例えていたが、
その例で言うならば、下山した。

別に努力をあきらめたわけではないし、
投げやりになったわけではないけれど、どん欲さは消えていた。
そういう努力の仕方が、苦しいだけになっていた。
評価をされたのは嬉しかったが、虚しさの方が大きかった。
信じてくれたのが嬉しかったから、それに答えたかっただけだった。
当時の働く状況と積み重ねた努力を天秤にかけたら、
「人生はこれだけでいいのか」とやりきれなくなったのだ。
周りからの期待と本来の自分とのギャップも苦しかった。
ぼくはただ融通が利かず記憶力が悪く、要領が悪く、
人付き合いも微妙だから、せめて勉強だけは、と
知識とありとあらゆる失敗を判例にして頭に叩き込んでいったに過ぎない。全て努力によるものだ。
だから新しい領域の挑戦はひどく臆病だし、全然上手くいかない。
本来の僕は、そうなのだ。それが、ありのままの自分なのだと、
今なら思うけれど、当時は、そういう自分が他人に知られるのが、
怖かった。

研修担当になって、数をこなしていた頃だった。
これも例えだけれど、山を登っている途中の人をちらほら見かけた。
そういう人たちにもっと豊かに教えたい、と
教育系の本を読んで出会ったのが
「ファシリテーター」という姿勢だった。

受容と共感に基づいて発言を引き出して会議を有意義にする役割だが、
福祉的な態度と掛け合わせるとどんな研修になるのか興味があって、
それまでになく受講生の認識に焦点を当ててみた。
応答の中で見えてくるものを大事にしようと思った。
双方向のコミュニケーションが多くなり、お互いに話し合って、
そこから見えるものを大事にする在り方に変わっていった。
それは対象が利用者かそうではないかの違いで、
学童の頃に支援を変えたプロセスとまるっきり相似していた。
その人の認識や考え方が、そのまま理解の仕方になる。
それぞれに違う理解の仕方があることを踏まえたうえで、
組織が大きくなればなるほど、
従業員一人一人の価値観を受け止めた上で、皆の考えを議論することで、
新しい価値観をリアルに認識できることが大事になっていった。
自然と研修は従業員の一人一人に焦点を当てるようになった。

しかし見落としていた。従業員の悩みを聞いていくには、
利用者相手の福祉的技法のように、
傾聴的なカウンセリング技法が必要だった。
そうでないと悩みの傾聴と解決を一体的にはできない。
少なくても僕にはまだその技術はなかった。
だから、心理学に関する動画やメルマガを片っ端から見て回った。
同時にキャリアを支えていくには
運営の考え方も教えていかなくてはいけないから、
それも意識的に吸収していった。
会社が大きくなる速さに自分の技術が追い付くので必死だった。
業務的な大変さと相まって、苦しい時期だったが、
それでも乗り切れたのは、
自分のためだけの努力ではなかったからという気がする。
少なくても、
それは今までの努力の仕方とは動機的な部分からまるで違っていた。

従業員の悩みの内容が「利用者を怒れない」「共感ができない」
「利用者の言うことを聞いてしまう」といったことで、
深く聞いていけるようになると、
「仕事」≠「プライベート」と切り離されたものではなく、
「仕事」⇋「プライベート」という相互に関係するものだと
明らかになってきた。

福祉の力量として、「技術か、人柄か」という議論があるが、
それは対立ではなく、補完だったのだ。
全体的に教える大枠の考え方と、
個人に焦点を当てた価値観の両輪で研修は進むようになった。
心理的な技術、福祉的な知識、経営的な視点。社会情勢と歴史的背景。
それがなければ本当のことは教えられない。
福祉だけでは支援しかできない。
でもそれだけは足りないのだと知れたのはとても大きな学びだった。

登山で言うと、登山する人に声をかけて回るようになった。
「その歩き方だと危ないよ」とか、
「そう考えてるんだったらこっちのほうがいいよ」とか。
もしかしたら遭難するかもしれないから、
迷ったら声をかけようと見守ったりもして、
見晴らしのいい場所から一人一人を見守って、
必要に応じて声をかけて廻るような動き方をしていた。
今まで努力したことは全く無駄でなかったし、
人の弱さを理解するには失敗さえも財産だった。
僕は一人ではなかったし、
関係性が出来ていく中でもう一人でもいられなかった。

そうして出た外部の会議の場では、見え方が全く違った。
利用者の幸せを考えるのに、
誰の意見が正しいかを考えるのはナンセンスだと思った。
それは言うなれば、皆で食材を出し合って、
利用者が一番食べたいと思うものを作ることに似ていた。
利用者はカレーを食べたいと言っているのにピーマンは出さない。
それぞれのアイディアを食材のように持ち寄って一番いいものを作る。
会議とはそういうものなのだと、今は緩やかに捉えている。

支援の大きな枠組みは、決して一人では完結しない。
そういう広がりの中で自分が与えられるものを、
その時その時で差し出せるというのは、
結構豊かな生き方なんじゃないかと思う。
その関係は開かれている感じがするし、可能性を感じる。

これなら普通に相談とか乗れるのではないか、
と知り合いの相談も受けてみた。
多くの人が色んなことで悩んでいて、その話を聞いて、一緒に考えて、
解決できる方法を探してみる。
自分なりの方法を見つけて、取り組んでいく過程を、応援していく。

振り返るに、仕事をしていて色んなことがあったし、辛いことも、
苦しいことも、
やめたいを通り越して心が病むのではないかと思ったこともあった。
今もこうして働けているのはすごく運が良かったのかもしれないと
思っている。
すごく頑張ったのだけれど、それとは別に、今自分がこうして、
誰かの悩みを聞いて、一緒に考えられる、というのは、
利用者だったり、研修で教えるという立場だったり、
色んな学びを通して得た能力でもあって。
それは会社からもらったものなのだと思っていて。
つまり、社会との関係の中で身についたものだから、できることなら、
それは社会に返していきたいと思う。
一般の人の話を聞くことで、そういうことに寄与できるなら、
それはとても豊かな循環じゃないかと思うのだ。

2:良い支援について
https://note.com/welfare/n/n27cd0ce71b70



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