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「百万円と苦虫女」を観た25歳のわたし

おなかが空いてはごはんを食べ、眠くなっては布団に入り、アラームが鳴ればパソコンを開いて仕事をして、そんな日常が桜が咲く前ぐらいから続いている。

これまでは自分が生きることで精一杯。
いや今でもそうなんだけど、今以上に、自分が生きていくために労働し、対話し、笑い、泣き。
自分が求める「暮らし」への興味なんて一ミリもなかった。

だけど今、時間の使い方や人との距離感が1年前とまるで違って、人とは一歩遠ざかり、自分自身とはグッと近づいて、そうしてみると自分を取り巻く環境にも目がいくようになって、何度か立ち止まって、世の中を俯瞰してみるようになった。

おうちにいても美味しいごはんは届くし、レストランに行けば店の個性が感じられるお弁当だって増えてきたし、みんなの愛や想いの結晶が、人の努力や社会の仕組みやサービスによって形になって、そして私の元に届いて。
人の想いって素晴らしいなと、心が打たれるあたたかな気持ちになることがたくさんあった。

だけど、その反面、社会に対して窮屈な気持ちにもなったこともある。

想いを形にすることや、言葉にすること、それを発することが、いつからか億劫な世の中になってしまった。世の中のせいなのか自分のせいなのかは分からないけど、それと同時に、その世の中に飲み込まれた私は、形にすることも、対話することも、発することも避けるようになってしまった。

人に気を使ってしまう癖と、人を気遣って生きたいという私のポリシーが衝突して、そこで流れ星がぶつかり合うみたいに弾けてより一層輝ければよかったものの、シュンっと互いに光を消して真っ暗なブラックホールの中に落ちてしまったような気持ちに、ある日どこかのタイミングでなってしまった。私には弾ける力が足りなかったんだと思う。

大袈裟に言ってしまえば、「自分が自分じゃなくなっていく感覚」というものをそこで初めて感じたのだ。

思えば昔から自分の道は自分で決めてきたと思う。
だけどありがたいことに、そのレールを敷いて地盤を固めてくれる人が必ずいたような気もする。

人は一人じゃできないことの方が多いし、私はみんなで何かを成し遂げる方が好きなタイプだし(文化祭とか大好きな人だった)、大人になってもその気持ちは忘れずにいたいと思っている。

だけど、今感じている「自分が自分じゃなくなっていく感覚」から突破するためには、自分でレールを敷き、地盤を固め、自分の足で歩いていくということが必要になるのかもしれない。もちろん叶うなら、その上で誰かと一緒に歩んでいきたいとは思う。

人が敷いたレールの上を、前に進んでいこうと頑張って車輪を回すけど、自分の想いは後ろに進んで行こうとするから、互いが反発してキイキイ鳴るのは目に見えている。そんなの自分も誰も幸せではない。

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なんで急にそんなことをここで書いているのかというと、自宅で過ごす期間中に「百万円と苦虫女」を観なおしたとき、気持ちが溢れ出しそうになってしまったのだ。

だいぶ前(16歳ぐらいの頃かな)に観た時は、鈴子が転々している時の心情の変化とかよく分からなかったし、中島くん何やってん!みたいな論点とはずれている箇所にしか目がいってなかった。
(※詳しくは映画をご覧くださいませ。中島くんの不器用さが最高。)

だけど25歳になった今、この映画の深みの恐ろしさに気づいて涙が止まらなかった。自分を探すのではなく自分から逃げている、だけどその度にいやでも他人や自分と向き合って人としての地盤がちゃんとできていく。鈴子の心が変わっていくにつれて、行動や言動の強さや柔らかさが変わっていくのが感じられて、人のリアルな成長を観ているような気持ちになる。

鈴子の生き様や考え方に共感する部分が多かった。そしてわたしは鈴子のようになれるだろうかと考えた時、いまの自分から逃げることが怖くてできないと思ってしまった。

自分の道を自分で決めてきたと思っていたのに、いつからかわたしは波にのまれ、そこから抜け出すことが怖くなってしまったのだと、またそれに怖さを感じてしまった。そしたら「自分が自分じゃなくなった」感覚になっていたことに理解ができたというわけだ。

別にここに書いていることに深い意味はなくて、ただこの想いと「百万円と苦虫女」を観たことを忘れないように備忘として書き記しているだけなのだけど。もしまた10年後にこの映画を観たとき、わたしはどんな気持ちで観るのかなと未来に想いを馳せる。

鈴子の強さにさらに圧倒されるかもしれないし、相変わらず中島くんみたいな人は好きだなーってことだけを思うかもしれないし、分からないけど。

今の時代をひっくり返すことなんてできない。
だけど状況から逃げることはできる。

だけどだけど

自分は自分と一生一緒にいなければならない。
そこからは逃げられない。

だから自分が納得して生きていくためには、「自分を愛せる暮らし」を営む必要があるのだと思う。世の中に合わせるんじゃなくて、自分に寄り添う。

自分の歩幅、スピード、行きたい方向で進んでいかないと、世の中に合わせることに疲れて、立ち止まったまま置いていかれちゃいそうだ。

このnoteの内容を、もう自分の気持ちを曝け出すかのように、那須塩原に行く1時間半の新幹線車内で殴り書きした。そして今、東京に戻る1時間半の新幹線車内で加筆修正をしている。そんな余裕が生まれているのが不思議だ、滞在したのはわずか数時間なのに。

那須の自然に触れた。
那須で最高のおしゃべりをした。
自分が解き放たれていく感覚があった…ような気がする。

さっきまで雨が土砂降りで、曇ってたのに、太陽がこんにちはして、虹が出てた。久しぶりに虹を見て、電車内で写真撮る人苦手なんだけど、自分の感情のまま控えめにカシャって撮った。

「百万円と苦虫女」の映画でも、鈴子が空を眺めるシーンが所々にある。少し気持ちが分かったような、でもまだ分からないような。そんなムズムズとした気持ちになっている。

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最後に。
「百万円と苦虫女」の中でグッとくる言葉。

中島「自分探し、みたいなことですか?」
鈴子「いや、むしろ探したくないんです。どうやったって、自分の行動で自分は生きていかなくちゃいけないですから。探さなくたって、嫌でもここにいますから」


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仙台市生まれ、東京歴も早6年。「食」の分野はなんでも好き。26歳、将来の夢は、地域で活きる(生きる)仕事をすること。あわよくば、水がおいしい地域でタイル貼りのカウンター越しにうどんを茹でる名物居酒屋女将になりたい‥!