火曜午後一時
喋る前にお菓子を飲み込み、懐紙ごと机の上に置く。赤羽先輩は食事やお茶の最中に話そうとするときはいつでも手を止める、そういうところもたまらなく好きだ。会話を大事にするあまり他のことを疎かにする。それが意図的かどうかはわからない、きっと無意識なのだろうけれど、一旦話に集中しようとするのが愛おしい。
そうして話し始めると手も一緒に動くのも好きだ。別に会話の説明のために手を動かすわけじゃなく、楽器から音を出すために指を動かすのと同じ、言葉を発するための自然な手の動き。
思い出せないものを手繰り寄せるように波のように動く指、思い出したり同意をしたりするときに親指と中指の摩擦で鳴らす音、その忙しない指や手の動きと共に流れ出す言葉を、僕は聞くと同時に見ている。
先輩は会話に集中しつつ僕の目を見る。僕も先輩の目をじっと見つめる。そういうときの先輩は心底愛おしいような、慈しむような目をしている。その目の向こうに潜んでいる感情が僕に向けられているのか、会話の中に出てくる誰かに向けられているのかはわからない――きっと後者だろうけれど、先輩がそんな顔をするものだから、僕は嫉妬も忘れてつい彼女の目や話しぶり、自然と微笑むときに上がる右頬と下がる左頬に見入ってしまう。片頬でしか笑えないところに先輩の二面性が見える気がする。
一通り話し終えるとまたお菓子に戻る。何事もなかったような顔をしてお菓子を口にし、僕がこの手で点てたお茶を飲む。右手で持って左手に乗せるのは忘れない。
そうして最低限の作法を忘れないところに彼女の几帳面さが、肘をついて身を乗り出し、僕の話に歯を見せて笑うところに彼女の粗雑さが見える。
でも二面性が僕を嫌な気分にさせることも、少しお行儀の悪い先輩が僕を適当にあしらうこともない。僕は粗野な先輩の姿にある種の人間味や安心感を見出し、先輩がそうして自然体で接してくれることに喜びさえ覚える。
大体所作が少しくらい雑だからって先輩の魅力が失われることはないし、逆にそれさえも格好良いと思わせる説得力が全身からオーラのように滲み出ている。
じゃあ帰りましょうか、と部室の鍵を閉めた頃、廊下の向こうから大きな悲鳴が聞こえた。思わず先輩の方を見ても全く動揺した様子はなく、いつも通りゆっくりと階段に向かって歩いていく。
階段に繋がる廊下は部室前と違って広く、途中にはエレベーターがある。その開けた場所にうずくまる……男の人? と、傍でぎゃあぎゃあうろたえている女の人がいた。それでも先輩は慌てる素振りもなく、ゆっくり歩いて二人に近付いていく。
「大丈夫ですか?」
ああ、こんなに胡散臭い連中にも先輩は優しい。先輩、格好良すぎる。警戒心がなさすぎて詐欺に引っかからないか心配になってしまう、僕が番犬として先輩のことをお守りしなければと思うくらいだけれど、同時に先輩はとてもしっかりしているから絶対に詐欺になんか引っかからない。そこも格好良い。
「こ、後輩くんが! この場所で霊の反応があって、それを見て、ああどうしよう、きっと憑かれたんだ! どうしよう、どうしよう!」
随分芝居がかった動揺だ、まるで自分が悲劇のヒロインみたいに。あなたあんまり後輩くんのことを心配していないでしょう、どちらかといえば興奮しているみたいだし……とは言えず、隣に立っている先輩を見る。先輩も心底呆れたような顔でポケットに手を突っ込み、少し頭を傾けて立っていた。
そんな先輩から長いため息が漏れるのが聞こえて、先輩もう放っておいて行きましょう、と言いかけた時だった。
「川西さあ、霊感あるんでしょう」
「へ? ありますけど……」
赤羽先輩にしては大きな声だった。パニックを起こしていた人が一瞬黙ったので、きっと二人を落ち着かせるため、わざと聞こえるように言ったのだと思う。
「その辺に魂落ちてるの見えない?」
「えっ?」
「びっくりしたから魂を落としたんだと思うんだよね。まだこのあたりに落ちてるはずなんだけど」
全く予想だにしていなかった言葉だった上、何を言っているのかよくわからなかった。先輩もオカルトに騙されてしまったのか、と絶望しかけたけれど、先輩はあくまでそれと悟られないような呆れ顔のままだった。
先方のために演技をしている、のだろうか。だとしたら乗るしかない。
「んー……あっ、ここにありますよ」
本当は何もない。あるのはただの床、見慣れた部室棟の廊下だけだ。それでも先輩は膝を抱えてぶつぶつ言っていた後輩さんを抱えて、僕が指差した場所へとどうにか引きずって連れてくると、撫でるように優しく頭の向きを変え、目の前に座った先輩の方を向けさせた。
「落とした魂が戻ってきたら、お兄さんもいつも通りに戻りますからね」
僕たちに説明したのか、本人に言い聞かせたのか、僕には判断がつかなかった。そうして先輩は地面から水でもすくうように両手を合わせると、そのまま両手で後輩さんの背中をさすった。
「まぶやーまぶやーうーてぃくーよー」
いよいよ演技か本気なのかわからなくなってきて、僕はもう泣きそうな気分になっていた。先輩は相変わらず聞き慣れない呪文を唱えながら何かをすくい、すくったもので後輩さんの背中をさする。また唱えながら掬ってさする。
三度目の動作を終えたときだった。後輩さんの手足に力が入り、顔に生気がみなぎってきたのだ。僕は思わず息を呑み、じっと先輩の手元に見入ってしまった。
彼が実際に憑かれていたわけではない、僕が見てそう思うのだから間違いはない。だから赤羽先輩が除霊した様子もない。だから本当に落としてしまった魂を先輩が戻したとしか思えない……でもそんなことがあり得るのだろうか?
「ああ、あ、ありがとうございます! ありがとうございます!」
感動した様子の二人がぺこぺこ頭を下げるのを見て、先輩はんーと喉の奥で唸りながら立ち上がり、座り込んでいた後輩さんに手を差し伸べて立たせた。今になってよく見ると、同じ学年の人だった気がする。名前は知らないけれど、確か新入生の宿泊研修で見た顔だ。
先輩は立たせた後輩さんのことをまるで美術品でも鑑賞するかのように見ていたけれど、突然ばしっ、と肩甲骨のあたりを叩いた。かなり強く叩いたらしい。
「周りに流されて見えてもいない幻覚に怯えるのはやめなさい」
「え、っえ」
泣きそうな顔の後輩さんは赤羽先輩を見て、心底救われたような目をした。そう、赤羽先輩は頼りになって格好良くて素敵なんですよ。きみのじゃなくて僕の赤羽先輩だけれど!
「まっすぐ立って、体幹で物事を受け止める」
「う、あ、はい」
「よろしい」
あ、ずるい、先輩に褒めてもらえて。僕だって先輩に褒められたい。短い言葉なのにどうしてあんなに嬉しくなるんだろうな、先輩からの褒めって。
「大体この部室棟に霊なんかいないんですから。だよね、川西」
「そうですね、見たことないです」
二人はフィクションみたいに絶句して、ぽかんと口を開けたまま僕と赤羽先輩を見た。
「じゃ、そういうことで」
そう言い残すと先輩は振り返りもせず、階段に向かってすたすた歩き始めた。僕は二人に軽く会釈をすると、先輩の後を追って階段を降りる。
「さっきの呪文、あれ凄かったです。どうやったんですか? 何なんですか?」
「んー……『痛いの痛いの飛んでいけ』」
「え、ただのおまじないですか?」
拍子抜けして聞き返してしまう。先輩も僕を見上げてちょっと肩をすくめ、原付の後ろに積んであるコンテナに荷物を下ろした。
「文言は違うよ、『魂よ追いかけてきなさい』って。でもたまげるって魂が消えるって書くでしょ?」
「そうなんですか? いやそうじゃなくて」
「ま、どちらにせよただの暗示だよね。痛いの痛いの〜もそう。『実際に痛くなくなる』んじゃなくて『痛くなくなったことにする』だけ。霊に取り憑かれて、なんて言ってたからね。仰々しいオカルトみたいなものを信じないわけがない」
「じゃあ催眠で騙しただけ……ですか?」
「騙したなんて人聞きが悪い、落ち着かせたんだよ」
また明日ね、と言いながらエンジンをかけて走り去る。先輩の格好いいところをまた一つ知れて凄く嬉しかった。
三限の講義が終わり五限までの時間を潰すため、特に予定はないけれど部室に足を運ぶ。寝起きから今日が火曜日だと認識しているのに、時間割は月曜日で動くのって変な気分だ。でも火曜日の時間割だったら赤羽先輩に会えなかったから、やっぱり月曜日の時間割でよかった。
今日は赤羽先輩に会えるだろうか、と思いながら三階に辿り着くと、ホールで誰かがうろうろしているのが見えた。
「あ……」
上がってきた僕の方を振り返り、ほっとしたような、救いを求めるような顔をする。確か昨日先輩が助けた後輩さんだ。多分僕と同学年の人。
「昨日眼鏡の先輩と一緒にいた人……だよね?」
「あ、うん、川西。きみも確か同じ一年生だったよね、宿泊研修で見た気がするんだけど」
「うんそう、東森だよ。オカ研なんだ、部室はちょうどこの真上で……あ、昨日の人は一緒じゃないの?」
赤羽先輩? 先輩に何の用なんだろうか。とりあえず落ち着ける場所で話さないか、と提案し、二人で茶道部の部室に入った。東森くんはいつも先輩が座ってくれる席に落ち着かない様子で浅く腰かけ、辺りをきょろきょろ見回したり、僕の動作をじっと見たりする。
「ええと……それで、赤羽先輩に何の用なのかな」
「赤羽先輩……あの人赤羽先輩っていうんだ」
小さな声で確認するように東森くんが呟く。きみの先輩じゃなくて僕の先輩だから、気安く名前を呼ばないでもらいたいんだけれど、そんなことを言ったら先輩が怒るだろうから言わない。
「いやお礼し忘れてたなと思って……赤羽先輩が助けてくれたから。あれ、魔法?」
「あれは魔法じゃなくて催眠だよ」
「さ、催眠?」
面食らった様子で聞き返される。どうして動揺したんだろう、さっき言っていた魔法の方がよほど非現実的なのに。
「そっか、それで……いや、ぼくの先輩もあんなのはオカルトじゃない、催眠だって言い出してさ、勉強し始めたらしいんだ」
「ふうん……」
嫌な予感がする、と思った。とはいえ催眠そのものに危険性があるわけではないから、この予感が気のせいであってほしいと願うばかりだった。でも目の前にいる東森君の様子は明らかに変だ、まるで何かに怯えているように見えて仕方がない。
手が届く範囲の人には貸してやりたい、と赤羽先輩が言っていたのを思い出す。僕にはそんなに器用なことはできないし、いつでも先輩のことで頭がいっぱいだけれど、きっと先輩なら目の前で怯えている東森くんのことを絶対に助けるだろう。なら僕も彼に手を貸さなければいけない、赤羽先輩の忠実なるマゾとして。
「まあ何かあったら連絡してよ、これも何かの縁だ。僕にも何かできることがあるかもしれないし、僕から赤羽先輩に助けを求めたっていいしね」
「本当? 頼っていいの? ありがとう川西くん! 心強いよ……」
そう言いながら心底ほっとした様子で僕のQRコードをスキャンする。一体何に怯えているんだろう、いや……昨日の様子だと彼の先輩はかなり思い込みが強そうだ。思い込みの強さとオカルトへの探求心故に暴走してしまうタイプだろう。彼は相手が先輩だから諫めることができないどころか、雰囲気に流されたり非現実的なことでも信じられたりしてしまうが故に巻き込まれやすい、といったところだろうか。
とにかく今は何も起こらないことを願うばかりだ、彼の被暗示性の高さを先輩が悪用したり、とか、集団にパニックを起こさせたり、とか。ないとは思いたいけれど、言い切れるわけでもない。
また今度先輩がいるときに改めてお礼をさせてほしい、と東森くんは晴れ晴れとした表情で言ったけれど、やっぱり落ち着かない様子で部室を出ていった。さっき先輩にいつ学校に来るか聞いて、返事もまだだったのに……と思っていたところにちょうど返信が来る。
『今着いたとこ。五限まで時間あるよ』
ああ、やっぱり先輩は優しい。駐輪場までお迎えに上がろう、もしかしたらそのまま喫煙所に行くかもしれないし、何より一分一秒でも早く先輩に会いたくて仕方がない。部室に鍵をかけたかの確認もせず水道前の窓に駆け寄り、先輩が来たかどうかを確認する。いた。僕の先輩、僕のご主人様!
「赤羽先輩!」
窓から大きな声で先輩の名前を呼ぶ。先輩は僕の方を見上げて喫煙所を指さした。やっぱり煙草を吸いに行くらしい、僕も早く先輩の所に行かないと!
ほとんど飛び降りるようにして階段を駆け下り、乱れた髪を整えながら駐輪場の横を通り抜けて喫煙所に辿り着く。早く会いたいけれど、できる限り可愛いと思ってもらえる状態になっておきたい。
「やあ川西」
煙草に火をつけずに僕のことを待ってくださっていた先輩が、少し嬉しそうに笑って両手を広げる。肩以外の場所に触れないように注意しつつ、それでもしっかりと抱き締めた。ああ、先輩。数日会っていなかっただけなのに恋しくて仕方がなかったんです。
ポケットからマッチを取り出して火をつけ、先輩の隣に腰かける。先輩は褒めるように僕の頭を撫でてくださって、僕はもう千切れるくらい尻尾を振って、大好きな先輩の手を離さないように握った。
快晴の気持ちのいい午後だった。こんなに早く会えると思いませんでした、と言うと、バイトが一時で終わったからお前のために早く来たんだよ、と教えてくださって、先輩が僕に会うために早く来てくれたと考えるだけで今週一週間は生きていけそうだった。
学校祭で一緒にいられなかったのが寂しかったことを知っているから、多分その埋め合わせとして気を遣ってくださったんだろう。先輩がそんなことを自分から言うことはないけれど、僕にはわかる。
「そうだ、さっき昨日のオカ研くんが来ていたんですよ。東森くんというんです」
「ええと……パニック起こして座り込んでた人?」
「そう、その人です。先輩にお礼を言い忘れていたから、伝えに来たらしいですよ」
ふうん律義だね、と何でもなさそうに返される。はあ先輩、僕の自慢の先輩はやることなすこと全てかっこいい! 先輩の前では脳がすきの二文字に支配されてしまって、まともな考えも浮かばない。こんなんじゃ駄目だ、先輩は頭のいい人が好きなんだからしっかりしないと嫌われてしまう、と思うのに、先輩に対する好きが思考を塗りつぶしてしまう。
でも先輩はそんな僕のことも可愛いと思ってくれているかのように頭を撫でてくれる。そうなると僕はもう存在しない尻尾を犬のようにぶんぶん振って、今すぐにでも先輩の前にお腹を見せて寝転がりたくなってしまう。
「あ……それで東森くんなんですけれど、気になることを言っていて」
先輩は煙草を吸いながら無言で僕のことを見る。こうして話を促す姿勢も好きだ。返事をしないからって聞いてないわけじゃない、むしろ邪魔をせず話をさせようとしている。
「東森くんと一緒にいた先輩、あの人が催眠術を勉強し始めたらしいんです」
「へーえ、いいじゃん」
「でも僕心配なんです、ほら、こっくりさんだって原理は催眠なんでしょう。それで集団ヒステリーが社会問題になったでしょう。彼はかなり被暗示性が高いみたいですし、何か良くないことが起こらないか心配で」
「川西は優しいねえ」
まるで自分は優しくないとでも言いたそうな、半分呆れて半分本気の顔でそう言って頭を撫でられる。撫でられて嬉しい。とはいえ僕だって別に、彼らのことを本心から心配しているわけではない。心配なのは少しでも関わってしまった先輩が面倒ごとに巻き込まれたり、そのせいで先輩に不都合が起こらないか、ということだけだ。
「何か起こってからの心配でもいいと思うよ」
「そうでしょうか……」
「わたし達には関係ないしね、あいつらが何やったって。大丈夫だよ、東森くん? が頼ってきたら受け止められるくらいどーんと構えていればいいさ」
「わかりました」
先輩が頭を撫でてくださる。嬉しくて堪らなくて、ぶんぶん尻尾を振って何度かキスをするとスマホが鳴った。先輩と一緒の貴重な時間を一分一秒でも無駄にしたくないから、普段なら先輩の前でスマホなんか見る暇もないけれど、今日ばかりは何か嫌な予感がして画面を開いた。
『たすけて』
東森くんからのLINEだった。噂をすれば影だ、やっぱりよくないことが起こったのだろうか。僕が険しい顔をしていたのに先輩は気付いていて、心配するように僕の顔を覗き込んできた。
「先輩……」
「……煙草吸い終わってからでいい?」
あくまで先輩は呑気なものだった。
残りの煙草をきっちり吸い終わった先輩は(それでもいつもより早く火を消したの僕はわかってますよ、先輩)急ぐ様子もなくエレベーターで四階に降り、東森くんがいるであろうオカ研の扉の前に立った。
僕がどうしようか迷う一瞬の間に先輩は躊躇もせずドアをノックし、中から聞こえていたぼそぼそした声が止まる。少しの間の後にドアを開けたのは昨日東森くんと一緒にいた先輩だった。
「ええと……」
「見学希望です」
赤羽先輩は息をするように嘘をつき、ね、川西、と僕のことを見上げたので、僕もすぐに顔を取り繕ってはいそうです、と答えた。
いつもあんなに素直な先輩が詐欺師のように自然に嘘をつくとは思っていなかったけれど、普段素直だからこそ、ここぞというところで上手な演技ができるのだろう。先輩、かっこいい。好きです。
「ふーん……まあ入りたまえ、今ちょうど降霊術をやるところだから、参加していくといい」
オカ研の先輩はそう言って僕たちを部室に通してくれた。どうやら僕が使っている茶道部の部室よりも広いようだったけれど、正方形のテーブルとよくわからないごちゃごちゃの道具や本が空間を圧迫していて、茶道部室よりも狭く見えた。
赤羽先輩は積み上げられた本の上に当然と言いたいような顔で座り、僕は先輩の足元に座った。東森くんは僕たちの目の前に座っていて、何度も目くばせで助けを求めてきた。
何をそんなに怯えているんだろう。好き好んでオカ研に所属しているはずなのに、何がそんなに怖いんだろう。困惑している間にオカ研の先輩が芝居がかった様子で何やら口上を並べ、テーブルを囲む東森くんと他の二人は手を繋いだ。
「よかったら君たちも参加するかい?」
「や、僕は……あの……」
「わたしが参加します」
赤羽先輩は何ともなさそうな顔でそう言って僕と目を合わせる。そうして先輩は東森くんの隣に座り……儀式のためとはいえ! 僕の前で東森くんと手を繋ぐなんて! これは後で目一杯撫でてもらわないとバランスが取れない。
救いを求める目をした東森くんが赤羽先輩のことを見ると、先輩は大丈夫だから、と小声で呟いて視線を前に戻した。東森くんは顔を赤くして、自分のことを納得させるように何度も頷いていた。
それから降霊会が始まった。降霊会とはいってもオリジナルらしく、というよりほぼ霊を呼ぶ要素はなく、目を瞑って深呼吸をしリラックスするところから始まった。
「ゆっくり深呼吸して――吸って、吐いて。吸って……吐いて。そうしていくうちに段々皆さんの手に霊が降り立ちます。霊が降り立った手は重く、重くなり……動かなくなる。ほら、重くなってきた……」
戸惑う東森くんは何度も唾を呑み、ちらちらと僕を見る。僕は先輩に指示されない限り動かないと決めているので、ただ見守ることしかできなかった。
「手を開こうとしてください。開かないはずです」
赤羽先輩は微動だにしなかったけれど、参加者たちは本当に手が開かなくなったことに戸惑っている様子だった。一瞬部室内がざわつき、オカ研の先輩が鎮める。どうやら手を繋いでできた輪の中心に霊がおり、そいつが皆の手を抑えつけて動かなくしている……らしい。僕には見えない。
深呼吸の時点でおかしいとは思っていたけれど本当に催眠だった。赤羽先輩はいいとして、東森くんは大丈夫だろうか。他の部員たちは? こっくりさんの事例をもっと読んでおけばよかった。今集団ヒステリーが起こったら僕には何ができるんだろう。赤羽先輩をどうやってお守りすれば……。
「手から腕へ、腕から全身へ霊が乗り移っていく。霊に乗り移られた体は重くなる。重くなっていく。霊に乗り移られたら意識が落ちる、ずーんと沈んでいく」
がくん、と力の抜けた様子で東森くんがテーブルに突っ伏した。それを見た他の部員もどんどん落ちていき、残る赤羽先輩一人がしっかり前を向き、オカ研の先輩のことをじっと見つめている。
狼狽した様子の先輩が僕と赤羽先輩を交互に見る。赤羽先輩は動じる様子もなく、まんじりともせず、ただじっとその目を見返した。
「あ、あなたの意識が戻ってきます。戻ってくると霊の姿が見えるようになります。体の奥底から意識が戻ってくる……ゆっくりと戻ってくる。そして目の前の霊を直視してください」
うなだれていた皆が徐々に起き上がっていく。そうして一番最初に騒ぎ出したのは東森くんだった。
「さ、さい、斎藤先輩」
「見えたかい東森後輩! 降霊術はどうやら成功したようだな!」
東森くんはハッハッと短く切れるような呼吸を何度も繰り返し、他の参加者は次々パニックを起こす。呼吸困難、過呼吸、どっちだ? 今すぐにでも駆け寄って解放してあげないと、あんなに震えているのにどうしてこの先輩は催眠を完全に終わらせようとしないんだろう?
こんなの、落ちついていられるはずがなかった。一度パニックを起こした参加者たちは騒ぎ出し、悲鳴や泣き声が響き渡る部室内は既に阿鼻地獄と化して、落ちついているのは赤羽先輩ただ一人だけだった。先輩は微動だにせずじっと斎藤先輩のことを見つめており、パニックを起こす集団の中で彼女ら二人だけが異様なまでに静かなにらみ合いをしていた。
先に動き出したのは赤羽先輩の方だった。ぱ、と先輩が手を開き、両側の人の手を同時に振り払う。そして先輩は立ち上がり、テーブルを壊れるくらい強く叩いた。その音で怯んだ全員の動きが止まり、赤羽先輩に注目が集まる。
「何がオカルトだ、ただの催眠じゃねえか。馬鹿馬鹿しい」
「ば、ば、馬鹿馬鹿し」
「お前ら何も見えてないんなら騒ぐな。何も見えないなら何もいないよ」
東森くん以外の二人は動きを止め、縋るように赤羽先輩を見る。そう、多分東森くんは本当に催眠にかかって幻覚まで見えている。でも他の二人は多分、東森くんが悲鳴を上げたから本当に霊がいると思い込んで騒いだだけだ。
「霊は嘘! 手も動く! お前……斎藤だっけ? 騙されやすい奴だけ騙してパニック起こさせんな」
気付くと他の参加者二人は動けるようになっていて、相当怖かったのか逃げるように部室から出て行った。部室には赤羽先輩と僕、東森くんに斎藤先輩という四人だけが残った。皆示し合わせたかのように無言だった。東森くんだけが苦しそうに早い呼吸を繰り返していて、赤羽先輩はようやく彼のことを見ると、彼の顔が先輩の胸の辺りに埋まるように抱き締めた。
東森くんは暗示が解けていないらしかった。動けずただ呼吸を繰り返すのみだったけれど、先輩が抱きしめたことで酸素の量が減り、呼吸より少しゆっくりと背中を優しく叩かれ、先輩のとんとんに合わせて呼吸の速度も戻っていったみたいだった。
「カウントアップしたら全部元通りになりますよ、大丈夫。霊もいなくなるし手も動きますからね。いち、にー、さん」
ぱち、と指を鳴らす。少し驚いた様子だった東森くんは突然正気を取り戻したかのように動き出し、椅子から転げ落ちるように離れると赤羽先輩の後ろに隠れるようにへたり込んだ。
「東森くん……オカ研、やめた方がいいと思う」
「う、うん、や、める、やめるよ、ありがとう川西くん」
赤羽先輩はしばらく斎藤先輩のことをじっと見つめていたけれど、急にずんずん近付いていき、まるでキスでもするくらいの距離でにらみ合った。斎藤先輩は足がすくんだ様子で赤羽先輩から逃げることはなかった。
僕は東森君が荷物をまとめるのを手伝い、先に彼を部室の外へ逃がす。赤羽先輩はまだじっと斎藤先輩のことを至近距離で見つめていて、二人とも動かなかった。そうして先輩は何も言わないまま踵を返してオカ研を後にした。
一つ下の階の茶道部室に二人を招き入れ、東森くんを椅子に座らせる。赤羽先輩はドアにもたれて東森くんのことを観察しているようだった。優しそうな目でじっと見下ろす先輩は、いつも僕が先輩の足元に座った時と同じ顔をしていて、見下ろされているわけではない僕の方が変にどきどきしてしまった。
僕が点てたお茶を飲んだ東森くんはようやく安心してくれたみたいだった。落ち着かなさそうに動かしていた指は動きを止め、何か言いたそうに口を開いては閉じる。
「東森さん」
赤羽先輩がドアから離れ、ゆっくり東森くんに近付く。東森くんが泣きそうな顔で髪の隙間から赤羽先輩を見上げると、テーブルの上に乗っていた手を赤羽先輩が優しく握った。
「もう怖くないですよ」
東森くんは泣きそうなのか恥ずかしいのか、真っ赤な顔で何度もこくこくと頷き、赤羽先輩の手を少しだけ握り返す。
赤羽先輩は空いている手で東森くんの背中を優しくとんとん叩き、何かを囁いているようだった。小さな声だったので僕には聞こえず、黙って二人の様子を見ていると……東森くんの頭がかくん、と力なく落ちた。机に強く頭を打ち付ける前に赤羽先輩の腕が彼の額を受け止める。
「わたし以外の人の催眠にかかっちゃ駄目だよ」
トランス状態になった東森くんは返事をしない。より深い所に暗示を埋めようとしているのだろう。
「わたし以外の催眠は危険だから、ね。もうわたし以外の人の催眠にかかっちゃ駄目だよ」
じゃあ戻っておいで、と赤羽先輩は誘導し、東森くんの頭がゆっくりと上がっていく。トランスから完全に覚醒したみたいで、赤羽先輩と目を合わせると恥ずかしそうに微笑む。
「暗くなる前にお家に帰ってくださいね」
「あ、はい……ありがとうございます、じゃあまた、川西くん」
「うん、気を付けて」
まだ少しふらつき気味な様子の東森くんは出て行き、僕は赤羽先輩と二人きりになった。どこか疲れたような様子の赤羽先輩が僕の方へ歩み寄り、反射的にしゃがんだ僕の頭をわしゃわしゃと撫でてくださる。
「……今度は東森くんとも遊ぶんですか」
「え? いや、今のところはそんな予定ないけど」
「でも赤羽先輩以外の催眠にかからないようにしてたじゃないですか」
「方便だよ、ただの……素直なのは美徳だけどさ。なんだか色々と信じやすいみたいだし、ああ言っておけばきっと危険なことも減るでしょ」
先輩は床に座った僕のためにしゃがみ、両手で頬を包み込んで優しくキスをしてくれる。東森くんに触れていたことへの嫉妬はそれでもう全て吹き飛び、今は面倒見が良くて正義感が強い赤羽先輩の格好良さに尻尾を振り続けることしかできなかった。