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勉強が苦しくなった時に読む話

 「天才」と「秀才」。両者はしばしば対比される。「天才」は生まれながらにして授かった才能やその持ち主、「秀才」は努力によって後天的に獲得した才能やその持ち主を指して用いられることが多い。

 ところで、辞書を引くと、「天才」は「生まれつき備わっている、並み外れてすぐれた才能。また、そのような才能をもった人。」とあり、「秀才」は「すぐれた学才。また、その持ち主。」とある。すなわち、秀才は必ずしも後天的な才能のみに限定されないのだが、この記事では慣用的に使われる意味で「天才」と「秀才」の語を用いる。

 私は、環境に恵まれ、日本を引っ張っていくような「猛烈に」優秀な友人の数々に出会ってきた。学問系国際オリンピックで複数個のメダルを取った友人。兄弟で東大に首席合格した友人。東大数学科卒の数学教師に「君は天才だ」と言わしめるほどの並外れた発想力で、入試問題の斬新な解法を次々と生み出した友人。中高時代に電車の行き帰りを共にしていた友人は、中1の頃から大学数学や物理の専門書を車内で読み漁っていた。

 果たして、彼らは「天才」なのだろうか?

私が出した結論は、YesでありNoだ。

 実は、彼らはみな莫大な時間を勉学に費やしており、紛れもなく「秀才」だったのだ。しかし同時に、努力を努力と感じていない点で、他の「秀才」とは一線を画した「天才」だった。言い換えれば、彼らは努力の「天才」であった。

 私は勉強が心の底から嫌いだ。苦痛に耐え偲びながら努力を重ねることで、一定の結果を残してきたのも事実だ。「東大理Ⅲ現役合格」という響きはたしかにちょっと「天才」っぽいのかもしれない。しかし、自分自身が一番よく知っている。自分が決して「天才」の類ではないことを。

 黙々と勉強して過ごすよりも、旅行に出かけたり友人と遊んでいる時間の方が遥かに刺激的で楽しい。雨の日は映画と音楽があれば、勉強など生活から消え去ってしまっても何ら問題ない。「勉強界から引退したい。」なんて調子の良い、それでいて切実な言葉が思わず口からこぼれてしまう。数々の成果は、努力という名の苦痛、拷問に耐え忍んできた産物にすぎない。

 対照的に、努力の「天才」たちにとって、勉強は呼吸であり生活であり遊びである。誰から強制されたわけでもなく、自然体で勉強している。そもそも、彼らに「勉強している」という自覚などないのかもしれない。

 「勉強しんどい!勉強やめたい!」という瞬間を、凡人は皆必ず経験する。勉強から逃げたくなる背景には、「努力しなくても勉強ができる人は羨ましいなあ」と妬む気持ちや劣等感が隠れているのではなかろうか。でも、もうそんな風に考えるのはやめたほうがいい。優秀な人は、必ずそれ相応の努力を重ねているのだ。稀に、生まれ持った才能として、苦痛を感じずして努力できてしまうため、とんでもなく優秀な人、言い換えれば「努力の天才」がいるのは確かだが、多くの人は苦痛に耐えながら努力を重ねている。

 発想を逆転させると、勉強が苦しいというのは、成功へ向けた正しい軌跡を今まさに描いている証ともいえるのではなかろうか。自信を持って前へ向かってもがき続ければ、いつかゴールに到達できるはず。そう信じて、もうちょっと一緒に耐えてみませんか?

 

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