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「 サカナノミヤコ 」



 ーそれは、ずっと未来の話。



 限りなく青い空が広がっていた。
 僕にとって、それは本当に限りなく青い空。
 新都の空しか知らない僕には、延々と広がるこの空は、例えようもなく嘘っぽく、そして、例えようもなく無限で、そして、現実感があった。
 管理階級のみが棲む事を許される空中庭園「新都」 その空中庭園に遮られ、日光さえ届かない労働階級都市。
 今、僕がいるのは、その労働階級層さえ棲めない不毛の世界「辺境」なのだ。
 かつての人類の過ちによって、人の棲めない土地と化したと伝えられる「辺境」
 荒み、腐敗した世界を想像していた僕に、この太陽はあまりにも眩しすぎた。
 そう。空中庭園である「新都」の方が、より太陽に近いはずなのに。
 じりじりと焼けつくような陽光。吹きすさぶ乾いた風。渇いた、渇いたけれど、強い生命を感じさせるこの臭い。
 「辺境」へ下りる前、三ヶ月だけ過ごした「労働階級」の「巣窟」とは、まるで違った。
 あの、腐った臭い。人々の死んだ眼。あきらめと堕落の魂。
 彼ら「労働階級層」が生きているのは、数年に一度起きる「新都」に対する暴動の時だけだ。
 そんな「労働階級層」でさえ棲めない不毛の土地「辺境」が、まさか、こんなに明るく、そして、生命に満ちている事を、僕は想像さえしなかった。
 「管理階級」の中流家庭に生まれた僕は、「新都」が世界の全てだと教え込まれ、それを信じて生きてきたのだ。
 学友達も似たようなものだろう。
 「管理階級」に生まれた事を、僕は幸福に思わない。むしろ、上流家庭に生まれなかった事を不幸にさえ思う。
 数年前、更なる天上に建設された「新々都」、そして、また数十年後には建設されるであろう「新々々都」での暮らしは望めないから。
 自分を幸福に思わない僕は、人間関係の疲れから、つまらない失恋を言い訳にして「新都」を離れる事にしたのだ。
 両親は、当然酷く反対した。
 でも、考えてみれば、これが初めての、両親に対する反抗だったのかも知れない。
 でも「新都」の保護下から逃れようとまで思った訳ではないのだ。
 それが出来るほど、僕は器用でもないし、強くもない。それぐらいは、自覚している。
 本当なら、労働階級層の暴動に備えての警備員に配属されるはずだった。
 だけど、去年起きた暴動の鎮圧以後、勢いを失った「労働階級層」に対し、人員増加をはかった政府は、人間をもてあましていた。
 そんなご時世に志願した僕は、配属三ヶ月目にして、早速「辺境」への転属となったのだ。
 「労働階級」の暴動鎮圧が目的だった僕は、「辺境」での仕事に驚いた。
 任務は「辺境」からの「侵入者」を防ぐ事を主目的としていなかったのである。
 「辺境」は、人が棲めない土地だと言われるが、「労働階級」と違い、全く管理されていない。
 僕の任務は、「労働階級」から逃げ出そうとする「犯罪者」や「非労働者」を取り押さえる事。
 そしてー、



 ぱぁん。

 銃声が聴こえた。この乾いた音は、ドラマで使われるそれとは違い、無機質だ。訓練の時に聞いた、本当の銃声。
 奴らだ。
 僕は、肩に携えていた銃を構える。
 銃声の聴こえた方向へと走り出す。

 僕達、辺境を警備する者は、辺境からの侵入者を防ぐだけではない。むしろ、辺境への逃亡者を防ぐのが仕事だ。
 辺境ならば、逃げおおせられると信じて脱走する者。
 辺境でなら、色々な物の受け渡しに最適だと考える者。
 しかし、今の流行りは、それじゃない。
 今、一番の流行りは「ハンティング」だ。
 「新都」に棲む人間が、わざわざ我々に逮捕される危険を冒してまで、「辺境」に下りる。
 確かに、「新都」にはないスリルなのかも知れない。完全に、人が棲めないと言われていた「辺境」の情報が、次第に明らかになっている事も、その理由のひとつだろう。
 連中は、銃を武器に、辺境を探し回る。
 ターゲットは、そうー、
 なんだっていい。
 数少ない自然動物を撃ち、その毛皮を持って帰れば、仲間内では英雄になれる。
 これが数年来の流行、そして本来の違法ハンティングの目的だった。
 しかし、動物の数は圧倒的に少なく、違法ハンティングをやりたがる人間は、あとを立たない。
 その次に流行したのが、「賞金稼ぎ」だ。
 辺境に逃げ延びた犯罪者を、ハンティングする。最悪の場合、殺してもいい。
 だけど、このブームは一瞬で終わった。
 少なくとも、相手は、辺境でも生き延びる力を持った「犯罪者」なのだ。
 行楽気分の素人の歯が立つはずもない。
 さらに、辺境への「通行許可」と「拳銃の携帯許可」を受けた本物の「賞金稼ぎ」が登場した事もあるだろう。

 そして、その次に流行したのが、「黒い人」狩り。
 これを取り締まる事が、今現在の、僕たちの仕事だと言えた。



 「黒い人」 この不毛の土地である辺境の住民。
 我々人間に、限りなく似ている。
 ほとんど、人間と大差はないと言っていいだろう。
 チンパンジーと人間の遺伝子の99パーセントが同じだと言う話を聞いた事があるが、我々「人間」と「黒い人」の遺伝子の差異はそれ以下だろう。
 そう。極度に肌が黒いと言う事を除いて、彼ら「黒い人」は、人間に似ていた。
 視力が恐ろしく良く、体力、瞬発力などの身体的な面では人間の能力をはるかに凌駕する。
 独自の言語を話し、原始的ながらも、道具を使用し、独特の文化を持つ。
 しかし、「管理階級」「生産者階級」を問わず、人間との接触を嫌う。
 かつて人間が、この大地に根を生やしていた頃、同じ太陽の下で生きていたとも言われる、「黒い人」
 「黒い人」が「黒い人」たる理由は、この辺境で生きていく事を選んだから、と言う説もある。
 「人間」を嫌う一方、とても好戦的な一面を持ち、文化的接触は避けるものの、辺境に迷い込んできた「人間」を攻撃する。
 悪魔のような黒い肌を持つ彼らこそが、この死の土地の支配者だ。
 しかし、幾ら「黒い人」が野蛮で姑息な手段を用いようと、我々人間の文明には手も足も出ない。
 木の槍とライフルでは、殺傷能力が違いすぎるのだ。

 今現在、最大の流行となっている違法ハンティングは、この「黒い人」狩りなのだ。
 「黒い人」の個体数は極めて少ない。このだだっびろい「辺境」を歩いて、ばったり出くわす事は、まずないだろう。
 現在は、保護動物に指定されている「黒い人」
 我々のー、
 僕の任務は、その「黒い人」たちを、違法ハンティングから守る事だ。



 僕は銃を構えた。
 旧式のライフルだ。最新の装備が与えられる「新都」の警備と違い、こっちは払い下げばかり。
 下手をすると、違法ハンターの方が、新しい装備を持っているかも知れないのだ。
 しかし、大きな問題はない。
 旧式でも充分な殺傷能力はあるし、多くの場合、威嚇射撃のひとつで、問題は解決する。
 違法ハンターのほとんどが、我々との交戦を望まないからだ。
 違法ハンティング程度の罪なら、罰金で片がつく。しかし、我々に銃を向けたとなると、洒落ではすまなくなる。
 だから、素直に拿捕される連中もいない訳ではない。
 もっとも、大部分は逃走するけれど。

 今聴こえた銃声も、十中八九、違法ハンターのものだろう。
 銃声の音量からすると、距離は、そんなにないように思えたが、何しろ、終わりのない大地だ。
 僕は、構えていた銃を、再び肩に担ぎ上げると、バギーを留めている場所まで戻る事にした。
 銃と違って、こっちバギーの方は、旧式じゃない。
 未開拓地である「辺境」を横断出来るように、専用チューンされたものが与えられる。
 もっとも、いずれ軍に採用されるだろう試作品だ。我々の使用したデータが、そのまま軍の資料となる訳だ。
 「新都」では、軍隊以外にバギーなど必要とされないだろう。
 僕は、バギーに乗り込むと、エンジンをかけた。
 銃声は、続けて聴こえてこない。となると、一発で仕留めたか、あるいは、木か何かを「黒い人」と見誤って発砲したか。
 それとも、銃を撃てない状況にあるか、また別の理由だろうか。
 
 聴こえてきた方向は西だった。
 西は茂みの多い場所だ。ついでに、その付近では「黒い人」の目撃記録もある。
 僕が見た訳じゃないけれど。
 噂では、あの辺りに「黒い人」の集落があると言われている。

 僕は、バギーを西へと走らせる。
 西へ、道なき道を。

 そうやって、五分も走っただろうか。
 風景の変わらない「辺境」では、距離感などアテにならない。
 方向も、コンパス無しでは見当さえつかない。
 太陽が真上にあるこの時刻だと、尚更だ。
 だけど若干、茂みの数が増えてきている。間違いない。
 僕は、バギーを留めた。
 何かを見つけた訳ではないし、新たな銃声が聴こえた訳でもない。
 だけど、臭いがしたのだ。

 こんなに広い空間でも、硝煙の臭いがわかる。
 違法ハンターは、この近くにいるはずだ。
 もしかしたら、「黒い人」もー。



 いや、過剰な期待はすまい。
 僕でさえ、この硝煙を嗅ぐ事が出来る。それを「黒い人」が逃すはずはない。
 第一、銃声が聴こえたと言う事は、同時に、こちらのエンジン音だって聴こえている事になる。硝煙の臭いに鈍感だったとしても、こちらを聴き逃すはずもない。
 そうだ。冷静になって考えろ。
 銃声が聴こえてから、少なくとも五分は経過している。
 まだ、二発目が撃たれた様子もない。
 もし「黒い人」狩りだとすると、一発で仕留められた可能性は否めないだろう。だとすれば、この付近に、血痕なり何なりが残るはず。
 いや、待て。
 まだこれだけ、この場に火薬の臭いがあると言う事は、ーそうだ。

 「ここは撃たれた場所じゃない」

 そう。

 「ここが撃った場所なんだ」

 僕は思わず、声に出し掛けた。
 辺りを見回すー。ここから撃ったのだ。なら、ここから見える場所に、手掛かりがあるはず。
 そう思うと、全ての茂みが怪しく思えて仕方なかった。ここから見える藪の全てに誰かが息を潜めている気がしてならない。
 追われた「黒い人」が、ぶるぶると震えながら? それとも違法ハンターが、獲物を撃った興奮に身を包まれながら?
 僕は、ぐるりと身体を翻す。
 何処にいる? いや、いるかどうかさえわかりもしないのに。
 あの茂みか、それともこっちの藪か。
 どちらへ向かう訳でもなく、どちらへ向かえる訳でもない。
 その時、ぶあついブーツを通して、違和感があった。
 左足が、何かを踏んだのだ。心臓がひとつ、大きく波打った。
 慌てて、その場から飛び退く。
 足の裏にあったものは、煙草だった。
 一、二、三本ある。間違いない。違法ハンターはここにいた。
 居たのは、まず、違法ハンターと見ていいだろう。「煙草」を吸える身分にある「労働階級者」の割合を考えれば。
 そして、違法ハンターはおそらく、若い。過剰な「禁煙ブーム」のあった親の世代である可能性は低いはず。
 しかしこの場に、煙草の臭いはほとんど残っていない。時間的に近い訳ではなさそうだ。だけど、心臓の高鳴りが、なかなか沈まない。
 それでも何とか、あらぶる呼吸を抑えこむ。
 落ち着いて周りを見ると、若干ながら、この葉には傾斜がある事に気付いた。
 そうだ。獲物を待ちかまえるとしたら、高い側から狙うだろう。
 ハンターはここから、銃を撃ったのだ。
 それも、おそらくスロープの下側に向かって。
 狙うとすると、おそらく、あの大きな茂みふたつのどちらかだろう。
 あの辺りにー、あの辺りに「黒い人」がいたのだろうか。
 ライフル銃を、茂みに向かって構えてみる。
 何かが見える訳でもなかった。
 再び、目線を落として煙草の吸殻を見てみる。足で踏み消した跡がある。
 足跡。はっきりと足跡が残っている訳ではないけれど、ここをスタート地点として下方に向かう痕跡を探すのは、そう困難な事じゃなかった。
 間違いない。ハンターはあの茂みへ向かって発砲し、そこへ向かったのだー。



 茂みへと歩いていく。
 思ったよりも遠くだ。この土地では距離感がつかめない。
 あの茂みもここから見れば、そこまで大きく見える訳じゃないけれど、いざ近寄ってみるまでは勝手な想像を働かせないほうがいいだろう。
 ライフル銃を構え、ゆっくりと確実に近づいていく。
 もっと密集しているように見えた茂みも、意外にまばらである事が窺える。
 痩せた、枯れ木のような林。それが、茂みの正体だった。
 僕は林に足を踏み入れ、あたりを見回す。
 死んだような、だけど生命を感じる林。葉の生い茂った緑しかない楽園からは、想像もつかない。だけど、それは間違いなく生命力だった。
 煙草を踏みつけた時ぐらいに、心臓が高鳴り始める。落ち着くんだ。
 ここに来たからって、何かに遭遇するとは限らない。
 第一、こんな頼りない影の中に、はたして人は身を隠せるのだろうか。
 ぐるりと身体を回転させてみるけれど、自分が枯れ枝を踏み折る音以外には、何も聞こえない。あとは、自分の心臓の音だけだ。

 上?

 貧相な木の先端部はさらに貧相で、とても人なんて登れない。
 ならば、下か。
 そうだ。下に違いない。枯れ枝や草がある。ここに伏せてしまえば、簡単には見つからない。
 訓練でも匍匐前進の意味を学んだじゃないか。
 待て。と言う事は、僕も伏せたほうがいいのか?
 いや、「違法ハンター」なら、僕に危害を加えれば更に罪を重ねる事になる。こちらが姿を見せていれば、逃げてはくれても、攻撃してくる事はないはずだ。
 「黒い人」なら、彼らは極度に人との接触を嫌う。余程の事がない限り、まず向こうからの不意打ちはないだろう。
 だけど、だとしたら何だ?
 僕はここへ何をしに来たんだ?
 僕は苛立ち始めた。僕自身が感じる僕自身の不甲斐なさに。
 いつだってそうだ。目的意識も何もなく、ただ生きてー、生かされているだけ。
 そんな自分がたまらなくイヤで、それでも何も出来なくて、それでも何とか踏み出した、この「辺境」じゃないのか?
 何のためにこの「辺境」に来た? 何のために銃声を追って来たんだ?
 僕は、苛立ちを掻き消すようにして、持っていたライフル銃を振り回した。
 落ち着け。
 何も、危険な事や無謀な事がしたい訳じゃないだろう。
 何も「違法ハンター」を取り押さえるなんて格好良い真似が出来ると思っている訳じゃない。連中のキャンプを見つけるだけでもいいじゃないか。
 それだって、立派な仕事だ。
 僕はそう思い直して、ライフル銃の銃口を下げた。
 さっきのような煙草、足跡でもなんでもいい。痕跡は必ず、地面にあるはず。
 ライフル銃の先端部で、落ちている枯れ枝を掻き分けるようにして歩く。
 だけど、さっきの煙草のようには、見つかってくれない。足跡さえも。
 次第に枯れ枝をどける動作が荒くなりだす。
 その時だった。
 ライフルの先端部が、あきらかに、弾力のある、何かに、触れた。

 音がした。

 音がした。

 とっさに身体が動く。

 同時に、腿に熱いものを感じた。

 腿が熱に変わった。

 腿から、奇妙なものが生えていた。



 足が、地面に縫い付けられたような気がした。

 腿から生えていたものー、

 僕にはそれが何なのか、しばらく理解できなかった。
 僕の左腿から、まるで当然のように、そして不自然に生えているのは、木の枝だった。
 長く、そしてまっすぐに、凛とした木の枝が。
 僕は、僕自身の足から生えているものと、そこから感じている強烈な熱を、同じものだとは思えなかった。
 何故、僕の足から木の枝が生えているのか、そして何故、僕の足はこんなにも弾けるように熱いのか。
 左腿に手をのばすー。
 木の枝に触れてみるー。
それはまるで、地面に根をはびこらせて立つそびえる大樹のように強く、僕の太腿に根付いていた。
 そう。太腿に突き刺さった木の枝はー、いや、中空から飛来した木の槍は、完全に僕の足を貫通していた。
 太腿の裏側に触れてみる。
 指が、硬いものにー、木の槍に触った。硬いけれど、ぬるぬるとしている。濡れているのだ。
 何故、木の槍が濡れているのか。僕はようやく、その意味を漠然と理解した。
 さっきライフル銃の先端が触れたのは、誰かが仕掛けたトラップー、罠だったのだ。
 その瞬間、僕を目掛けて飛んできた槍が、僕の足を貫いたのだ。
 貫いた、と言う言葉に正しく、やりは僕の足を貫通し、更にその先の地面に突き刺さっていた。
 地面に縫い付けられたような気になったのは、錯覚などではなかったのだ。
 僕はようやく、自分がドジを踏んだ事に気付きー、イヤ、気付かされた。
 それでも、運は良かったのかも知れない。
 今になって周囲を見渡すと、あと二本、同じような木の槍が地面に突き立てられている。
 そう。気が動転していて気付かなかったが、罠は同時に三本の槍を射出していた。
 何処からどう飛んできたのか、目にも入らなかったけど、槍が突き刺さっている方向から逆算すれば、僕を狙っていたのだろう。
 命だけは助かった。運が良かったのかも知れない。
 そう思った瞬間、全身から汗が噴出し始めた。
 今までにかいた事もないような、夥しい量の汗だ。これが、全身の血液なんじゃないかという錯覚さえ起こしそうになる。
 同時に、腿に感じていた熱が、痛みである事を認識した。
 物凄い痛みだ。
 僕は今までに骨折なんかした事がない。だけどハッキリとわかった。
 この木の槍は、間違いなく足の骨を砕いている。
 熱いのか、痛いのか、それとも痒いのか、よくわからない。ただ、たまらない感覚だけはあって、それが痛覚なのだと言う事だけは認識できる。
 -たまらない。
 滝のような汗と言うけれど、人間の水分がいとも簡単に流出してしまえる事を思い知った。
 汗が、熱を冷ます効果があると、教科書で学んだ。だけど今、実感した。
 汗は、体温を奪うー。
 ただ、それだけの事がこんなにも恐怖だとは。
 「辺境」の乾いた風が吹く。
 風が、汗をさらっていく。それだけのことがこんなにも恐怖だとは。
 僕は呻き声を漏らす。
 木の槍を引き抜こうとするけれど、びくともしない。
 足から抜けないどころか、地面に串刺しにされたまま、動けないのだ。
 駄目だー。
 恐怖と緊張のために、まともに力が入らない。
 足の痛みと、地面に繋がったこの体勢では、力がどうにも込められない。
 キャンプへ連絡を取るためのレシーバーは、車に置いて来ていた。
 目の前が、急に暗くなった気がする。
 絶望という言葉が、脳裏を掠めた。
 槍の一撃で死ねなかった事ー、あるいは、これは本当に運が良かったのだろうか。
 絶望と恐怖と痛みが、僕を優しく包み込んできた。



 ー何とかしなければ。
 僕の頭の中を光速で埋め尽くす恐怖に向き合うまでに、どれほどの時間を要しただろう。
 この土地は時間の感覚が失われる。
 ただ絶望に嘆き、激痛を堪えているだけで、どれほどの時間を浪費したのだろう。
 いや、ひょっとすると、痛みに気を失っていたのかも知れない。-いや、立ったまま気を失えるだろうか。-いや、倒れたくても、僕と大地を繋ぐこの槍が、倒れさせてくれないだけかも知れない。
 何にせよ、時間は止まってくれないのだ。出来る事なら、早く何か手を打たなければ。
 生命の少ない「辺境」とはいえ、猛獣だっている。血の臭いを探してくる獣が。屍肉になるのを見計らっている「はいえな」が。
 それとも「はいえな」よりも早く、捜索隊が出てくれるだろうか。
 捜索隊は、出る。必ず出る。
 そうだ。少なくとも、僕は「新都」の住人なのだ。こんな「辺境」で死んだとなったら、少なくとも問題になる。
 その問題を回避するためにも、きっと捜索隊を出してくれるだろう。だが、いつ?
 巡回の終了時刻は日が沈む頃。
 それから、捜索隊を出してー、間に合うのだろうか。
 槍が骨を貫通しているだろう事は、感覚でわかる。痛みは耐えられるとしても、放って置けば、発熱するだろう。出血が酷くないとは言え、血液だって失われ続けている。本当に動けなくなる前に何か策を講じなければならない。
 ここには、医療施設も何もないのだ。
 車まで戻る事が出来れば、救援を呼ぶ事も出来る。
 とにかく、この槍を抜かなければ。脚から。いや、とにかく、この大地に縫い付けられた状態をどうにかしなければ。
だけど、恐怖と激痛で、まともに力が入らない。なのに、槍が突き刺さった太腿だけは、自分の意思とは裏腹に、強く強く筋肉を収縮させている。
 少なくとも今、この状態から槍を抜く事は不可能だろう。
 だとすれば、どうやって地面から槍を抜く?
 方法はー、ある。
 このまま、そう。このまま自分の身体を横たえればいい。
 ありったけの力で、地面へ倒れこむ。そうすれば、自分の体重と、てこの原理で、槍は大地から解放されるはずだ。解放される。されなければならない。
 僕は、自分の身体を軽くゆすってみる。ー痛い。
 太腿が、恐ろしく痛む。痛いと言う表現がまるで適さないほどに痛い。歯を噛み締めて我慢するけれど、唇は自然と開き、体内から情けないほどに震えた息が漏れた。
 骨が、槍とこすれて軋むのがわかる。骨と骨が連結されている感覚が手に取る様にわかるのだ。学生時代に見た人体解剖図が、克明に思い出せる。
 汗が、とめどなくあふれていく。
 だけど、ためらいは許されない。今よりも状況が悪くなる前に、行動しなければ。
 視界が、眼に侵入する汗でぼやけだした。いや、汗の所為ならいい。
 それとも、本当に視界が狭くなっているのだとしたらー。

 僕は、地面を蹴った。そして、地面へ向かって、思い切り倒れこんだ。

 暗転。

 目の前が真っ暗になった。
 音が聴こえた。僕が地面に倒れる音だろうか。
 車のエンジン音を、遠くに聴いたような気がする。
 夢を見たような気がした。だけど、夢の内容はすぐに消えてしまう。ただ、痛くて。
 ただ、痛くて、目を覚ました。
 僕は、地面に倒れこみ、身体を横にしたまま、気絶していたらしい。
 陽は、既に落ちていた。捜索隊は出てくれているのだろうか。あの耳に聴こえた排気音は、夢だったのだろうか。
 太腿が、冷たい。冷たくて、熱い。
 冷たいのは、多分、流れ出た血の所為だ。
 当たり前だけど、槍は、刺さったまま。
 まどろんで、このまま眠っていたい。痛い。眠っていたい。痛い。
 まだ、夢から醒めきらないお陰だろうか。僕はこの痛みさえも、非現実のような気がしてー、
 僕は、槍を気にしながらも、のろのろと起き上がった。
 車に、戻らなきゃ。
 酷く脚が痛むけれど、槍が脚から生えていて、とても歩きにくいけれど、それさえも全て、夢のような気がして、ただ、僕は、車を目指して歩き続けた。
 何度も転んで、半分以上這うようにして、痛みに耐えられず起き上がっては、ずるずると脚を引き摺りながら、それさえも全て、夢のような気がして。
 また転んだり、時折片足で歩いてみたり、また躓いて、這い進んだり。
 それさえも全てが夢のような気がして。

 車があったはずの場所まで来た時、僕は、強制的に目を醒ますしかなかったー。




 あああ。
 僕の口から、自然と声が漏れた。
 ない。あったはずの車がない。
 最初はいつまでたっても見えてこない事に違和感を感じたが、車のあった場所にたどり着いていないなどと言う事は、あきらかにありえない。
 何故なら、その場に轍は残されており、それは明らかにありえない方向へと続いていたからだ。
 そして、大地に落ちている機械のパーツ。おそらく無線機だろう。エンジンを直結させるために壊した部分があるかも知れない。
 頭の芯がじんじんと音を立てている。まだ、夢の中にいたい。だけど、それは夢などではない事に無理矢理気付かせる目覚し時計のように。
 それはじんじんと頭の中に鳴り響いて。
 そうだ。どちらにせよ間違いない。
 誰かが持ち去ったのだ。誰が。誰がいったい。
 耳に聴こえたエンジン音は、幻聴などではなかったのだ。
 誰かが。罠を仕掛けた奴なのか。そうだ。きっとそうだ。
 誰が、何の目的で。何故。何故、僕を。
 頭の中にふつふつと沸いてくる怒り。だけど、それよりも強い、間欠泉の様に吹き上がってくる絶望。
 僕は、今、本当に一人なのだ。
そう思った瞬間、僕の中で僕を支えていたものが、音も立てずに消失した。
 僕は、その場にうずくまるようにして意識を失った。
 同時に、優しい夢が、僕のもとに舞い降りる。
 音を聴いたような気がした。
揺られているような気がした。
とても寒くなったり、少し暖かくなったりした。
 痛みが激しくなったり、時々痛くなくなったりもした。
 目が覚めたのは、例えようもない激痛からだった。

 多分僕は大声で叫んでいたつもりだったけれど、声は出なかった。出ていたとしたら、僕の耳はの麻痺していたのだろう。
 いや、それはありえない。
 僕の耳に、ひくい、聞き覚えのない男の声が届いたからだ。
 「まだ死ぬほど痛むぞ。もう一度、気絶しててくれ」
 はっきりと聞き取ったその声。でも、誰かがいると言う気配を感じただけで、誰が、何処にいるのかさえわからない。
 僕は、地面にうつ伏せにされていたのだ、と言う事を認識するだけで精一杯だった。
 いや、太腿から異物感が消えている。それは間違いない。僕を眠りから引き戻した激痛は、槍を体内から引き抜いた事による痛みだったのだ。

 そして、激痛止まない太腿に、更なる激痛が降り注がれた。
 熱い。熱い。熱いけれど、冷たい。刺すようなこの痛みは何だ。なんだか、酷く濡れて気持ちが悪い。
 水音が聴こえたような気がする。ーまさか、この辺境に豊富な水が?
 考えたけれど、視界が黒く閉ざされる。痛覚も、限界を越えたのか、痛みを認識しなくなった。耳も遠くなって、何かが聴こえているような気だけがする。

 何だか、とても心地よい臭いが鼻をついた。アルコールのー、酒の臭い。
 アルコールを飲まされたのか、嗅がされたのか、それとも、これは幻想なのか。
 また激痛を感じ出す。今度は染み入るように痛み出して、それは鋭利な痛みへと変わっていった。
 傷口に何万本もの針を突き刺されているような痛み。そして付き纏うアルコールの臭い。
 また、全てを感じなくなって、
 また、何もかもが遠ざかって、
 また、まどろんだ世界へと落ちていく。


 ただ、鼻腔に、厭な臭いが届いてきた。
 いや、いい臭いかも知れない。良くわからない。ただ、僕の嗅覚が生きている事だけが、同時に自分が生きていることの証拠だと思った。
 でも、この臭いはなんだろう。
 厭な、でもいい臭い。鼻を刺激する、でも甘い香。
 そうだ。焼ける音だ。
 肉がー、焼ける音。
 肉がー、焼ける臭い。
 そう、おそらく僕の生きた肉が。


10



 何度気絶して、何度目を醒ましただろう。
 途切れがちな記憶と夢の間を彷徨いつつ、僕は、自分が水辺にする事を知った。
 僕を助けてくれた誰かが、水のある場所まで運んできたらしい。
 傍には火がある。
 焚き火だ。
 体温を奪われていく僕の体には、とても暖かい。それでも、自分が高熱を出している事ぐらいはわかった。
 痛みと、それに耐えようと暴れたためか、酷く困憊している。
 叫びすぎで声も涸れた。
 脚はまだ、とても痛いけれど、痛みがかすんでいるような気がする。
 少なくとも、そのまま舌を噛み切って死にたくなる気持ちは失せた。
 エンドルフィンだか、ドーパミンだか、アドレナリンだか、脳味噌から分泌する麻薬が、痛みを和らげているのだろうか。いや、痛みに慣れただけかも知れない。
 それとも、痛みを伝達する神経そのものが壊されているのだろうか。
 何処までが夢で、何処までが現実かわからない意識の中で、僕は、傍らの男と、幾つかの言葉を交わしていた。

 「悪いな」
 「しばらくは連中の目があったから、動けなかった」
 「ここも安全とは言えん」
 「そのまま送り返しても」
 「俺が仕掛けた」
 「車は」

 僕はどんな風に答えたのか、全く覚えていない。ただ、ええとか、はいとか、そんな答えが精一杯だったような気がする。
 眠い。また、眠る。痛い。また、起きる。
僕は、瞼に日光が差し込むのを、二度感じた。
目覚めた時、傍に人の気配を感じない事もあったし、僕自身が水辺から離されていた時もあったようだ。勿論、意識なんてハッキリしない。夢かも知れない。
 意識を失って初めての夜から数えて三度目。もっともこれだって、本当に三回なのか、わかりはしない。
 「今夜中に、ここを離れたい。動けるか?」
 「わかりません」
 僕は、自分の意識下、自分の意思でそう答えた。
 男の顔を、初めて、まともに見たような気がする。同時に、何度も、そして以前から知っているような気もする。
 夢うつつで、何度も男の顔を見ていたからだろうか。
 夜目にもわかるほどの黒い肌。いや、だけど違う。陽にやけた、ひどく健康的な黒。
 何となく、彼は「黒い人」なんかじゃないことを僕は知っていた。
 「答えられるようなら、問題ない」
 「はい」
 逆らう事も出来ず、いや、逆らう気もないし、逆らう力もないけれど、ただ、僕は従順に答えた。反射的にだったけれど、それはやはり、自分の意識下、自分の意思で。
 「返事も、少しは虚ろじゃなくなったな」
 男の声は力強かったけれど、彼は笑わない。
僕の意識を確かめるために幾度となく声を掛けてくれた記憶はある。だけど、必要な事以外は口にしない。彼にはそんな雰囲気がある。
 「また暗くなって悪いが、我慢してくれ」
 男はそう言って、僕の目に布切れを被せた。
布切れー、それは、間違いなく目隠しだった。


11



 「何故、目隠しを?」
 僕の質問に、彼はすぐさま答えた。
 「知られちゃまずいのさ。誘拐犯だって、同じ事をするだろ」
 「僕を、助けてくれたんじゃないんですか」
 そう言いながらも、不思議と、不安はなかった。
 男は、目隠しした僕に、背中に負ぶさる様に指示する。腿を抱え込めないから、ほとんど、首にぶら下がる感じだ。
 「喰ったりしねえよ。安心しな。ちゃんと助けてやる。これでも責任は感じてるんだ」
 男はばつが悪そうに答えつつ、一歩前へ進む。
 「責任?」
 ただ揺れるだけで、脚が酷く痛んだ。
 「あの罠を仕掛けたのは俺だからな。まさかアンタみたいなのが掛かるとは思ってなかったが」
 脚の痛みだけじゃない。さすがにそれを聞いたは、心臓が締めつけられたような気がした。
 「少なくとも、警備の人間が、わざわざあんな所を探すとは思ってなかったからな。アンタ、真面目が美徳だと思ってるタイプだろ」
 「美徳だとは思ってません」
 少し、むきになった。
 「じゃあ、掃除当番を押し付けられるタイプだ」
 情けないぐらいに図星だ。言葉が出て来ない。
 「もう少し、早く助けたかったんだがな。連中の目があった手前、なかなか出られなかった」
 男は僕の痛みを確かめるようにゆっくりと前に進む。
 「いったい、何がどうなってるんですか」
夢の中で同じ事を聞いたような気もするけれど、答えは夢の中に置いてきていた。
 「アンタ、銃声を追ってきたんだろ」
 「はい」
 男は、面倒がらずに答える。それとも、聞いたと思ったのは夢の中だけだったんだろうか。
 「あれは、一種の脅しなのさ。不法ハンターどもは、【黒い人】を見かけたら、銃を一発鳴らす。逃げ込む場所を知るためにな」
 「まさか、巣を知るためにですか」
 そんな手口を使ってまで、「黒い人」をハンティングする意味を僕は見出せなかった。「黒い人」を狩る意味を考えていたら、男の声が急に変わった。
 「そう言う事だ。だが、最初だから忠告しておく。二度と【巣】なんて言うな。次にそう言ったら、アンタを捨てていく」
 声が、殺気を孕んでいた。罠を仕掛けたのが彼だと聞いた時よりも、もっともっと怖いものを宿した声。僕は慌てて返事をする。
 「すみません」
 「まあ、いい。とにかく、助けが遅れたのは、不法ハンターの連中がアンタを見張ってたからだ。俺も、悪気があってのんびり眺めてた訳じゃない」
 男の声から、すぐに怖いものが消えていた。
 「僕の、車を奪ったのも?」
 「不法ハンターは車ぐらい持ってる。やったのは、逃亡してきた連中さ」
 「逃亡者の・・・」
 犯罪者が、法と警察力の及ばない、この「辺境」へ逃げ込む事は少なくない。
 無論、この「辺境」でのたれ死んでいく者もー、僕がそうなりかけたようにー、いるけれど、この過酷な世界を生き抜いていく者たちもいる。
 「そいつらをとっ捕まえるのが、本来の俺の仕事だがな」
 男は、少し照れ臭そうに言った。
 「じゃあ・・・」
 「これでも正規のライセンスを持ったハンターだよ」


12


 「ハンター・・・」
 僕は、間抜けな顔をして反芻した。無論、彼がライセンスを見せた所で、目隠しをされた僕には確認の仕様もないけれど。
 「あんたは公務員。あんたがたが俺の派遣先って訳だ。もっとも、いつ連中が掌を返すかは判らんが」
 「連中?」
 「新都に住んでやがる連中さ。いくら坊ちゃんだからって、まさかあんた、新都出身って訳じゃないんだろう?」
 男の言葉に、僕の身体が一瞬震えた。そうだ。この男は新都を憎んでいる。いや、下層階級者なら、ほぼ全員がそうだと言っていい。
僕は思わず身体が縮み上がった。だけど、脚が痛んだと思ったのだろう。気付かれてはいない。
 この男は、僕が新都の住人だと知れば、迷わずに僕を捨てるだろう。
 彼は優しいけれど、僕を迷わず捨てていく。僕は、何故かしら確信していた。
 たとえ僕が「新都」と言う鳥篭から抜け出したくなった理由を言っても。
 あるいは、僕がその鳥篭を抜け出すためにどれほどの努力をしたかと伝えても。
 「傷が痛むのか?」
 「ええ。でも、我慢できます。とりあえず命だけは助かったみたいですから」
 「運がいいな。あんた。槍は幸い、骨にはほとんど触れていない。もしも骨が砕けてたら、そろそろ死んでても不思議はない」
 あの槍は、確実に骨を貫いていたような気がした。今でもそう思う。けれど、僕は本当の痛みを体験せずに済んだらしい。
 「罠を張った俺が言うのもなんだが、大変だったんだぜ。水辺に運んで、槍を引っこ抜いて、俺の大切な酒で消毒して、外は傷を焼いて」
 ああ。傷を見ていないけれど、あの時の焦げ臭い臭いはやはり、僕の肉だったのだ。
 「すみません」
 「謝る必要はない」
 「すみません」
 「・・・まあいい」
 どれぐらい、おぶられていただろう。ひょっとすると途中、また眠ってしまっていたかも知れない。
 ただ、この辺境には似つかわしくない音が聴こえて、僕はそれに反応した。

 まるで、自動ドアの音。たとえて言うと、それはまさに自動ドアの音だった。
 しかも、音は右から左へとスライドした。
 そして、空間の広がる気配。間違いない。今、目前でドアが開いたのだ。
 その空間に踏み込んだ時、足音が変わった。
 おぶられている状態の僕にさえ、地面が、土から、もっと硬質のものへ変わった事が伝わってくる。
 この辺境にー、文明が?
 いや、下層階級都市への連絡口か。あるいは、新都の建造物かー、

 ーだがならば、彼が僕に目隠しをする理由は? ー僕は一体、何処へ運ばれようとしている?

 こつこつと言う足音を響かせ、進み続ける。前方に壁の気配を感じたと思ったら、今度は間違いない電子音。
 ぽーん、と言う音とともに開く空間。
 その空間へ踏み込んだ瞬間。今度は足下がクッションに変わったような気がした。
 ー僕は、一体、何処へ、運ばれようとしているのだ?


13


 背後で、ドアが閉じた。誰かが閉めた訳じゃない。あきらかに自動的に、あくまで機械的に。
 「どうした? 目は覚めてるんだろ」
 男が嘲笑を含んだ問い掛けをする。目覚めている事は知られている。動揺している事も。
 「ここはー、何処なんですか?」
 僕はそう尋ねるのが精一杯だった。声が震えている。
 「俺の、本当の派遣先ってところだ」
 男は、白々しくそう答えた。
 この「辺境」にある施設は数少ない。「新都」と「辺境」を繋ぐパイプ以外、まさに数えるほどしかない。
 彼は自分を「ハンター」だと言った。
 労働階級者が大半を占めるハンターの中で、施設のオートメーションシステムを扱える身分の人間がいるなんて事はー。
 ありえない。
 あるはずがない。しかも、彼は間違いなく「新都」を憎んでいる「労働階級者」だ。
 その瞬間、僕の身体から重力が抜けた。
 そしてまた負荷される重力に、脚の傷が痛んだ。
 この重力の動きは、間違えようもない、エレベーターだった。
 まさか、この「労働階級者」のハンターは、「新都」「辺境」間を行き来できると言うのか。
 体中に圧し掛かってくる重力。目的地到着。
 再び、ぽーん、と言う電子音。ドアが開く。
 ここは、天国か地獄か。
 ここは「辺境」なのか、「労働階級社会」なのか、それともー、
 まさか、そんな事はー、
 いや、違う。
 今、身体が感じた感覚を思い出せ。
 先刻感じた重力は。そうだ。あのエレベーターはどっちへ動いた。
 そうだ。エレベーターは、


 下へ向かった。


 エレベーターは、下へ向かったのだ。
 僕たちは今、地下にいるはずなのだ。
 男は一歩を踏み出す。おぶられたままの僕は、彼の身体とともに、前へ。
 目隠しの上から、あきらかな光が差し込む。相当に眩い光。
 陽光が、地下に? さっきまで夜だったはずなのに。
 違う。陽の光ならば、もっと熱を感じる。辺境の太陽なら、なおさらだ。
 光が、地下に? いや、地下でないとするならば、ここは「新都」なのか?
 一体、ここは何処だ。僕は一体何処にいる。
 ぐるぐると回転し続ける僕の思考を他所に、男はただ靴音をさせて進み続けた。
 いくら考えても終わらない僕の思考を遮ったのは、男の声。
 「さて、おとぎの国へようこそ」
 そう言いながら、僕を地面に座らせる。
 男が、少し乱暴に目隠しを剥いだ。
 僕の眼の中に、眩い光が飛び込んでくる。
 瞳が光に慣れてくると同時に、次第に現れて来たのは、少なくとも僕の持ち得る知識では、考えられない光景だった。


14



 まだ、光に慣れない僕の眼がとらえた光景。
 それは、信じられない世界だった。
 そこは、僕の体が感じた通り、間違いなく地下だ。何故なら、空がないから。
 そして、建築物ではなかった。当たり前だ。こんな巨大規模の建築物が地上にあるはずがないのだから。
 ならば、何故こんなに明るいのだろう。
 「驚いたか」
 男が楽しげに笑った。彼のそんな表情を見るのは初めてのような気がする。いや、そもそも、彼の顔をまともに見るのはこれが初めてのような気さえした。
 思えば今まで、痛みに悶えたり、意識を失いながら、あるいは、まともに話しかけられても、夜だったり、色んな意味で怖気づいていたりして、視線を絡めあった事がなかった。
 男は、そう。日にやけた逞しい体をしていて、およそ僕とは掛け離れた、野性的で力強い顔が、いや、顔じゃない。彼の表情が自信に満ちているのだ。
 「辺境に、こんな文明があるはずがない、そんな顔だな」
 まさか僕が、そんな彼に劣等感を感じているとは夢にも思わなかっただろう。
 僕は、返答に詰まった。
 「勿論、この辺境で作られた文明じゃない。その昔、人類がこの大地に根を下ろしていた頃の産物さ」
 「この、辺境にも?」
 噂話は、誰もが知っている。誰もが知っていて、誰もが半信半疑のおとぎばなし。そう。おとぎばなしだ。半信半疑と言えば聞こえは良いけれど、それはつまり、誰も自分に関わりのある現実だとは思っていないと言う事だ。
 「たかだか、100年程度。人間一人が生まれて死ぬの間の話だ」
 「でも、100年あれば、歴史は塗り替えられます」
 歴史は、勝者の立場からしか書かれない。それも、勝者の都合の良いようにしか。それが100年続けば、その歴史は存在した事になる。 いや、100年は長すぎるといってもいい。
 「その通りだ。お空に住む連中はその100年で、過去の罪を忘れたつもりでいる」
 「過去の、罪ですか」
 「知らない訳じゃないだろう。狂った独裁者、それを支持する愚衆。選民意識を植え付けられ、特権階級を貪る豚がはびこった。もっとも、そうやって蔓延した奴らの教科書が、何をどう教えているのかは知らんがな」
 僕は危うく、自分の身分を知らせるような言葉を発しかけて、慌てて押し黙る。
 「ここは、核シェルターだったのさ。最大規模のな」
 天井の高さ、縦横の広さから行っても、相当な規模だ。いずれ建設されるであろう「新々々都」ぐらいの大きさはある。
 「そんな施設が生きていたんですか」
 「動力の供給以外は、ほとんど生きていたらしい。もっとも、現在の動力はお空から捨てられた、山のような太陽電池だ。ここには、太陽が有り余るほどあるからな」
 空中都市のエネルギーの2割近くを、太陽電池が補っている。昔に比べ、太陽電池は、コンパクトかつ効率も良くなったと聞く。だけど、問題は耐久年数だ。彼の言う通り、都市は太陽電池を処理しきれずに辺境へと投げ捨てている。
 使用年数によって「効率が落ちた」電池も捨てる訳だから、それを集めれば、確かに立派な動力源となりうる。
 しかし、それを誰が、何のために。そして、どうやって。
 「まだ、訊きたい事もうんざりするぐらいあるだろうが、生憎と俺は説明が得意じゃない。これから会う、俺のスポンサーにでも訊いてみるんだな」
 彼は、背伸びとあくびを一度にしながら、僕のほうを見た。僕は思わず問い返す。
 「誰なんですか。その、スポンサーって言うのは」
 「また説明させるつもりか? 会ってからそいつに訊いてみな。行くぜ」
 困ったような顔をして、彼は笑う。説明は苦手だとは言ったが、苦手なりに嫌いでもないらしい。
 だけど、僕の質問には答えてくれなかった。
「もう、目隠しの必要はないが、おんぶしてやる必要はあるだろう。駄々こねてると、放っておくぞ」
 仕方なく僕は、再び彼の背におぶさった。
 数分間、彼が進み行くと、やがて住宅らしいものが見えてきた。資料で見た事がある。
集落、そうだ。村、と呼ぶのが相応しいだろう。新都にはありえない光景だ。
 ここが、ハンターの村でない事だけは確かだ。無論、違法ハンターの棲み家でもない。そして、ハンターの彼が出入りする以上、逃亡者の村落では絶対にありえない。
 だとしたら、誰が。だとしたら誰がこの村に住んでいると言うのだろう。
 いや、答えはわかっていたはずだ。
 僕は認めなければならない。目の前の現実を。
 彼の背中越しに見える風景に、その答えが飛び込んで来る。

 その答え。ーそれは、子供だった。
 そう。黒い、小さな子供たちだった。

 ここは間違いなく「黒い人」が住む土地なのだ。


15



 僕の目の前にいる、そう。黒い、小さな子供たち。
 ここは間違いなく「黒い人」が住む土地なのだ。
 正直な話、初めて見る「黒い人」の姿に怯えなかったと言えば、嘘になる。
 肌は、僕をおぶっている彼とでも比べ物にならないほど黒く、身体つきは細い。黒い髪は小さく縮れ、唇は分厚い。よく見ると、掌だけが白い。
 この姿を「悪魔」だと教えられてきた僕には、今の状況で怯えるなと言う方が無理なのだ。
 だけど、少なくとも子供達は「悪魔」などではなかった。むしろ、そう。陳腐な表現だけれど、「子供達は天使のよう」にさえ見えたのだから。
 僕に強く興味は示しているけれど、同時に怯えてもいる。いや、僕自身の怯えを、敏感に感じ取っているのかも知れない。
 歳はまちまちなのだろう。だけど、ジュニアハイスクール以下の子供しかいない。
 子供らは口々に、理解不能の言葉を叫んでいる。「黒い人」独自の言語なのだろう。
彼は、楽しげにそれに答える。その言葉も理解できない。彼の話す言葉も、僕の知っている、どの言語でもなかった。
 だけど、どれだけ強く叫んでいても、これだけはわかる。
 子供たちは、彼の帰還を心待ちにしていたのだ。
 「おい、アンタが誰かって、興味津々だぜ。こいつら」
 急に話を振られた僕は、どう答えていいのかわからずに、口ごもってしまう。
 彼が、大声で知らない言葉を話す。
 子供たちから歓声があがった。嬌声は止まる事を知らず、子供たちの視線が僕に集中していた。
 「な、なんて言ったんですか」
 「正義のヒーローが、お前らを守るために悪党と戦って、名誉の傷を負った」
 「ちょっ・・・、そんな」
 「いいじゃねえか。職務上は間違ってねえだろ」
 彼は、この上なく楽しげに言った。
 「でも、そんな」
 子供たちは、僕をじっと見ている。
 確かに、肌が黒い他には、僕らと大差はない。いや、ほとんど同じだと言っていい。
 「頭でも撫でてやンな」
 彼の言葉に、僕は少年の頭に手を伸ばす。おずおずと。
 僕の怯えが伝染するように、最初は、少年も怯えていた。
 触れてみると、弾力と艶のある髪。黒くて、細かいパーマのかかった髪。
 力強く撫でてやると、少年は満面の笑みを浮かべた。
 残った少年たちが、期待の眼差しで、僕を見ている。
 次は僕、とでも言っているのだろう。
 全員が、我先にと、僕たちを取り囲んだ。
 順番に頭を撫でてやる。握手もせがまれた。二度、三度、握手した子もいる。
 子供達に揉まれる様にして、時間が過ぎた。彼が、握手の終わった者からこの場を離れるように指示したようだ。
 次第に子供たちの数が減りはじめ、ようやく最後のひとり。じっと我慢をするように順番を待っていた、中では年長に当たる少年が最後だ。
 ただ、僕は何となく声を掛けてあげたくなって、でも何も言葉が出てこなくて、その少年と 握手をする時に、こう言った。
 「ありがとう」
 それを彼が訳し、少年がそれに答える。無論、何を言ったかわからない。
 少年は、僕をまっすぐに見つめた後、そばに残っていた子供たちを連れてその場を去った。
 急に、辺りが静寂に包まれる。
 「なんて言ったんですか」
僕の質問に、彼は面倒くさげに答えてくれる。
 「立場的に、お前がアリガトウってのも変な話だからな。強くなれって言ってやったのさ」
 彼の言葉が、僕の身体に浸透する。「強くなれ」 それはまるで僕自身に向けられた言葉のように。
 「それで彼は?」
 「俺やアンタのように、とさ」
 だから少年は、あんなに強い瞳で。だから少年は、あんなに強い意志で。あんなに、まっすぐな心で。
 僕は、震え出しそうな身体を抑え込む。
 そんな僕に気付いているのかいないのか、彼は、
 「子供の相手ばっかりしてる場合じゃねえな。早く、あんたの怪我も見てもらわなきゃならんし」
 と呟き、ようやく歩きだした。
 また、別の子供達が現れては歓声をあげたり、幾人かの大人たちとも握手したり、また、すれ違ったりもした。さすがに成人した「黒い人」の威圧感は並大抵ではなかったけれど。

 やがて、一軒の家が見えてくる。
 あきらかに、他の家とは違う何かを感じる。いや、建築物としても構造も、少し違う。
 ここに、例のスポンサーがいるのだろうか。
 彼は、何も言わず、その家の玄関らしきものをくぐり、一番最初にこう言った。
 「女史、先日話した怪我人。お連れしました」
 やや遅れて、中から、女の声がする。
 若くはない声だ。だが、女の高い声。
 そして、それは僕の耳にも聞き取れた。
 「そう。ご苦労様。入って」
 そう。ご苦労様。入って。
 その言葉は、僕の知る言葉と同じだったのだ。



16


 彼は、僕をおぶったまま、建物の中へと入る。
 僕たちを迎えたのは、まず、「黒い人」の若い娘だった。
 一目見て、美しい娘だ。
 正直な話、「黒い人」の年齢はわからない。だが、おそらく、僕よりも若い。
 細くて、弾力のありそうな、蔦の様な四肢。 実物こそ見た事はないが、それはまるで、黒豹を連想させるような研ぎ澄まされた美しさ。
 しかし、それは外見の美しさであり、内面から湧き出すような美しさもまた、別格だった。
 娘に、しばらく眼を奪われる。
 だが、娘は会釈して彼とわずかな言葉を交わしただけで、それも「黒い人」の言語であり、先ほどの声の主ではない。
 娘に案内されるまま、部屋の奥へと進む。
 まだ「黒い人」の家屋を見た訳じゃないけれど、ここは、それとは明らかに異質であるような気がした。
 何故かは分からない。でも確かに、支配階級の気配が感じられるのだ。
 その気配の主ー。
 人影が見えたと思った途端、それが喋り出した。
 「いらっしゃい。いきなりで不躾だけど、傷を見せてもらうわね」
 初老の、女だった。
 栗色の髪。美しい発音。僕の知っている言語。
 身に着けている服装も、彼や、娘とも違う。
彼は、僕を傍にあった椅子に座らせた。
 「酷い荒治療ね」
 僕は慌てて返事をする。
 「すみません」
 「あなたが謝る必要はないのよ」
彼女が咽喉で笑った。僕も実際、何故、謝ったのかよく分かっていない。
 「俺ですか」
 後ろで、彼が困った声を出した。
 「あなたもよ。荒治療ながら適切な処置だわ。私に出来る事がないぐらいにね」
 彼女の言葉に、傷を見る。あらためて傷を見たのは、実はこれが初めてだった。
 槍の傷を、あきらかに何かで焼いている。こんなに酷い火傷を見たのも、したのも、生まれて初めてだ。頭では理解できても、今一つ、僕はこれが適切な処置だとは思えなかった。助けてくれた彼には悪いけれど。
 「そりゃどうも。ついでに、荒治療に耐えた彼も誉めてやってください。それじゃあ、俺はこれで」
 耐えたのではなく、耐えるしかなかったとも言えなかった。そもそも、彼が仕掛けた罠で怪我をした事に対する文句も言っていないままだ。
 もっとも、今現在もそんな事を言える立場ではない。そして、そんな事を言い出せる勇気もない事は、僕が一番、よく知っている。
 そんな僕に気付かずか、彼は早々に背を向けた。
 「有難う」
 彼女と、娘が、彼を見送った。僕は結局、彼に礼も文句も言えないままだった。
 彼を見送った後、彼女が、再び僕の前に来て、傷を見ながら言う。
 「怪我については、一ヶ月ほど寝ててもらう事になるけど、我慢して」
 初老の女には医学の心得があるのだろうか。そう言えば、ここは病院のようにも見える。彼 女は傍にあった机から、棚から薬やら包帯やらを取り出した。娘が、それを手伝う。
 「はい。・・・あの」
 僕は、ようやく、まともに言葉を口に出す事が出来たような気がした。彼女の前でも萎縮していないと言えば、嘘になる。でも、彼の前だともっと縮こまっていたのだろう。多分、ここにいる娘が僕の言葉を理解出来ないだろう、と思っていたから、少し気が楽になっていたのかも知れない。
 「なに」
 「彼のスポンサーが、あなたなんですか」
 本当に聞きたかった事はこんな事ではなかったような気もするが、とにかく、口に出たのはそれだった。
 「スポンサー? 彼がそう言ったの? そうね。正式には違うわ。スポンサーはここに住む黒人たちよ」
 「黒い人が」
 「そうね。いずれ会ってもらうと思うけど、この村を治めているのは私じゃなく、齢百を越える長老よ。正式には、彼が雇い主と言う事になるかしら」
 齢百を超える、と言うと、ひょっとして、支配階級と労働者階級に分断された時代を知っているのだろうか。
 「ここは、黒い人の村なんですね」
 僕は自分自身が何を喋っているのか、よく分からなかった。ただ、胸に詰まっているものを、可能な限り声に変換しようと試みている赤ん坊のように。
 「黒人たちは静かに暮らしているだけなのに、狙われているわ。彼らを動物だと思っているような、腐った上流階級の連中が、狩りの対象としてね。それだけじゃないわ。街から逃げてきた犯罪者が、辺境で生きていくために、この場所を見つけたら、どうなると思う?」
 僕は、返事さえ出来なかった。そうだ。僕はその支配階級の人間だ。「黒い人」を「動物」だと思っているような。どちらも、決して否定は出来ない。
 「もっとも、私も街から逃げてきた犯罪者ではあるけれど」
 「犯罪者には見えません」
 僕は慌ててそう答える。だけど、ここで確信した。間違いない。彼女は、僕と同じように、「支配階級」で生まれた。
 「有難う。あなたもそうだからわかると思うけど、私は新都の出身よ。彼には言わない方が良いわ。話せばわかってくれるとは思うけれど、彼はまっすぐな部分が強いから」
 彼女はそう言って笑った。
 「まっすぐな部分が強いから、強く生きられるんですよ」
 僕は、言葉が止まらなくなっている自分に気付いた。死と直面した恐怖から解放されたためなのだろうか。
 「そうね。小利口に、器用には生きられないけれど、それで自分と言う尊厳を失いたくはないわ。もっともそれで、新都を追われたんだけれど」
 ああ。そうだ。彼女の言葉に、僕は確信する。僕は、そう。彼女を知っている。
 僕は、彼女の事を、よく知っているのだ。
 彼女は、そう。
 彼女の名前はー。



17



 僕は、この女性の事を知っている。
 「政治犯、思想犯に女性は多くありません。なおかつ現在も生存・逃亡中となると、五人以下に絞られます。アンダー・・・」
 僕の言葉を遮るように彼女が言った。
 「逮捕する? それはそれでかまわないわ。その代わりと言っちゃ何だけど、絶対にこの場所だけは守って。ここに住む黒人たちだけは」
 はっきり言い切った彼女の言葉に、迷いや偽りはなかった。
 正直に言うならば、助けれくれた恩があるから、と言う訳ではない。だけど、もともと彼女を犯罪者だと思ってもいない。
 思想犯として新都から逃げた人間と言うならば、僕も同罪だろう。
 それに多分、彼女は死人なのだ。彼女は、彼女の中で死んでいる。
 新都を追われた、新都からすれば「犯罪者」の彼女は、既に存在意義を無くしている。
 ただ、今は黒い人達を守り、彼らと静かに、暮らす事だけを望んでいるのだ。
 先ほど握手した少年達の顔が思い出される。ただ、彼らの豊かな笑顔を守って行きたいだけなのだ。
 僕は、ゆっくりと首を振った。
 「いえ。あなたの事も、この場所の事も、黒い人たちの事も、誰にも言いません。誓います。誓います、僕のように強くなると言ってくれた少年に誓います」
 それを言うのが精一杯だった。声が震える。
 何故だか、急に涙が溢れそうになって、ただ僕はそれを堪えるのが精一杯だった。
 「有難う」
 彼女はそう言って、僕の頭を子供のように撫でてくれる。ちょうど、少年達の頭を僕が撫でたように。
 「お眠りなさい。疲れたでしょう」
 届いた言葉に、自分の疲労を思い出す。もしも今、彼女が姿を消したら、10を数え終わる前に眠る事が出来るだろう。
 だけど、それよりも、僕には知らなければならない事があった。
 知っておかなければならない。
 多くの事を。
 「その前に、訊いてもいいですか」
 「答えられる範囲でなら」
 彼女が、優しく答える。その声に促されるようにして、僕の中で何かが弾けたみたいに、声が漏れ出す。
 「新都が建設される以前、人類は何をしたんですか。100年前、人類は何を間違ったんですか。100年間、人類は何を間違え続けてきたんですか。彼らは何故、ここにいるんですか。あなたは何故、ここにいるんですか」
 「随分と沢山あるのね。そうね。何から話せばいいのかしら」
 本当は、まだ、まだ沢山ある。
 まだ、まだ、いくらでも。聞かなければならない事が。知らなければならない事が。そう。今まで、たった今まで知らされずにいた事を。
 たった今まで、知らずに過ごしていた事を。
 たった今まで、知らなくてもいいと思っていた事を。

 たった百年前。
 人類と黒い人、ー白人と黒人は、同じ大地に住んでいた事。
 一人の独裁者が現れ、黒人と白人が同じテーブルに座るのはおかしいと言い出した事。
 多くの白人が、そのファシストに魅了された事。
 ファシズムが当然のように横行し、力なき声は、握り潰され、多くの人間が付和雷同した事。
 その結果、黒人たちは追いやられ、選民と差別意識を植え付けられた世界は、支配階級と労働者階級に分かれていった事。
 これらの歴史を研究し、反体制的な文献を記した事で、彼女が新都を追われた事。
 逃げ込んだ地下シェルターで、そこを隠れ場所としている黒人たちと出会った事。
 施設自体が生きている事を知り、電力を集めて生活できる空間にした事。
 それから、ハンターとの出会いも。黒人たちの事も。全て。全て。
 彼女は、面倒がらずに、丁寧に、全てを話してくれた。一日を掛けて。
 その話を聞いている間、なぜか僕は涙が溢れ出して止まらなかった。一日中、涙が溢れて止まらなかった。
 「もっと詳しい事を聞きたければ、長老の所を訪ねるといいわ」
 そんな彼女の言葉を聞いたのが最後だった。
ゆっくりと闇が僕を覆い、声が遠退いて行く。

 僕は、優しい、穏やかなる眠りに落ちた。


18



 「お眠りなさい。ゆっくりと」
 彼女の声が聴こえたのが最後だった。僕は、安らぎとともに深い眠りへと落ちる。
 余りにも深い眠りで、夢さえもみない。
 いや、夢は見ていたのだろう。だけど、それは忘却の彼方へと消えていった。
 どんな夢を見ていたのだろう。深い眠り。
 深い、海の底に沈んでいくような、そんな印象だけが残っている。それとも、単に身体が休息を要求しているだけなのだろうか。
 深い眠りと、深い夢に包まれ、僕は、ほんの数分だけ眠っていたような気がする。
 「おはよう。私も、いつまでもあなたに付きっきりと言う訳には行かないから、あなたの身の回りの世話は、この娘にお願いして」
 彼女の声に起こされた。短い時間しか眠っていないような気がするけれど、おそらく、一日が経過しているのだろう。
 僕は身体を起こそうとしたけれど、身体が巧く動かせない。
 彼女の声は聴こえたけれど、彼女は傍にはいなかった。
 代わりに、娘がいる。僕たちを出迎えた、あの美しい娘だ。
 「どうしても用事がある時は、こういうふうに合図して。私を呼びに来るように伝えてあるから」
 そう言いながら、彼女が姿を現した。
 軽いゼスチャーで、自分を呼びにくる事を知らせる方法を、僕と娘に伝える。
 娘が、こちらを見ていた。何だか、少し怖気づいたような、いや、正直に言うと「黒い人」の表情はわかりにくいような気がするのだが。
 少年に握手した事を思い出した僕は、娘にも握手を求めた。握手の意味は通じるはずだ。
 「よ、よろしく」
 だけど娘はやはり怯えたような表情でー、僕の握手にどう答えていいのか、わからない様子だった。
 娘と僕は、救いを求めるように彼女を見る。
 「嫌われてるんでしょうか。肌が白いから、かな」
 彼女は苦笑を浮かべると、僕に向かって言った。


 「照れてるのよ。正義のヒーローを前にして」


 こうして僕は、傷が癒えるまでの日々を、ここで過ごす事となった。
 彼女の家で、彼女と、娘と。
 彼女は多忙の身らしく、実際は家を空ける事も多かったが。
 僕は「黒い人」の村では英雄の扱いになっていたけれど、真実を知っている僕自身は、とても歯痒い。実際の所は、ただの居候の穀潰しなのだから。
 娘と僕は、次第に、巧くコミュニケーションをとる事が出来る様になった。
 とても美しい娘だった。
 出会った事はないけれど、それはまるでしなやかな黒い雌豹のように。
 言葉はほとんど通じなかった。女史から教わった幾つかの単純な言葉以外は、身振り手振りで示すしかない。
 だけど、言葉が通じないからこそ通じる部分もあるのだ。
 だけど、それがかえって、僕たちをひきつける要因となった。

 僕たちは、恋に落ちた。



19


 「悪いけど、しばらくここを空ける事になるわ。留守の間も、これまでと同じようにしててもらえる?」
 少し早口気味に、彼女が僕と娘に告げた。彼女がここを空ける事自体は珍しくなどない。だが、今回ばかりは様子が違う事は、明らかだった。
 「はい。それは問題ありませんけど、何かあったんですか」
 訊くべきか訊かざるべきか、少し迷った。彼女は、一瞬、娘の方へと視線をやるが、そのまま、僕にだけ分かる言葉で続けた。
 「まあね。大した事じゃないわ。・・・いいえ、大した事ね」
 溜め息を吐き出した彼女は、幾らか落ち着いた様子で続ける。
 「いつもの事よ。ひとりが、撃たれたの。残念だけど、もう助からない状態になってるわ」
 頭を振りながら、まるで、自分に言い聞かせるように。
 「助からない状態って・・・」
 僕の胸の中に、黒いものが湧き出してくる。この辺境に一人取り残された、あの絶望と恐怖が甦ってくるようだった。
 「死ぬわ。もう死んでるかも。仕方なかったのよ」
 彼女の言葉に違和感を感じる。死ぬ。死んでいるかも。その言葉の意味は何だ?
 「仕方なかったって、どうしてそんな」
 助からない状態。助からない。仕方ない。死ぬ。死んでいるかも。
 その言葉の意味は何だ?
 僕の質問に苛立ちを感じたのか、彼女の声色が変わった。
 「街からの逃亡者連中に、撃たれたのよ! そうでなきゃ彼だって!」
 叫んでから、口を噤む。撃たれた? 彼が?
 「彼? 彼ってまさか、まさか」
 彼のたくましい顔つきを思い出す。屈強のハンター。彼が撃たれた? そんな事はありえない。あってはいけない事なんだ。
 「待ちなさい。撃たれたのは、彼じゃないわ」
 彼女は、自分の叫び声で冷静さを取り戻したらしく、落ち着いた声で僕に告げた。
 僕の胸が、締め付けられたような気がした。
そうだ。
 僕は今、間違いなく安堵とした。
 撃たれたのが彼じゃないと聞いて、安堵したのだ。逆を返せば、知らない誰かが、撃たれたと言う事実に。
 「詳しい事は彼に会うまでわからないけれど、とにかく、彼が酷く動揺してるのよ。まだ、その場から脱出できないみたい」
 「そんな・・・」
 どうやら、撃たれたのは、彼に同行した黒い人らしい。
 無線での連絡があったものの、怪我人は助からない状態で、彼自身も、その場から逃れられない窮地に立たされている。
 一番の問題は、「助からない怪我人」が、まだ生きていると言う事実だった。
 彼は、それでも怪我人を助けて、連れて帰りたい。それが無理でも、せめて遺体ぐらいは村まで連れて帰ってやりたいのだと言う。
 しかし、その絶望と苦痛が続き、それでも助からないと言うなら、彼の手で葬ってやるべきなのか、悩んでいる。
 いや、彼のことだ。最後の連絡の後、既に決断を下したかも知れない。
 おそらく、彼一人なら、その場だって切り抜けてくるだろう。いや、彼はタフだから、遺体を背負ってでも生き延びてくる。
 もしかしたら、そう。怪我人だって、助かるかも知れない。

 だって、彼は本当のヒーローなのだから。


20


 彼女が部屋を出て行くと、いきなり、部屋の中が空虚になった。
 この部屋は、こんなに広かっただろうか。
 この家に、娘と僕の2人だけ。日常でしかない事なのに、それがどうしようもなく不安だった。
 いや、僕よりも、娘の方がずっとずっと不安だったに違いない。不安と言うよりは、怯えかも知れない。
 黒い娘は、隠れるようにしながら、おそるおそる僕を見ている。
 二人の口論を見ていたのだから、当然といえば当然だろう。それも、理解できない言葉で怒鳴りあっていたのだから。
 娘に、いつもの、凛とした強さが感じられない。
 そう言えば、僕が声を荒げたりしている姿を見るのは、初めてなのだろう。
 そう思うと、自分自身が、少しだけ笑えた。そうだ。娘だけじゃない。
 僕自身、一体いつの頃から、こんな感情をなくして生きて来たのだろう。

 怒ったり、笑ったり、優しくしたり、優しくされたり、

 いつの頃から僕は、こんな気持ちを殺して、生きて来たのだろう。
 何だか、気分が楽になった。彼も、黒い人も、きっと無事に帰ってくる。そんな気さえした。
 「大丈夫だよ」
 僕は娘に、微笑んだ。そして、僕自身に言い聞かせるように。
 「何でもないんだ」
 繰り返す。そう。何でもない。きっと、彼は何事もなかったかのような顔で、僕をからかってくれるに違いないのだ。
 娘は、僕の感情の起伏を不思議に思ったのか、きょとんとしている。
 僕はもう一度、赤ん坊をあやすように言う。
 「声を荒げてごめんね」
 その言葉の意味が通じたのか、通じないのか、娘が、おずおずと近寄ってくる。
 不安そうな瞳が、僕を覗き込む。
 僕は手を伸ばす。僕の指が、彼女の頬に触れた。
 「大丈夫だから」
 彼のような、ヒーローにはなれない。僕には、そんな資質もなければ、そんな柄でもない。
 ある意味、英雄志願があったからこそ、こんな「辺境」へ来た。だけど、今は違う。
 ヒーローじゃなくていい。ただ、ヒーローになりたいと言う気持ちと、
 そう、
 目の前のこの娘を、不安にさせたくない。
 ただ、それだけなのだ。

 僕は、娘を抱き寄せた。
 娘が、力なくしなだれかかる。怯えては、いない。

 ふと、長老の言葉が思い出された。黒い人と、人は、遺伝子的には何ら変わらない。
 同じ、人なのだ、と。
 まぐわうことも出来れば、子を宿し、産むことも出来る、と。

 頭の中で、長老の言葉を反芻する。
 僕はただ、娘を、強く抱き締めた。


21



 七日間が、流れた。
 僕の足の傷もほとんど癒え、女史と相談の結果、ここを出て行く話がまとまった、次の日。
 荷物をまとめている僕のところへ、彼が訪ねてきた。
 「久しぶりだな」
 彼が無事だった事だけは聞いている。
 「お元気・・・そうで何よりです」
 僕はそう答えたけれど、彼の憔悴した顔つきを見れば、元気なんかじゃない事は明白だ。
 彼は、表に出るように合図した。僕は、それに従う。
 家を出て、村を出て、僕達は大地を踏んだ。辺境の太陽と風にさらされながら、どちらともなく、ぽつりぽつりと話し始める。
 「心配掛けたな。アンタに心配されるようになっちゃ、お終いかもな」
 彼が、無事だった事は聞いている。無事に帰還出来たのは彼だけだった事も聞いている。
 せめて、遺体だけでも連れて帰ってやりたかったが、と、彼は苦笑いした。
 「相変わらず、強いんですね」
 僕は、本心にもない事を言う。何故だか、今ならわかる。彼が、泣きたいぐらいにつらい事。
 強いから、そして、英雄として崇められるからこそ、彼は強くならざるを得ない。
 「それぐらいしか、取り柄がないからな」
 そうだ。僕は残酷な事をした。彼は、たった一人の部外者である僕に、ただ一言、泣き言を漏らしたかっただけなのに。
 ただ一言、「助けたかった」と、泣きたいだけなのに。
 でも、それでいいのかも知れない。彼は、ひとつの命を助けられなかった自分を責め続けるだろう。でも、それでいいのかも知れない。
 彼自身が、強くあるために。彼自身のために。
 そして、彼に強く焦がれる子供たちのために。
 そうだ。人は誰も強くなんかない。
 ただ、どれだけ強い振りをできるか。強い自分だけを人に見せられるか。そして、そのままでいられるか。
 僕は、残酷な事を承知で言う。残酷さも、強さだろうか。
 「あなたは、タフだから」
 残酷な事がタフだと言うなら、僕は強くなれる。彼よりも。いや、彼は残酷にはなれない。彼の優しさは、弱さなのだろうか。
 「・・・そういや、ここを出ていくんだってな」
 彼は、そんな僕の思考を読み取ったかのように、話題を変えた。
 「ええ。明後日、ここを出ます。でも、戻ってきます。あなたに、来るなって言われても」
 僕は、新都へ行く。だけどそれは帰還ではなく、そう、決別なのだ。
 「怪我の具合は?」
 少し、ばつが悪そうに訊かれる。
 「動かなければ、もうほとんど痛みませんし、ちゃんと歩けます。あなたにグリグリやられた記憶は消えそうもありませんけど」
 思えば、あれが一番最初だった。
 たったの一ヶ月。その中で僕は、初めて生きている意味を知った。いや、そんな大袈裟なものじゃないのかも知れない。ただ、僕は、そんなちっぽけな事にさえ気付かず、生きて、生かされていたのかも知れない。
 「・・・なあ、最後に一つだけ訊いていいか?」
 彼が、何処までも澄んだ、広い、遠い空を仰いで言う。
 「はい」
 僕も、空を仰ぐ。本当に、吸い込まれそうな青だ。
 「何で、支配階級に収まっていなかった?」
 彼は、空を見たまま、僕の方も見もせずに、言う。
 女史はああ言っていたけど、多分、彼は最初から知っていたのだろう。多分、その優しさが、彼の強さなのだ。
 「そうですね。あなたからすれば、支配階級の勝手な気紛れです」
 否定しない。所詮、支配階級の戯言なのだ。
 「そうだな」
 彼も、否定しない。
 「だけど、僕はここに来たかったんです」
 僕は、彼の方を向く。
 「そうか」
 彼も僕を見て、短く、力強く答えた。


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(´・Д・)」 文字を書いて生きていく事が、子供の頃からの夢でした。 コロナの影響で自分の店を失う事になり、妙な形で、今更になって文字を飯の種の足しにするとは思いませんでしたが、応援よろしくお願いします。