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「出る杭」ではなく「糠の中の釘」のように天才をインターフェースする ー読書メモ:『チューリングの大聖堂』

 iPhone XRの広告を眺めていると、改めてスティーブ・ジョブズの「偉大さ」を思い知らされる。コンピュータという製品・商品を「計算用の機械」から「上質な体験を生きる者としての“ユーザ”を生産する機械」に作り変えてしまったという偉業。

 これは「テレビ」を、「映像(動画)を配信する機械」から「欲望の主体としての消費者を生産する機械」に作り変えた20世紀半ばのマスメディア以来の快挙であると、個人的には思っている。

 スティーブ・ジョブズは世に「天才」と呼ばれている。

 コンピュータというか情報技術の世界は、ごく少人数の、時にはほんの一人二人の「天才」の着想から始まり、人類の世界をガラリと変えてきた。
 アラン・チューリング、フォン・ノイマン、ダグラス・エンゲルバート、アラン・ケイ。そしてビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズもそこに加えて良いだろう。初期のコンピュータの「天才」たちの事情については『チューリングの大聖堂』あたりが読みやすく詳しい。

歴史を動かすのは、ひとりの英雄か、それとも無数の民衆か?

 この問題は20世紀のはじめあたりから長年の議論を経て削り込まれ、もはや歴史、英雄、民衆、という言葉さえ安易に使えないくらいにまで鋭利に研ぎ澄まされて、今に至っている。 

 ことコンピュータに限って言えば、その発展には天才的な英雄も、無数の民衆も、両方とも欠かせなかったと言えよう。

 コンピュータを作った天才たちの名前と顔は、「大衆」の欲望という解釈困難な蠢きが社会の表層の理性の言葉をごっそりと剥がし、流し去ってしまったかのような「近代」の隘路において、ひとりの人間の言語的な創造性というものが未だ人類の表層に浮かび上がるチャンスを奪われていないことを教えているようでもある。

 コンピュータが一挙に実用的なものへと作り上げられた20世紀の中ば。
 それは産業革命以来の工業技術の発展がひとつのピークを迎えたと同時に「総力戦」という、経済的な合理性を突破して採算度外視の技術開発コストを国家が丸抱えするという、人類史上稀有な「偶然」が圧縮された時間であった。たまたまその直前に生を受けた数人の天才たちは、なんと「幸運」だったことだろう

 7万年と言われる人類史から見れば、そのほんの「直前」に、チャールズ・バベッジが資金集めに苦労しつづけ、結局思うように完成させられなかった「計算のための機械」。それが複数の天才たちによって、同時多発的に、かつ互いに有機的につながりながら、一挙に「完成」に至る。
 そのためには天才が生まれることに加えて、社会が、つまり他の無数の平凡な人間たちの群れが、その天才たちの異行、異言に「まで」すがりつなざるをえなくなるほどの、「危機」の感覚が必要だった

呪術師を「彼は呪術師である」と認めるのは凡人たちである

 話し言葉から始まり、手書き文字、印刷技術によって大量生産された文字へと至り、ラジオ、テレビの「電波」の中へと領土を広げていった「無数の死者たちの声」としての言葉たち。
 その言葉たちは今やWeb状のネットワークをなす通信技術によって「リアル」な実物の世界に重畳する「パーソナルでリアルタイムな、双方向の」メディア技術に憑依している。
 そうして人間にとっての世界というものが自然的事物の集合体ではなく、死者たちの声の残響によってその形を魅せている影のようなものであるという、その「正体」をありありと現している。

 数人の天才たちの驚異的な着想の「言いなりになった」人たちのおかげで、人類はその生息環境をまた新たにガラリと作り変えることに成功したのである。「新石器革命」そして「産業革命」に次ぐ「情報革命」である。

 ところで、天才たちの伝記を読むと、現在の常識的感覚からすると、いや、おそらく当時の常識からしても、どう考えても奇人変人であろうという言動を取る人が少なくない。

 天才が、「頭のおかしい人」として社会から追放されずに、かろうじて生きながらえるだけでなく、技術開発や経済活動の現場に生き場所を与えられ、しかもそこから天才的なアウトプットが掬い上げられ、社会を大きく変えるプロダクトに育てられる。

 そんなことが可能になる条件というものが見えてくる。

 天才たちは、言い換えるなら「他人の常識的な意見には一切耳を貸さない」人たちであり、「常識的な世人には一切理解できないような言葉を発する」人たちである。天才は、周囲の他者との間に圧倒的なコミュニケーションのギャップを生じる。それはぞっとするほどの一方通行なのである。

 天才と凡人は「理解できない、ということだけは理解できる」という関係だけで言葉をやり取りする

 通常ならば、聞かなかったことにされる天才たちの言葉。

 しかし、様々な社会情勢の偶然が重なったところで、例えば総力戦体制の中で、戦争に負けないために、それまで「不可能」と思われていたような変態的な「機械」を作りたい、という願望が常識的で冷静な社会の表層のトップたちの脳裏を共振させたところで、はじめて天才たちの「異言」を、どうにかこうにか必死に解読してみようという奇特な凡人出身の翻訳者たちがたくさん現れる。彼らは予算を取り、スケジュールを管理し、プロダクトとして形にするところを担うのである。

 そうして天才たちの異言は常識の言葉に置き換えられ、それをものへと具現化する工程を無数の人々が手伝うことができるようになる。

おわりに

 天才は、凡人に対して「わかりやすい」説明責任を果たそうなどと夢にも思わない傾向がある。天才においては、天才からは、凡人の想定外の組み合わせ方で言葉が湧出し続ける。それが凡人にとっては恐怖や不安を煽ることもあり、黙らせておきたいという反応を引き起こしてしまうのも無理からぬ事である。 

 「藁にもすがる思いで」、あるいは「おもしろがって」、天才たちから繰り出される異言をひろいあつめ、それを他人を動かす、他人の財布を開く手を動かすキャッチコピーに翻訳してしまう人。その人はおそらく、現行の出来合いの世界に満足しきることができず、もう少し別のなにかに作り変えたいという感覚を持っている。その感覚は、天才の異言を、新しい人類の環境について語る言葉として聞き取るのである。

 もし天才に、そうした翻訳者にしてPR担当者のような人が心底惚れ込んだ場合にのみ、天才は天才として世に生きる余地を与えられる。

 そうして天才は、「出る杭」ではなく「糠の中の釘」のような者になれる。そうして釘は糠へと、じわじわと溶け出し、いずれは渾然一体となった新しいバージョンの糠を醸すわけである。それが、英雄にも、また大衆にも、過剰になにかを期待しすぎない有機的な生きた人類史を紡ぐのである。

おわり


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