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「対にした」から「意味が出現する」ー生と死の意味さえも

最近書いたこちらのnote。

意味の発生、ということを考えていると、思い出すのは「対にした瞬間に意味が出現する」というレヴィ=ストロースの言葉である。

最近読み込んでいる井筒俊彦氏の『東洋哲学の構造』に収められた論文は、この問題に踏み込む上で驚異的な精度で思考の進む方向をナビゲートしてくれる。

井筒俊彦氏『東洋哲学の構造』に収められている「存在論的な事象の連鎖ー仏教の存在観」という論文によれば、事物とそれを認識する人間との関係には、次の三つの相があるという(『東洋哲学の構造』p.450を参照)。

第一に、日常の経験世界

そこでは個々の事物は「超えることができない自分の境界内で…制限されて」いる。この段階で世界は同一律と矛盾律をその論理とする。事物Aは事物Aであり、事物Aは事物Bではない、という世界。

第二に、事物の境界を外してみた世界

それに対して事物の「自然な境界や限定を外して見る」ことができる人にだけ開かれる世界がある。そこでは事物Aは事物Bでもある。AとBが相即している無分節の世界。

第三に、分節化された世界の深層に分節化作用の働きを見る世界

そして第三の世界がある。それは「事物をその境界から離れて見ることができるばかりでなく、これらの事物の各々を、全て存在論的な限定を伴う元来の分別のある枠組みへいわば引き戻して、それを再びその経験的な形式で見る」ことによって開かれる世界である。それは第一の分節化された世界と一見おなじものであるけれど、その完成済の分節体系を、常にその深層で動き続けている分節化作用の動き、働き、蠢き、躍動が投げかける、つかの間の影のようなものとして意識する。

第一の世界では、ちょうど木を伐採したあとのチェーンソーがエンジンを切られて置かれているように、予め分節化が完了しており、分節作用の動きそのものも完全に止まっているように感じられる。

それに対して第三の世界では、目の前に広がる分節化された事物たちの体系は、あるひとつの巨大な分節化作用が今まさに働いていることによって浮かび上がる影なのである。

分節化の動きを生きる

予め決まりきっているように見える事物や、その意味。それが決まりきって見えるのは、分節化作用の躍動する動きのことを忘れ、それが投げかけた動く影を、何かの固着した記号へと更に転写した結果である。

そして固着した記号という着想を人間に与えてしまうのが、第一には文字であり、その基礎にある音声であり、要するに言葉なのである。

言葉を、無分節を分節化するいままさに躍動している動きと捉えるのか、それともとうの昔にストップした完成済の分節体系と捉えるか。

言葉という共同主観性をその環境として進化した私たちの意識というものは、どうやら日常の自然な世界を、どうしても後者の方、完成済の固着した分節体系と捉えがちなのである(たぶんそのほうが楽なのである)。

だからこそ、その静止し固着した姿の下に、隠れた深層に、分節作用そのものが現在この瞬間にこの場所で働いている姿を覗き込まなければならない。そのための「見る」技術を、わたしたちはどうやって獲得することができるのか。

詩的言語のためのメディア技術へ

その手がかりの一つは、言葉を徹底的に詩的言語化すること。それは言葉自体を唸りを上げて分節化作用を働かせては「テクストを編む」、自動織機のような機械として見ることである。

メディア技術は、まさに機械そのものとして、言葉という自動機械の動きと一体化する。

そこで例えば、文字というメディア技術には最初に書き込まれた分節体系を変更不可能な完成品とみなす傾向があるとか、同じ文字を大量複製する印刷というメディア技術には分節体系を完成品とみる観方を強化する傾向があるとか、あるいは声というメディア技術には目の前の他者の沈黙や異言と対決するために分節体系をそのつど開き、組み直そうとする傾向があるとか。

そうして声であり声でない、文字であり文字でない、大量複製されたものでありながら大量複製されたものではない、来たるべき未来のメディア技術による言葉は、経験的世界の表層に写る固着した事物の体系を保ちつつ、それだけにとどまらない深層の分節化作用の今この瞬間の動きを明るみに出しつつ、しかしそれを表層の分節体系を絶えず開いては閉じる、崩しては立て直す、そういう往復運動を引き起こす機械にならざるをえない

その機械が織り出し続けるテクストは、バベルの塔のようにどこか一点に収斂していこうとするものではなく、あらゆる方向に広がりつつ、それでいて束の間のパターンを浮かび上がらせる、粘菌のような曼荼羅のような運動体になる。

それはロゴスではなく「レンマ」の論理で動く。無数の分節化作用を共振させ、表層の日常的なロゴスの固着した意味体系をバラし、しかしバラバラのままに放置することは決してなく、新たなテクストあるいは曼荼羅ないし進化するシステムとして自らを織り直す。そしてまた新たに織り成された新たな日常性は、それもまた決して固着することなく、次の織り直しのサイクルに引きずり込まれる。

この言語機械の「動き」を、個々人の意識に、死すべき生の意味を求めざるをえないその精神にインターフェースすること。そういうメディア技術を設計すること。それが、何の目的もなく偶然たまたまここまで進化した人類という生命が、記号と記号の対立関係が織りなす網の目としての「意味」を織り続けざるを得ないという自身の境遇と折り合いをつける、ほとんど唯一の方法なのだろうと思う。

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