胡乱マーケット100年の歴史

 胡乱マーケットの起源は、大正時代に行われた治安維持法による共産主義運動の規制に対抗する形で開催された活動に端を発する。
 対抗と言っても表立った行動ではなく、大正デモクラシーによって活発となった自由主義活動に偽装する形で行われた。
 自由な発想の創作活動の集いとしてアマチュアたちによる奇天烈な小説、絵画、音楽活動の場として開かれたそれは、あまりの胡乱さに胡乱市と呼ばれていた。
 しかしそこでの発表作品を注意深く見れば、極めて巧妙に共産主義思想が秘められていたことが最新の研究で判明している。
 当時の共産主義者は胡乱市を通じて、民衆の潜在意識下に共産主義を植えつけようとしたが、警察に摘発されないよう巧妙に隠しすぎた結果、作品に触れた人々には表面上の胡乱しか伝わらなかった。
 結果、共産主義は日本において主流の思想にはなり得ず、胡乱市は表向きの自由な創作活動の場としての存在意義を主体として継続していくことになった。
 なお、この時代の胡乱市は有名な小説家、画家、音楽家たちも参加しており、文化の接続点として近代史を語る上でなくてはならない存在である。
 その後、現代での胡乱マーケットという呼び名になったのは、太平洋戦争後の連合軍統治時代である。
 当時は敗戦後で物資が乏しく、小説も絵画も音楽もその活動が困難であった。それでもなお人々の創作に対する情熱は強かった。もはや創作と呼べるものならばなんでも良いという精神で、胡乱市はありとあらゆる創作物が発表されていた。
 そして日本に訪れた連合国兵士たちに目には、異国の中でも一際異彩を放っているようにうつり、彼らは帰国の際に珍しい土産物として胡乱市の創作物を買ったのだ。
 日本帰りの土産といえばUron•Marketとなり、日本人の間でも胡乱市は胡乱マーケットと呼ばれるようになった。現在では奇抜な創作物を英語でUronと呼ぶのはここから来ている。
 こうして我々が知る現在の胡乱マーケットが形作られたのである。

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