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日野巌の出生と生い立ち

以前、日野巌の年譜を紹介した。その際には、日野巌『防長本草学及生物学史』(日野巌先生還歴記念、1958年)のみを参考とした。

 その後、平中十郎「初代会長 日野巌先生を悼む」『宇部地方史研究 第一三号』(宇部地方史研究会、昭和六十年)にも詳細の年譜があることが分かった。

 日野家は、萩藩で代々藩医を務めており、幕末に活躍した日野宗春(一八二七~一九〇九)の孫が日野巌である。宗春については巌が略伝として『日野宗春』(昭和三十三年)を刊行している(「いやす な おす たもつ 四」第十一回中国四国地区アーカイブズウィーク(山口県文書館))。
 日野家は『高千穂採薬記』を書いた賀来飛霞を輩出した賀来家と遠縁であることを、宮崎高等農林学校教授宮澤文吾が記している。

本稿を草するに当つて日野巌博士の多大な御尽力に対し厚く謝意を表する、日野家と賀来家とには婚姻の関係があるが為に先生の閲歴を取調べる上に少なからぬ便利を得たのである

宮澤文吾「日向採薬記を観て」『本草 八』春陽堂、昭和八年三月

 さて、日野の話に戻る。
 これまで日野の出生は、山口県となっていたが、この資料には「明治三十一年(一八九八)九月一日、北海道岩見沢に日野吉甫の三男として出生」とある。
 日野の素性がわからないまま、その妖怪博士としての業績が注目を集め、不明のまま、想定から山口県生まれとして、それが引き継がれていたのだろう。

 父・吉甫は東京山林学校(後の東京農林学校)を卒業、帝室林野局技師であった(「5.日野教授収集文書」『山口大学農学部所蔵庶民史料目録. 第一集』山口大学農学部、一九六一年) 。東京山林学校は、明治十五年創設。同十九年に駒場農学校と合併して東京農林学校となった。まだ、情報を整理できていないが、「次世代デジタルライブラリー」からその勤務状況がわかりそうである。

 次世代ライブラリーによると、その後、北海道に技師として勤務、少なくとも大正3年までは北海道で勤務していた。巌は北海道で生まれ、その後の進学については不明である。さらに学制が頻繁に変わる時期であり、巌が育つ間に、学制が、明治三十三年、明治四十一年、大正八年の三回も変わっている。青森の中学校を卒業していることが、『第六高等学校一覧 自大正6至7年』に記載されている。巌が青森の中学校に進学した理由が知りたいところである。親元を離れたのか、父の異動によって青森に行ったのか、そのあたりは今後の課題である。
 青森県の中学校を卒業し、大正六年(一九一七)九月に岡山県の第六高等学校(現岡山大学)へ入学し、同九年七月一日に卒業している 。この高等学校時代に、妖怪研究もコレクター趣味も始まっている。その興味はこのころから多種多様な博物学的な興味を持ち、既に実行していたことが容易に想像できよう。

 さらに第六高等学校の雑誌『六陵科学』に二本寄稿している。
日野巌 伝説に現はれたる無稽の動物に就て 六稜科学同友会 六稜科学 9 六稜科学同友会 1920-2
日野巌 伝説の動物考(承前) 六稜科学同友会 六稜科学 10 六稜科学同友会 1920-6

 第六高等学校を卒業後、大正九年九月に東京帝国大学農学部農学科に入学するが、この年まで東京帝大は九月入学であった。

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