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倉田一郎の宮崎県民俗調査

倉田一郎の個人的情報は以下を参照いただくとして、ここでは宮崎県の民俗調査について記しておく。
https://kotobank.jp/word/%E5%80%89%E7%94%B0%20%E4%B8%80%E9%83%8E-1644144

倉田一郎は、柳田國男と出会い、昭和9年1月に発足した木曜会の会員となり、この会を中心にした「日本僻陬諸村に於ける郷党生活の資料蒐集調査」いわゆる「全国山村調査」に参加している。倉田は昭和9年頃から椎葉村への調査を始めており、「昭和11年(1936)には宮崎県児湯郡西米良村へ入り精力的に調査している」とある(戸塚ひろみ「解説ー倉田一郎、生涯とその業績ー」『日本民俗文化資料集成 第16巻』三一書房)。
 「焼畑覚書ー日向国西臼杵郡椎葉村ー」『ミネルヴァ(1ー3)』(昭和11年)。この報告書末には「3・17」とあり、昭和11年3月17日に報告をまとめたと考えられる。
「九州漁語抄ー日向日置漁村語彙ー」『方言 6ー10』(昭和11年)。昭和11年4月から5月にかけての九州調査をまとめたもので、そのうち宮崎県児湯郡富田村日置の調査は山本広太氏への聞き書きを元にしている。
 このほか「ムラウツイ」『民間伝承3ー6』(昭和13年2月)、「日向の『木おろし唄』」『文学 8ー10)』(昭和15年)などを記している。

以上は以前に記した文章である

昨日、宮崎県立本庄高等学校郷土部編(1961)『西米良村史資料』を見ていたら倉田一郎の原稿が記載されていることを思い出し、内容を確認したところ、興味深いことが書かれていたので、メモしておく。

この冊子は、38頁ほどの薄いもので、西米良村のことを国富町にある本庄高校の郷土部が作成しているある。発行人が野田敏夫となっているが、顧問ともあるので、高校教員で、郷土部の部活の顧問だったと思われる。

その野田が「はしがき」の冒頭に次のように記している。

 昭和35年8月、日向近世史料採訪に上京の節、柳田国男先生を訪れた。(中略)かねてより敬意を表していた私は、先生へご挨拶に行き約三時間に亘って、ご高説を承り感激にたえなかった。その際、先生が蒐集された蔵書九千七百冊、資料カード十五万枚を正常大学図書館に赴いて閲覧の機に恵まれた。ところがここに紹介する貴重な資料すなはち、西米良村の民俗、方言を故倉田一郎氏が採集の手帳及び明和四年、米良逃散資料をはっけんしたのである。そこで先生にこのことを報告、僭越ながら資料集の刊行を仰いだところ、ご快諾を頂いた。 

これまで、この記載に気付かなかったが、更に「解説」に資料の詳細について記されている。

西米良村民俗と方言(抄)
 本集は柳田国男氏のひきいられる日本民俗研究所において昭和十年わが国の隅々にある地域をひろく踏査して、その採訪記録を残すための調査が行われたとき、研究所員であった倉田一郎氏が東京より西米良村へ昭和十一年正月二日と五月五日の二回にわたって調査採訪されし「採集手帳」を抜粋したものである。この時倉田氏の話し相手は黒木信慶・中武安正・中武徳三・尾又徳二その他数名とある。倉田氏は戦後間もない昭和二十二年五月、四十二歳にて早逝された。それかあらぬか、右の期間、他の地域の調査草稿は整理、報告書として昭和二十六年より「全国民俗誌叢書」となり刀江書院より続々刊行になったが、西米良村の場合は、その侭、書庫に埋もれていたが、きわめて貴重なものである。ここに一部活愛せるほかはすべて原文のまま紹介し、謹んで倉田一郎氏の霊に捧げたい。

冒頭に戸塚の「昭和11年(1936)には宮崎県児湯郡西米良村へ入り精力的に調査」の内容が詳しく分かる。

調査時期:昭和11年正月2日、5月5日
調査地:西米良村
話者:黒木信慶・中武安正・中武徳三・尾又徳二その他数名

この名前から調査集落も今後特定できるかも知れない。

以下にその一部を紹介するが、地元でも活用できる貴重な聞き取り調査である。

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