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楢木範行年譜1:明治37年(1904)~昭和3年(1928)

楢木範行について複数記事を書いてきたが、時系列に資料を整理しながら年譜作成を始めることとする。


楢木範行について鹿児島民俗研究会の会誌『はやと』第三号(昭和12年8月20日)に、魚浦閑人が「会員点描(一)」と題して以下のように紹介している。

楢木範行氏 差(羞)渋家であるかと思へば、冷い情熱家そして飽くまで小肥りの差(羞)渋家である。氏の研究態度はこの研究会で一番正しいやうである。お控えなせえ!彼こそ國學院といふ畑で折口仕込みの菫(薫)陶をうけたチヤキチヤキ(記号)。生れは日向、霧島颪(おろし)も肌寒き、真幸野の島内でごんす。と言へば、真幸野が何やら吹つ飛んでしまふて、ぢや恁う言つたら序に勉強にならうと言ふものだ昔ニシメ。(西目で川辺郡地方のものを総括的に言つたものか)の座頭が栗野まで来て、真幸に行つて米を喰はふか菱刈に行つて女を買はふかと杖占をしたら矢張り真幸の方に杖が倒れたといふ。それつ位米は今でも自慢だとさ。次にこれは自慢にならぬ話(但し事楢木個人に関する)時により話かけても返事をせん悪い癖あり、心して矯正すべし。現在商船学校のハナハトマメの先生曩(さ)きに上枠した「交易の研究」あり又今年中に「真幸野の伝」(仮題)を纏めると、鶴首される。

國學院大學の恩師、折口信夫の弟子として紹介されていることから、折口との関係は続いていることが分かるが、楢木の年譜をたどる上で大きな分岐点は、長野県立上伊那農学校の教員になる経緯と、鹿児島県立商船学校の教諭になる経緯がポイントであるが、資料が少ないため、推測の域を出ない。國學院大學の資料、折口信夫、柳田国男関係の日記などの資料を細かく当たる必要を痛感している。

 以下、時系列で楢木範行の生涯を振り返ることとする。

○明治37年(1904)5月25日、
西諸県郡真幸村大字島内に生まれる。
男三人の三男で、女六人(詳細不明)人兄弟姉妹の大家族で、父茂吉の勉強好きを引き継いだのは範行だけであった。

範行は茂吉に新聞の切り抜きなどを送っており、茂吉の博学が後に範行に学問を志す素因となった。

鹿児島時代には父・茂吉が鹿児島に行った際には図書館を案内していた。

○明治43年(1910)4月
真幸尋常小学校入学

○大正5年(1916)4月
真幸高等小学校入学

○大正7年(1918)4月
加治木中学校入学
真幸尋常小学校を卒業後、真幸に中学校がなかったので、加治木中学校に進学した。

○大正11年(1922)4月
國學院大學高等師範部に入学する。おそらく家庭の経済状況から学費の必要でない高等師範部に進学したと考えられる。

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大正9年(1920)、大学令により、私立大学として最初に認可されたのは、國學院・慶應義塾・早稲田・明治・中央・日本・法政・同志社の8大学であった。國學院大學は、この年に高等師範部を設置して、教員養成にさらに力を入れることとなった。大正12年(1923)渋谷に新校舎が完成し、6月から授業を開始。9月の関東大震災に被災するが、翌13年に復旧する。
折口信夫は、大正11年4月から國學院大學教授となっていることから、楢木は第一期生である。学部一年目の授業の「日本文学史 上古文学 折口教授口述」と記されたノートが一冊だけ遺されている。

折口0 (2)
折口5 (2)

大正11年1月に雑誌『白鳥』が創刊され、國學院大學学生として西角井正慶(見沼冬男)・細川清・高崎正秀等と記されている(『折口信夫全集 31』)。こうした國學院大學出身の研究者の情報から今後資料を探していきたい。

大正13年『國學院大學一覧』には、楢木範行の名が見られる。

p124に「高等師範部第二学年 乙組 選科 宮崎 楢木範行」の名が見える。

文書名digidepo_940273_PDF國學院大學一覧 (2)

『日本民俗誌大系 第2巻 九州』には次のように、大学時代に柳田国男を知り、卒業後ということは長野県上伊那農学校に就職してからということだろうか、あるいは鹿児島県立商船学校に就職してからだろうか、詳細は不明である。

「民俗学への関心は、父茂吉から受けついだものであり、さらに国学院時代、柳田国男先生を知ることによって本格的なものになっていったと考えられる。卒業後も毎夏上京し教えを受けた。

『日本民俗誌大系 第2巻 九州』角川書店、1975年

○大正15年(1926)4月1日
長野県立上伊那農学校で約二年半教師として勤務することとなる。
大正15年5月の『中等教育諸学校職員録. 大正15年(5月現在)』には、担当教科は、修身・国語・歴史であった。

文書名中等教育諸学校職員録. 大正15年(5月現在)digidepo_937376_PDF (2)

大正15年8月の『長野県職員録』には教諭心得(臨時教員)として勤務していたことが分かる。

文書名長野県職員録. 大正15年8月1日現在digidepo_927684_PDF_ページ_1 (2)

『中等教育諸学校職員録 昭和2年5月現在(第24版)』には、担当教科が国語・漢文・歴史と記されている。

文書名中等教育諸学校職員録. 昭和2年5月現在(第24版) (2)


この学校は、明治28年(1895)に郡立伊那簡易農学校として設置された後、度々の改称を経て、明治44年に長野県立上伊那農学校、昭和23年に長野県上伊那農業高等学校と改称されている。

この就職は、折口の紹介なのであろうか?折口は大正8年九月上旬長野県東筑摩郡教育会西南支会に招かれ、和田村において講演する。この後、信州各地に講演することが多くなった。楢木が就職する大正15年1月には、折口は早川孝太郎と三州北設楽郡豊根村牧ノ島三澤の花祭り、信州下伊那郡且開村新野の雪祭りを見学しており、この時期に早川と楢木の交流は始まっていると考えられる。(『折口信夫全集 第31巻』中公文庫)

伊那地方と言えば、柳田国男の出身地である。柳田の紹介で上伊那農学校に就職したのか、その経緯は不明である。柳田国男は、大正13年(1924)に東京朝日新聞社に入社している。

向山雅重は大正10年から昭和38年まで上伊那郡内の小中学校で教員を勤めていたので、もしかしたら楢木範行と交流があったかも知れない。

昭和2年9月19日付『宮崎新聞』に「風俗研究 はらめ打考」というテーマで投稿している。宮崎県の新聞に寄稿した原稿で、楢木家に遺されているのはこの記事だけである。どのような経緯で、地元紙に寄稿したのだろうか。今後、昭和2年の『宮崎新聞』をすべて確認していきたい。

192709楢木範行「風俗研究 はらめ打考」1『宮崎新聞』全頁 (2)

<新聞記事>

この時期に書かれた新聞記事が遺されているが、新聞名、年月日が記されていない。またペンネームを利用しているようである。以下に紹介しておく。

那ら紀清雪「戯曲動かされる者」1~2
宮田清雪「秋夜随想(一)ー亡父の霊に捧ぐー」
宮田清雪「秋夜随想(つづき)ー亡友の霊にささぐー」
宮田病葉「早春夜話」
昭和2年7月付新聞、楢木哀路「叙事詩青年は悩む 序 叙事詩に就て」
哀路作「狂ひ咲」『南信毎日新聞』(三幕の戯曲)1~4
楢木落葉「泉地を読んで」
楢木哀路「黒歯と女子元服との関係」昭和2年4月、1~4
楢木範行「春宵雑話抄(上)」

以下に参考のため新聞記事を掲載しておく。



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